第16話【月曜日3】帰還の螺旋
週末の余韻がまだ身体に残っている中、安らぎと執着が混ざり合った独特の匂いの中で、俺の意識は強引に現実へと引き戻された。
ドォォォオオオオン!!
「駆くーーん! 朝だよ! 筋肉が君を呼んでるよ!」
もはやアラーム代わりとなった雨戸の破壊音。
エントリーしてきた凛花は、もはや制服を着る手間すら惜しんだのか、身体のラインを完全に浮き彫りにした漆黒のトレーニングウェア姿だ。高く結い上げたポニーテールが、彼女の溢れんばかりの活力を物語っている。
「凛花……。せめて普通に玄関から入ってくれ……」
「ダメだよ! 駆くんを1秒でも早く背負うには、最短ルートが正義だもん。ほら、身体を預けて! 私の体温、先週より馴染んでるでしょ?」
(朝は、誰にも触れられず、死んだような静寂の中で学校へ向かうだけだった。でもここでは、彼女の火照った肌の熱と、有無を言わせぬ独占欲が、俺を無理やり「生」へと繋ぎ止める)
登校中、俺は凛花の背中の上で、この村の日常がより濃密に、より逃げ場なく変貌しているのを感じていた。
「……記録。……凛花さんの背中が、もはや先輩の『指定席』として完成された。……二人の境界線が溶け合う瞬間……完璧」
紬が、背中が大きく開いたバックレス・トップス姿で、電柱から電柱へと忍者のように跳び回りながらシャッターを切る。
彼女の三白眼は、俺の睫毛の震えすら逃さない。
「凛花さん、その歩法では彼の腰椎に負担がかかるわ。今の彼には、私の計算に基づいた『免震歩行』が必要よ」
秋月が、白衣の袖を捲り上げ、タブレットを片手に並走する。
ポニーテールを解いた彼女の黒髪が風に舞い、知的な美しさに狂気が混ざる。
「おーっほっほっほ! 秋月さん、健康管理などという地味なものではなく、わたくしが用意させた『黄金の移動ラウンジ』を使いなさいな!」
麗奈が扇子で指し示した先には、村のバス停を改造した、シャンデリアの輝く待機所が完成していた。
サマードレスの裾を翻す彼女の笑顔は、この村そのものを俺の寝室に変えようとする野心に満ちている。
「……駆。……影の糸……さらに深く……縫い込んだ。……もう……都会の夢なんて……見させない……」
零が、俺の足元を這うように歩き、俺の影を慈しむように撫でる。
白絹の衣装が風に揺れ、彼女の周囲だけが異界のように静まり返っていた。
昼休み。
黄金の別棟で豪華な食事を終えた後、凛花と俺以外が午後の「管理準備」のために一時席を外した。
不意に訪れた、静寂。
テラスの長椅子に座る俺の隣には、珍しく凛花だけがいて彼女はいつもの元気な声を潜め、俺の腕に頭を預けてくる。
「……ねえ、駆くん。こうして二人きりになると、思い出しちゃうね」
凛花の少し湿り気を帯びた瞳が、遠くの校庭を見つめた。
「覚えてる? 10年前、君が都会に行く直前のこと。……私がリレーの練習で転んで膝を擦りむいた時、君が『痛いの飛んでけ』って言いながら、私の手を引いて保健室まで歩いてくれたこと」
「ああ……。あの時は、今と逆で俺がお前を支えてたな」
「そうだよ。あの時、君の手がすごく温かくて……私は心の中で『行かないで』って100回以上叫んでた。でも、声に出せなかった。君が都会に行っちゃった後、私、毎日あの保健室の前の廊下を走ってたんだよ。いつか君を迎えに行けるくらい、誰よりも速く、誰よりも強くならなきゃって」
凛花が俺の腕を握る力が、少しだけ強くなる。
「だから今、君を背負ってるのはね、ただの『曜日担当』だからじゃないんだよ。……もう二度と、君に勝手に歩いて遠くへ行ってほしくないから。私の背中が、君の唯一の居場所になればいいって、本気で思ってるんだ」
彼女の熱い吐息が耳元にかかる。誰にも必要とされず、自分の足で歩くことすら虚しかった俺にとって、その執着はあまりにも甘美で、重かった。
「……凛花。俺はもう、どこにも行かないよ。……っていうか、この村の連中が逃がしてくれないだろ」
「当たり前だよ。……次は、私が君の手を引くんじゃない。私が君の足になって、一生離さないんだから」
「あら、二人で随分としっとりした空気じゃない」
背後から、松田先生の妖艶な声が響いた。
先生は俺の肩に手を置き、凛花を優しく、けれど牽制するように見つめた。
「都会の匂いなんて、もうどこにも残っていない。……心も、体も、未来も、全部この村の土に馴染ませてあげるから。……そうよね、凛花?」
先生の合図で、姿が見えなかった俺たちを探していた他の4人も一斉にテラスに戻り、俺を覗き込む。
右から凛花の過去からの情熱、左から秋月の計算、前から麗奈の資本、後ろから零の呪い、そして頭上から紬の記録。
「……ああ、逃げられない。……逃げたくない」
俺は、凛花の熱い肌の感触と、10年前から積もり積もった彼女たちの執着に抱かれながら、また新しい一日を深く受け入れた。
都会の自由という名の絶望よりも、この村の、愛という名の底なし沼。
俺たちの日常は、さらに熱く、さらに狂おしく、加速していく。




