第4話【水曜日】全方位記録生活
「……カシャッ」
耳元で響いたその微かな機械音で、俺の意識は強制的に覚醒した。
目を開けると、天井にあるはずのない「黒くて太いレンズ」が、俺の鼻先数センチの距離に突きつけられていた。
「……おはよう、先輩。……寝起きの目ヤニ、最高。……撮影完了」
「うわあああぁぁ!! 紬! お前、いつからそこに!?」
枕元に正座していたのは、無口なカメラ少女・紬だった。
透き通るような白い肌に、手入れを放棄したかのような無造作な黒のショートヘア。小柄な体をダボダボのオーバーサイズパーカーに包み、首からは使い込まれた一眼レフを2台もぶら下げている。
感情を読ませない三白眼気味の瞳が、今は獲物を見つけた猛獣のように妖しく光っていた。
「……朝3時から。……寝返りによる布団の乱れ、および無防備な鎖骨の角度。……すべて4Kで記録済み。……先輩、都会でついた『防衛本能』が鈍ってる。……私が24時間、その隙を埋めてあげる」
「隙を埋めるんじゃなくて、お前がその隙に侵入してきてるんだよ!」
この村、本当にプライバシーという概念が絶滅している。
都会じゃ誰の視界にも入らなかった俺が、今やこの美少女のハードディスクを物理的に圧迫しているなんて。
怖すぎるが、この「常に見られている」という感覚が、俺の空っぽだった存在意義を無理やり定義してくる。
登校中も、紬の「記録」は止まらない。
彼女は俺の斜め後ろ3メートルを維持し、忍者のような足さばきで音もなくついてくる。俺が電柱の犬に目を向けたり、道端の石を蹴ったりするたびに、軽快なシャッター音が響く。
「……記録。……石を蹴った時の、右ふくらはぎの筋肉の収縮。……尊い。……後でスロー再生して、村のサーバーに共有する」
「共有するな! 公共物の歩行ログを全国放送みたいに流すな!」
学校に着くと、さらなる絶望が待っていた。
教室の掲示板に、見たこともない巨大な50インチモニターが設置され、そこには「本日の佐藤駆くん」というタイトルで、俺の登校風景がリアルタイムのスライドショーで流されていたのだ。
「おーっほっほっほ! 見てご覧なさい駆さん! 紬さんの写真は、あなたの『野性』を見事に捉えていますわ!」
麗奈が誇らしげに扇子を振る。その横では、秋月が厳しい目でモニターをチェックしていた。
「紬さん、今のカットはピントが甘いわ。村の共有財産の美しさを損なうような記録は、歴史への冒涜よ。……でも、この『あくびをした瞬間のマヌケな顔』。これは佐藤くんの人間味を強調する資料として、永久保存リストに入れましょう」
「勝手にリスト化するな! 消せ! 今すぐ消せ!!」
「……消さない。……これは、私の10年間の『欠落』を埋めるためのパッチ。……先輩がいない間、私は空の風景ばかり撮ってた。……今は、先輩という『被写体』がある。……もう、一秒も逃さない」
紬が珍しく熱を帯びた声で呟き、至近距離でパシャリと俺の顔を撮った。
その瞬間、俺の中に奇妙な感覚が走った。
都会では、誰にも「記録」されなかった。写真一枚撮る相手もいなかった。
でも今は、俺が瞬きをするだけで、それを誰かが「大切」なものとして保存してくれる。
……狂ってる。
でも、この狂気が……なんだか温かいと思ってしまう俺は、もう手遅れなのかもしれない。
放課後、俺は紬に「撮影会」という名の連行をされ、村の思い出の場所を巡らされた。
「……先輩、そこに立って。……10年前、私に『カエルが怖い』って泣きついた、あの石段。……今の先輩で、その構図を再現する」
「そんな黒歴史、再現したくないよ!」
「……ダメ。……記録は、過去と現在を繋ぐ鎖。……先輩、逃げても無駄。……村中の防犯カメラ、全部私のタブレットと同期してるから。……あ、今夜は先生の家の換気口、少し緩めておいたから」
紬が不敵に微笑む(ように見えた)。
その夜、松田先生の家に戻ると、先生は俺のヘトヘトな顔を見て笑った。
「あら、佐藤。今日はだいぶ『撮られた』みたいね。紬の執着は、ある意味一番厄介よ。あなたの人生そのものを、自分のフォルダに閉じ込めようとしてるんだから」
「先生……俺、いつか自分の人生を動画サイトに無断転載される気分です……」
「ふふ、もうされてるようなものよ。……でもね、佐藤。そうやってみんなに『記録』されることで、あなたは本当の意味で、この村の『神様』になっていくのよ」
先生は俺の頬に手を添え、優しく微笑んだ。
窓の外では、紬が庭の木の上で、夜の俺を記録するために暗視カメラのセッティングを終える機械音がした。
都会の冷たい無関心。村の重すぎる執着。
俺は、紬のシャッター音を子守唄代わりに、深い、深い眠りへと落ちていった。




