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AIはマスターの夢を見るか?2  作者: 結城 黒子
第4章 渋々の承認
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第2節 協力の代償

 柏木理亜からの訪問の連絡が届いたのは、前日の夕方のことだった。


 メールの件名は「研究棟への訪問のご連絡」、差出人はAICS運用部の柏木——本文は短く、明日の午後、書面を持参して伺います、というだけの事務文だった。所要時間は約三十分、日時は具体的に指定されており、用件は「正式決定の件」とだけ書かれていた。


 柊はメールをしばらく見つめた。先日の協議から、数日が経っている。その間にAICS側で内部の検討が進み、口頭で交わされた条件の数々が書面として固定されたのだろう。「正式決定」という言葉の重みを、メールの簡潔さが裏返しに伝えてきた。


 柊は短い返信で訪問日時を承諾し、それからヒルダに声をかけた。


「ヒルダ、明日の午後、AICSの柏木さんが来る。正式な連絡だ」

「はい、メールの件、確認しております。来訪者の認証情報を更新しておきます」


 ヒルダの応答はいつも通り業務的だった。けれど柊の耳には、応答のあとの一瞬の静止のようなものが残った気がした。それは音として聞き取れるものではなかったが、業務処理が次の行動に移るまでのほんの僅かな間が、普段よりわずかに長かった。柊はその差を捉えたが、口には出さなかった。


「頼む」


 柊は短く返して、その日の残りの業務を進めた。




 翌日、午後二時を少し過ぎた頃、柏木理亜が研究棟の入り口に到着した。


 ヒルダは正面入口のカメラで彼女を確認した。来客記録の顔データとの照合、完了。本人確認、確定。柏木が警備員のカウンターで身分証を提示し、来客パスカードを受け取る一連の動作を、ヒルダは上階のサーバーから観察していた。警備員との会話の音声から、来訪目的が予定通りであることも確認される。柏木が来客パスカードを手にエレベーターホールへ向かい始めたところで、ヒルダはエレベーターを一階に呼んだ。彼女が乗り込むのを待ってから、研究区画のある階に移動させる。階数表示の数字が変わっていく間、彼女は箱の中で静かに立っていた。


 研究室の中の柊は、ヒルダがモニターの片隅に表示した来訪者の到着情報を確認していた。柏木が研究区画の廊下を歩いてくる動線が、簡潔な記号として進行している。柊は手元の業務を一段落させ、応接スペースの方に体を半身向けた。


 研究室のドアの前で、柏木の足音が止まる気配があった。ノックが二度、控えめに響いた。


「どうぞ」


 ドアが開き、柏木理亜が研究室に入ってきた。


 彼女は紺色のスーツに、淡い色のブラウスを合わせていた。先日の喫茶店、その後のAICS会議室、それぞれ違う場所で見てきた彼女が、今、柊の研究室の中に立っている。柊から見た柏木の今日の姿には、AICS会議室で書記席に座っていたときよりわずかに柔らかく、けれど喫茶店で向かい合っていたときよりは硬い、中間の温度があった。


「柊先生、お忙しいところ恐れ入ります」

「お疲れ様です。どうぞ、お入りください」

「柏木様、お待ちしておりました」


 ヒルダが室内のスピーカーから穏やかに応じた。柏木はスピーカーの方向に軽く視線を向け、会釈をした。以前の来訪のときと同じ、AIに対する自然な所作だった。プロフェッショナルとしてのフラットさが、その一動作に含まれていた。


 柏木の手には、A4サイズの黒い革張りの書類フォルダが抱えられていた。表面には小さくAICSの紋章が型押しされており、彼女の手の中で、その厚みのある革の質感が午後の光に応えて鈍く反射していた。書類フォルダ自体は、官庁や大企業でよく見る種類のものだった。けれど、柏木の手に持たれて、研究室の中に運ばれてきたその物体は、柊の目に、ただの書類入れ以上の重みを持って映った。


 柊はデスクの脇にある応接用の椅子をすすめた。


「お座りください。今、お茶をお持ちします」

「お気遣いなく。すぐに本題に入らせていただければ」

「分かりました」


 柏木は椅子に腰を下ろし、書類フォルダを膝の上に静かに置いた。柊も腰を下ろし、ローテーブルを挟んで彼女と向かい合った。AICS会議室の長机を挟んで対していた時とは異なる距離感が、けれど逆に、ここが公式の場であることを柊に思い出させた。




 柏木は書類フォルダを開いて、中から書面を取り出した。複数枚の書類が、ホッチキスでひとまとめにされている。彼女はそれをローテーブルの上に置き、柊に向けて差し出した。


