第五話 残り時間
潜航命令は、いつも通り届いた。
《採掘任務:再開》
《対象:下層作業員 M-0714》
何も変わらない。
ミナが生還したことも、
未知の有機物が発見されたことも、
この命令には一切影響していなかった。
(また、潜る)
それだけだった。
ミナは準備区画に立っていた。
灰色の壁。
鈍い光。
水滴の残る床。
そして、同じように装備を着ける人間たち。
誰も何も言わない。
言う必要がない。
死は日常であり、
それについて共有する価値はない。
ミナは防護服を手に取った。
重い。
だが、それだけではない。
(……前より、重い)
違和感がある。
腕を通す。
関節を固定する。
気密を閉じる。
いつもと同じ手順。
だが、動きがわずかに遅れる。
指先が、少し鈍い。
(おかしい)
ヘルメットを装着する。
視界が安定する。
そのとき、自分の手が目に入った。
黒い手袋。
だが、その内側。
皮膚の色が、わずかに違う。
(……?)
変色。
薄く、くすんだような色。
健康な色ではない。
ミナはゆっくりと手を握る。
力は入る。
だが、感覚が薄い。
(これ……)
理解は、すぐに来た。
被曝。
この海に潜る者は、例外なくそれに侵される。
防護服は完全ではない。
時間と共に、確実に内部へ浸透する。
それが蓄積する。
そして——
壊れる。
《気密確認。許容範囲内》
またその言葉。
“許容範囲”。
ミナはそれを聞きながら、静かに思う。
(許容されてるのは……死ぬまで、だ)
そのとき、胸の奥に違和感が走った。
小さな痛み。
鋭くはない。
だが、確実に“そこにある”。
(……息)
呼吸が、わずかに乱れる。
装備が補助しているため、表面上は問題ない。
だが、内部のリズムが崩れている。
吸う。
吐く。
その繰り返しが、少しだけ不安定になる。
(もう、始まってる)
それは恐怖ではなかった。
ただの確認。
終わりに向かっている。
それだけ。
外部ゲートが開く。
黒い海が広がる。
ミナは、歩き出した。
⸻
水に入る。
圧が増す。
暗さが深くなる。
何も変わらない。
だが——
(重い)
身体の動きが鈍い。
推進のタイミングがわずかにずれる。
(こんなに……?)
前回と同じ深度。
だが、負担が違う。
関節がきしむ。
筋肉が追いつかない。
それでも進む。
止まる理由はない。
止まれば、終わる。
作業地点に到達する。
崩れた構造物。
沈んだ金属。
いつもの景色。
ミナは工具を起動した。
削る。
剥がす。
回収する。
単純な動作。
だが、その一つ一つに“遅れ”がある。
(……遅い)
自分でも分かる。
反応が鈍い。
集中が続かない。
胸の痛みが、少しずつ広がっていく。
《作業効率低下》
《調整を推奨》
システムが介入してくる。
ミナは無視した。
(どうでもいい)
効率ではない。
もう、それは問題じゃない。
(あと、どれくらい)
思考が変わる。
未来ではなく、“残り時間”を考えるようになる。
それは自然な変化だった。
この世界では、誰もが知っている。
自分がどこまで生きられるか。
長くはない。
成人するまで、ほとんどが持たない。
ミナも例外ではない。
ただ、それが“今だ”と分かっただけ。
(近い)
その確信が、静かに沈む。
恐怖はない。
だが——
(まだ……)
その先が、続かない。
何を“まだ”なのか、自分でも分からない。
ただ、終わるには何かが足りない。
そのとき、胸が強く痛んだ。
思考が途切れる。
視界が揺れる。
呼吸が乱れる。
(……苦しい)
初めて、明確に“苦しさ”を認識する。
装備が補助している。
だが、それでも足りない。
内部が崩れている。
ミナは手を止めた。
動けない。
その場に膝をつく。
海底が近い。
暗い。
静か。
(ここで……終わる?)
前回と似ている。
だが違う。
今回は、自分の中から壊れている。
外ではない。
内側。
ミナはゆっくりと横になった。
冷たい。
何も感じないはずの海底。
それでも、そこに“在る”感覚だけが残る。
(終わるの、早かったな)
思考は淡々としていた。
十四年。
それが、自分の時間。
短いとも思わない。
長いとも思わない。
ただ、そこまでだった。
(でも——)
そこで、あの感覚が蘇る。
白い物体。
あの“歌”。
(あれ、もう一回……)
その願いが、初めて明確な形を持つ。
欲しい、と思う。
それが何か分からなくても。
それでも。
(あれを……)
呼吸が乱れる。
視界が暗くなる。
意識が遠のく。
だが——
完全には落ちない。
何かが、まだ繋ぎ止めている。
ミナはゆっくりと目を開けた。
暗い海。
沈黙。
だがその奥に——
(……どこかに、ある)
確信だけが残る。
あの“本物”が、まだどこかにある。
それを見つけるまで、終われない。
その思考が、わずかに身体を動かした。
ミナは、再び立ち上がった。
遅い。
不安定。
それでも——
一歩、前へ進む。
死はすぐ後ろにある。
だがその前に、まだ“何か”がある。
それを掴むまで、ミナは止まらなかった。




