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声のない世界の歌  作者: みえない糸


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第二話 沈むもの

気密扉が閉じると、空気が変わった。


無音は同じはずなのに、質が違う。

居住区の静寂は“整えられた無音”だったが、ここにあるのは、ただ削り取られただけの静けさだった。


準備区画は薄暗い。

白ではなく、鈍い灰色の壁。

天井を走る配管と、無数のフック。

床には水滴が点々と残り、金属の匂いが漂っている。


(ここは、現実だ)


ミナはそう思う。


VRでは感じなかった“重さ”が、身体にまとわりつく。

重力ではない。

もっと曖昧で、逃げ場のない圧迫感だった。


《装備着用を開始してください》


指示が届く。


周囲にはすでに数人の作業員がいた。

誰も視線を合わせない。

互いの存在を認識していないわけではない。

だが、認識する必要がない。


会話は脳波で済む。

視線も、表情も、動作も、すべてが“冗長な情報”だった。


それでも、同じ空間に人がいるという事実は、わずかな違和感を残す。


(近い……)


VRでは距離は自由だった。

だがここでは、他人の身体が確かに“そこにある”。

その事実だけが、どこか落ち着かなかった。


ミナはラックから防護服を引き出す。


厚い。重い。

表面は鈍く濁った黒。

ところどころに補修跡があり、完全ではないことが一目で分かる。


貧困層用の装備は、常に“ぎりぎり”で運用される。

完全な防護は与えられない。

壊れるまで使い、壊れたら次を回す。


ミナは無言でそれを身につけた。


関節が軋む。

密閉が完了し、内側の圧がわずかに変わる。


《気密確認。許容範囲内》


許容範囲。

それは安全を意味しない。

ただ、“すぐには死なない”というだけだ。


ヘルメットが降りる。

視界が狭まる。


世界が一段階、遠くなる。


(これで……外に出られる)


そのとき、隣で小さな動きがあった。


一人の作業員が、装備の接続に手間取っている。

手が震えているのが分かる。


ミナは一瞬だけ視線を向けた。


そして、気づく。


(あ……)


細い体格。

同じくらいの年齢。

ヘルメット越しに見える目の動き。


VRで見た顔とは違う。

当然だ。アバターは自由に作られる。


だが、思考の“癖”は似ている。


《大丈夫?》


ミナは送る。


一瞬の遅れ。


《……うん》


返ってきた。


その応答の間。

その“間”が、VRの広場で交わしたものと同じだった。


(この子……)


《さっき、広場にいた?》

《うん》

《潜るの、初めて?》

《……二回目》


ほんの短いやり取り。

だがそれだけで、確信に変わる。


同じ接続者。

同じ下層。


そして——


(同じ側の人間)


それ以上の会話はなかった。


必要がない。

どうせ潜れば、全員が同じ状況になる。


外部ゲートが開く。


空気が引き抜かれ、圧が変わる。

その変化すら、ほとんど感じない。


完全に管理された移行。


やがて、目の前に“海”が現れた。


黒い。


それが最初の印象だった。


光が届かないわけではない。

だが、水そのものが濁り、何かが常に漂っている。


粒子。

腐食物。

崩壊した何かの残骸。


それらがゆっくりと動き、海全体が“生きていないのに動いている”ように見えた。


ここには、もう生命はいない。


魚も、藻も、微生物すら存在しない。


ただ、死だけが均一に溶けている。


《潜航開始》


命令が落ちる。


ミナは足を踏み出した。


海へ。


水が装甲を叩く。

音は聞こえない。


だが、圧は分かる。


重い。

外側から押し潰されるような感覚。


それでも進む。


ゆっくりと、深く。


仲間たちも同じように沈んでいく。

距離を保ちながら、無言で。


全員が、同じ目的で。


——掘るために。


——生きるために。


時間の感覚が曖昧になる。


どれだけ潜ったのか分からない。

ただ、深度表示だけが淡々と数値を更新していく。


五千。

五千三百。

五千八百。


やがて、海底の影が見え始める。


崩れた構造物。

沈んだ街。

ねじれた金属。


過去の文明の残骸。


ここから、掘る。


ミナは工具を起動し、金属片に手をかけた。


そのとき——


視界の端で、何かが弾けた。


隣の作業員。


さっき、会話した少女。


装備の一部が、裂けている。


(……あ)


思考が止まる。


裂け目は小さい。

だが、この海では致命的だった。


次の瞬間、液体が侵入する。


ゆっくりではない。

一気に、内部へ流れ込む。


少女の身体が反応する。


大きく震える。

手が暴れる。


声は出ない。


出せない。


喉は動かない。

声帯はもう、使い方を知らない。


だから、悲鳴は存在しない。


ただ、動きだけが激しくなる。


装甲の内側で、皮膚が溶けていく。

酸が侵食する。

肉が崩れる。


ミナの視界に、その過程が映る。


逃げようとしている。

だが、足がもつれる。


助けを求める“動き”だけがある。


(助けて……って、言ってる)


言葉はない。

だが、それだけは分かる。


誰も動かない。


動けない。


接触すれば、自分も終わる。


それがルールだった。


数秒。


それだけで、終わる。


動きが止まる。


少女はその場で崩れ、海底に沈む。


静かに。


あまりにも静かに。


(さっきまで……)


VRの広場で、話していた。


《おはよう》と、言っていた。


それが、今はもう存在しない。


ミナは手を止めたまま、動けなかった。


脳内にログが流れる。


《作業継続》

《損失許容範囲内》

《任務優先》


冷たい。


あまりにも冷たい。


それは正しい判断だった。

だが、それだけだった。


ミナはゆっくりと喉に意識を向ける。


何かが、そこに引っかかる。


熱。


震え。


知らない感覚。


(……あ)


口が、わずかに開く。


音は出ない。


出し方が分からない。


それでも——


かすかに、空気が震えた。


誰にも届かない、かすかな揺れ。


それは言葉にもならない。

意味も持たない。


だが確かに、そこにあった。


人間が、かつて持っていたものの残骸。


声。


ミナはそれを感じたまま、動かなかった。


海は変わらず、黒く濁っている。


誰も何も言わない。


言えない。


この世界には、もう声がない。


それでも——


何かが、まだ消えていなかった。

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