第17話【火曜日3】同期する鼓動
火曜日の朝。
松田先生の家は、昨日までの凛花の熱気とは対極にある、冷徹なまでの「秩序」に支配されていた。
「……おはよう。0.1秒の誤差もなく、私の計算通りに目覚めたわね」
枕元に立っていたのは、ポニーテールを解き、艶やかな黒髪を肩に流した秋月だった。
今日の彼女は、知性を強調するタイトな白シャツに、細いフレームの眼鏡。そのレンズの奥にある瞳は、俺を愛おしむというよりは、顕微鏡で希少な細胞を観察する科学者のような、静かな狂気を孕んでいる。
「秋月……。お前、いつからそこに?」
「あなたが深い眠りに入り、都会の雑念を完全に排出した午前3時42分からよ。……さあ、佐藤くん。今日はあなたの『生体リズム』を、私の数値に完全に同期させる日。一秒たりとも、私の計算から外れることは許さないわ」
登校の道中、俺は秋月の管理がいよいよ細胞レベルまで達していることを思い知らされた。
「……記録。……秋月さんの指先が、先輩の首筋の脈動を常に探っている。……支配と従順の共鳴……32ギガ、確保」
紬が、今日は大胆なスリットの入ったロングスカート姿で、木々の間を縫うように移動しながらシャッターを切る。彼女のレンズは、秋月の指が俺の肌に触れる瞬間の「微かな赤らみ」を逃さない。
「秋月さん、同期もいいけれど、彼の心拍数を上げすぎないで。わたくしが用意させた『黄金の酸素カプセル・リムジン』なら、常に最適な気圧で彼を運べますのに!」
麗奈が、宝石を散りばめた日傘を差し、優雅にリムジンで並走する。
「……駆。……機械の数字……信じちゃダメ。……私の……呪術の波長に……合わせれば……もっと楽になれる……」
零が、俺の足元を這う影のように寄り添い、冷たい指先で俺の掌になぞるように呪印を書き込んでいく。
昼休み。
他の4人が午後の講義の準備で席を立った一瞬、秋月は黄金の別棟の資料室へ俺を連れ込んだ。
密閉された空間。
古い本の匂いと、彼女の纏う清潔な石鹸の香りが混ざり合う。
「……佐藤くん。これを見て」
秋月がタブレットを開く。
そこには、俺が都会にいた頃のSNSの投稿や、検索履歴、さらには歩数データまでがグラフ化されていた。
「これらは、あなたが都会で『誰にも見られていない』と思っていた時の記録。……悲しいわね。こんなに不規則で、孤独で、死に向かっているようなリズム。……私、これを見るたびに、あなたの心臓を止めてでも、私の手の中に閉じ込めておきたかった」
秋月が、俺を本棚に押し付けるようにして距離を詰める。眼鏡がわずかに俺の額に触れた。
「覚悟して。10年前、あなたが私に『勉強、教えて』って笑いかけてくれたあの日から、私の脳内の数式はあなたという変数で埋め尽くされているの。……もう、あなたの心拍一つ、呼吸一つ、私に無断で行わせるつもりはないわ」
「……秋月。お前、そんな前から……」
「ええ。あなたが都会で孤独だった間、私はこの村で、あなたを完璧に管理するためのシステムを構築し続けていた。……さあ、私の胸に耳を当てなさい。……聞こえる? これが、あなたの新しい『基準値』よ」
彼女のタイトなシャツ越しに伝わる、激しく、けれど計算された鼓動。
無機質な喧騒に慣れきっていた俺にとって、その「狂った正解」は、抗いようのない安らぎとなって全身に染み込んでいった。
資料室を出た俺を待っていたのは、相変わらずの賑やかすぎる面々だった。
「駆くーん! 秋月さんと何してたの? もしかして、私の知らない『数値』の話!? ズルい、私とも運動して心拍数上げようよ!」
廊下の曲がり角から凛花が飛び出してきて、当然のように俺の腕にぶら下がる。
「ちょっと凛花、はしたないですわよ! 駆さんはこれから、わたくしの手配した最高級のアフタヌーンティーを堪能する予定ですの。秋月さんの管理下にあるなら、栄養バランスも完璧ですわ!」
麗奈が強引に俺のもう片方の腕を引き寄せる。
「……記録。……取り合われる先輩。……不変の定点観測。……あ、今の表情、保存」
紬が至近距離でレンズを向け、零が俺の背後に音もなく立ち、俺のシャツの裾をぎゅっと握りしめている。
結局、夕暮れ時まで彼女たちの「おもてなし」という名の管理は続いた。
麗奈の用意したお茶を飲み、凛花に肩を揉まれ、秋月に明日の予定を叩き込まれ、紬にポーズを指定され、零に邪気払いの香を焚かれる。
都会にいた頃の、あの突き放されるような静寂とは無縁の、騒がしくて、重たくて、けれどどこか心地よい狂気。
「……疲れた……」
夜、ようやく解放されて自分の部屋のベッドに倒れ込む。
天井を見上げると、微かに零の焚いた香水の匂いが残っていた。窓の外では、紬のドローンの羽音が子守唄のように小さく響いている。
(……秋月の言った通りだ。俺の心拍も、呼吸も、もう俺一人のものじゃないんだな)
そんな諦めと、奇妙な充足感の中で、俺は深く沈み込むように目を閉じた。
明日は、どんな角度から俺が「記録」されるのか。
それを考える暇もなく、俺の意識は彼女たちが用意した完璧な眠りへと落ちていった。




