第七話 声
ミナは海底に横たわっていた。
光が揺れている。
白い粒が、ゆっくりと流れていく。
上下の感覚は曖昧で、
自分がどこにいるのかもはっきりしない。
だが——
(ここで終わる)
それだけは、確かだった。
《酸素残量:7%》
表示が淡く光る。
減っている。
確実に。
もう、戻れない。
戻る気もない。
(これで……いい)
そう思う。
だが、その思考の奥に、わずかな揺れがある。
何かが、引っかかっている。
胸の奥。
喉の奥。
(……なんで)
問いが浮かぶ。
(これで、よかったのかな)
初めてだった。
これまで、そんなことを考える必要はなかった。
生きる。
潜る。
回収する。
それだけで終わっていた。
未来を考える余裕も、意味もなかった。
だが今は違う。
終わると分かっているからこそ、
初めて“振り返る”。
(私……)
記憶が浮かぶ。
白い部屋。
灰色の準備区画。
黒い海。
それだけ。
誰かと触れた記憶はない。
声を聞いたこともない。
名前を呼ばれたこともない。
(……何もない)
空っぽだった。
生きていたはずなのに、
何も残っていない。
その事実が、静かに重く沈む。
《酸素残量:4%》
さらに減る。
胸が苦しい。
呼吸が浅くなる。
(……嫌だ)
その感情が、初めてはっきりと形を持つ。
嫌だ。
このまま終わるのは。
何もないまま、消えるのは。
(まだ……)
何を“まだ”なのか分からない。
だが、それでも——
終わりたくない。
その瞬間、目の奥が熱くなった。
視界が滲む。
(……?)
水滴。
内側から。
涙。
それが、自分の意思と関係なく溢れてくる。
止まらない。
流れる。
理由は分からない。
だが、止まらない。
(苦しい)
胸が痛い。
喉が詰まる。
呼吸が崩れる。
(なんで……)
言葉にならない思考が溢れる。
後悔。
もし。
あの時。
違う選択をしていたら。
そんな意味のない仮定が、次々と浮かぶ。
(もっと……)
何かが欲しかった。
何かを知りたかった。
何かに触れたかった。
(あの歌……)
それだけが、鮮明に残る。
あの不完全な音。
あの揺らぎ。
あの、確かに“そこにあったもの”。
(もう一回……)
願いが、はっきりとした形になる。
その瞬間——
喉が、震えた。
(……あ)
ミナは気づく。
ここ。
この場所。
ずっと使われていなかった器官。
声帯。
ミナは口を開いた。
方法は分からない。
やり方も知らない。
だが——
出したい。
その衝動だけが、全てを上書きする。
息を吐く。
喉に力を入れる。
無理やり、押し出す。
「———ッ……!!」
音にならない。
歪んだ振動。
擦れた空気。
それでも——
確かに“出た”。
初めて。
この身体から。
声が。
ミナはさらに力を込めた。
喉が裂けるような感覚。
痛み。
だが止めない。
「——あ……ッ……!!」
不完全な音。
言葉にならない。
意味もない。
それでも——
叫びだった。
防護服を通して、振動が外へ伝わる。
海へ。
暗い水の中へ。
広がる。
揺れる。
消えていく。
そして——
再び、静寂。
何も返ってこない。
何も起きない。
ただ、沈黙が戻る。
(……終わりか)
ミナは力を抜いた。
もう、出せない。
喉が焼けるように痛む。
呼吸も限界に近い。
《酸素残量:1%》
最後の表示。
(終わる)
今度こそ。
そう思った、そのとき——
“何か”が、届いた。
遠くから。
微かに。
だが確かに。
(……?)
揺らぎ。
波。
あのときと同じ。
不完全で、曖昧で、
そして——
“歌”。
ミナの意識が、再び引き戻される。
遠く。
暗い海の奥。
そこから、ゆっくりと近づいてくる。
長い。
深い。
包み込むような旋律。
(来てる……)
理解する。
あれは、幻ではない。
確かに存在している。
そして——
自分の“声”に、応えた。
その事実が、ミナの中で確定する。
歌は、少しずつ強くなる。
近づいてくる。
暗闇の中を、まっすぐに。
ミナの元へ。
(会える……)
その思考が浮かんだ瞬間、
胸の奥がわずかに軽くなる。
苦しさが、ほんの少しだけ和らぐ。
終わるはずだった時間が、
わずかに引き延ばされる。
歌は、止まらない。
沈黙の海の中で、
ただ一つ、確かに存在する音。
そして——
それは、すぐそこまで来ていた。




