第三話 海溝の底
作業は続いていた。
何も変わらないように見える。
一人が死に、だがそれは“想定内の損失”として処理される。
ログは更新され、任務は継続される。
それがこの世界の正常だった。
ミナも、再び手を動かしていた。
(動かないと……)
思考は鈍い。
だが止まれば、それは死と同義になる。
金属を削る。
破片を回収する。
コンテナに詰める。
単純な反復。
それだけで時間が過ぎていく。
だが——
(さっきの……)
視界の端に残っている。
あの少女の動き。
声にならなかった“声”。
(消えない)
脳が、処理しきれていない。
そのとき、足元の地形が崩れた。
わずかな振動。
(……え)
遅れる。
次の瞬間、床が消えた。
ミナの身体が、沈む。
落下。
重力は弱い。
だが止まらない。
崩れた金属と一緒に、下へ、下へと引きずり込まれる。
《異常検知》
《深度逸脱》
《帰還ルート喪失》
警告が流れる。
だが、もう遅い。
ミナは暗い裂け目の中へ落ちていった。
どれくらいの時間が経ったのか、分からない。
意識が浮上する。
ゆっくりと目を開ける。
暗い。
だが完全な闇ではない。
微かな光が、どこかから滲んでいる。
(……生きてる)
まず、それを確認する。
身体は動く。
痛みもある。
装備も、完全ではないが破損は致命的ではない。
だが——
《位置不明》
《帰還経路未検出》
《酸素残量:31%》
表示が現実を突きつける。
(帰れない)
理解は早かった。
ここは海底よりさらに深い。
亀裂の底。
通常ルートから完全に外れている。
通信も届かない。
救助も来ない。
(終わりだ)
あっさりとした結論だった。
恐怖は、すぐには来ない。
ただ、事実だけがそこにある。
ミナは立ち上がり、歩き出した。
歩くしかない。
どこかに出口があるかもしれない。
そう思うしかない。
だが、景色は変わらない。
岩。
崩壊した構造物。
沈んだ残骸。
どこまでも続く、死んだ世界。
(どこ……)
方向が分からない。
上下の感覚も曖昧になる。
ただ、進む。
進み続ける。
だが、何も見つからない。
時間だけが減っていく。
《酸素残量:18%》
(……無理だ)
その時点で、ようやく理解が感情に変わる。
帰れない。
助からない。
ここで終わる。
ミナは歩くのをやめた。
ゆっくりと、その場に座り込む。
そして、横になる。
海底の冷たさは感じない。
だが、確かにそこに“何か”がある。
(ここで……終わるんだ)
思考は静かだった。
泣くこともない。
叫ぶこともない。
そういう機能は、もう人類から消えている。
ただ、終わることを受け入れるだけ。
そのとき、視界の端に何かが映った。
白い。
この海の中では、明らかに異質な色。
(……?)
ミナはゆっくりと手を伸ばした。
拾い上げる。
軽い。
表面は滑らかで、わずかに湾曲している。
金属ではない。
石でもない。
(これ……)
分からない。
だが、“人工物ではない”ことだけは直感的に分かる。
こんなものは、これまで見たことがない。
ミナはそれを見つめた。
(なんだろう)
考えても、答えは出ない。
だが、その形はどこか奇妙に感じた。
“何かの一部”のような。
かつて存在していたものの残骸のような。
《酸素残量:9%》
時間が尽きる。
(もういいか)
ミナはその白い物体を握ったまま、目を閉じた。
終わる。
ここで終わる。
それだけだ。
そのとき——
“何か”が、届いた。
音ではない。
だが、音に近い。
振動でもない。
だが、確かに“波”がある。
ゆっくりと。
長く。
そして、不規則でありながら、どこか整っている。
(……なに、これ)
初めての感覚だった。
VRの信号とは違う。
脳波通信とも違う。
もっと曖昧で、もっと不完全で、
そして——
どこか、温かい。
“鳴き声”のような。
“歌”のような。
その何かが、沈黙の海に流れている。
(聞こえる……)
ミナの意識が揺れる。
それを理解しようとした瞬間、
逆に意識が遠のいていく。
酸素が尽きる。
視界が暗くなる。
だが、その“歌”だけは消えない。
ゆっくりと、深く、包み込むように続いている。
(……きれい)
その感情が、最後に残った。
そして——
意識は完全に途切れた。
目を開ける。
光。
白。
天井。
(……ここは)
呼吸がある。
空気がある。
身体が軽い。
(生きてる?)
理解が追いつかない。
視界が安定する。
ここは——
潜水艇の内部。
回収区画。
《対象M-0714、生存確認》
《回収成功》
ログが流れる。
ミナはゆっくりと手を見た。
握っている。
何かを。
白い物体。
あの海底で拾ったもの。
(持ってきた……?)
ありえない。
あの状況で、回収される保証はなかった。
それでも、手の中に残っている。
それは確かに“そこにある”。
後日。
分析結果が出た。
《対象物:有機物》
その一文だけで、空気が変わった。
《分類:骨組織》
ありえない。
この海には、生命はいない。
すべて死に絶えている。
それは数百年前に確定した事実だった。
だがさらに——
《推定経過年数:10〜20年》
沈黙が走る。
その情報は、明らかに“おかしい”。
生物は存在しないはず。
それなのに、この骨は新しい。
上層の解析官たちは、初めて“判断不能”の領域に触れた。
《記録保留》
《再解析》
《外部流出禁止》
命令が重なる。
だが結論は出ない。
ミナはその報告を受け取る。
ただ静かに。
(あれは……)
あの海底で。
あの歌と一緒に。
確かに“そこにあったもの”。
意味は分からない。
だが——
何かが、まだこの世界に残っている。
そう思った。
沈黙の海の底で。
確かに、何かが“生きていた”。