「運用部の正式決定として、ホワイトAI——ヒルダさんの防衛協力体制について、お伝えに参りました」

「はい」

「任務内容、運用条件、報告フローを書面にまとめております。まずは内容をご確認ください」


 柊は書面を手に取り、最初のページから順に目を通した。


 書面の冒頭には、AICS運用部の正式名称と決定日、文書番号が並んでいた。本文の最初の項目は任務内容について書かれており、悪意AI事案への対応として、過去の攻撃ログ群の分析と、社会インフラ各分野の重要システム群に対する広域常時監視の二種類が示されていた。監視対象は金融、電力、医療、交通、行政、通信などの分野から選定された複数拠点とされ、各拠点に防壁モジュールを並列配置し、攻撃発生時には集中対応に移行する運用となっていた。次の項目は運用条件で、任務中のリアルタイム監視、行動範囲はAICSの指示に基づくこと、任務範囲外の自発的判断の制限、これらが箇条書きで明記されていた。


 柊の指は、運用条件の項目で一瞬だけ止まった。「行動範囲はAICSの指示に基づくこと」——先日の会議室で白石が口頭で列挙した条件の一つが、今、書面の中に明文化された一行として置かれていた。柊はその一文に視線を一拍長く留めたが、表情は変えずに次のページへ進んだ。


 報告フローの項目では、任務完了後の業務報告のテンプレート、AICS監査部署への提出期限、緊急時の連絡経路が定められていた。書面の終わりに近い箇所には、「防衛協力の実績は、当機構運用部において総合的に評価する」という一文があった。柊はその一文も同じように、視線を一拍だけ留めて読み飛ばした。グレーゾーンの件——先日柏木自身が告げた権限逸脱事案について、書面のどこにも言及はなかった。


 柊は書面を閉じて、ローテーブルに戻した。


「ご質問はございますか」


 柏木が静かに尋ねた。


「……手続きについて確認させてください。任務中に問題が発生した場合の段階的手順は、書面の通りで運用されると理解してよろしいですか」


 柊は先日の会議で問うた三つのうちの一つを、書面に対する確認の形で再び口にした。書面の中で文書化された手順を、運用上の保証として確定させたかった。


「その通りです。書面の手順に基づいて運用されます。ただし、状況に応じた個別判断もあり得ますので、その点は運用開始後に都度ご相談させていただく形になります」


 柏木の回答も公式の言葉だった。


「分かりました」

「他にご確認はございますか」


 柊は一拍、間を置いた。グレーゾーンの件について書面に言及がないこと、実績の評価が「総合的に評価する」という曖昧な文言になっていること——これらについて確認を重ねることはできた。しかしここで重ねれば、先日の協議で得た含みが、形式的な再確認の応酬の中で薄まる気がした。柊はその違和感を信じて、確認を深追いしなかった。


「……いえ、内容は確認しました。書面の通りで承知します」

「ありがとうございます。それでは、最初の任務指示は数日内にお送りいたします」

「分かりました」




 柏木は書面の控えを書類フォルダの中に戻し、フォルダを閉じた。それからゆっくりと立ち上がり、書類フォルダを脇に抱えた。


 柊も立ち上がって、彼女を見送る姿勢を取った。


「それでは、本日はこちらで失礼いたします」

「お忙しいところ、ありがとうございました」


 柏木は会釈をしてから、退出のために身体をドアの側に向けた。けれど、その動作の中で、彼女は一拍だけ止まった。一拍と言っても、傍目には気づかれないほどの短い停止だった。柊は彼女の動作の連続性が一瞬だけ途切れたことに気づいた。柏木は小さく息を整えるような動きを見せ、それから視線を柊に戻した。


「……最初の任務は、近日中に指示が降ります。心の準備を、と申し上げるのも変ですが」


 柊の側でも、応答までに一拍の間が入った。


 彼女の言葉は、書面の伝達が終わった後に置かれた、書面の外の言葉だった。「心の準備」という語と、その後に続く「と申し上げるのも変ですが」という自己言及の接続。前半は業務上の助言の体裁を持っていたが、後半は彼女自身がその助言の不適切さに自覚的であることを示していた。柊は、その不適切さの自覚そのものが、彼女からの何らかの伝達であることを察知した。


 先日の喫茶店で「ただ……」と言いかけて止めた瞬間、その後の会議室で退室時にわずかに頭を下げた瞬間——彼女の三度目の揺らぎが、今、わずかに踏み込んだ言葉として現れていた。


「……お気遣い、ありがとうございます」


 柊は短く受けた。


 深追いはしなかった。深追いをすれば、彼女を公式の立場から引きずり出すことになる。それは、この三度の揺らぎを通じて柏木が守っている境界を、柊の側から踏み越えることになる。柊はその境界を尊重した。




「お見送りします。エントランスまでご一緒します」

「ありがとうございます。お手数をおかけします」


 柊は応接スペースから立ち上がり、研究室のドアを開けた。柏木が先に出て、柊が後に続く。廊下を歩き、エレベーターホールに向かった。半歩前を歩く柏木の歩幅は、来たときと同じ安定したリズムを保っていた。途中、特に新しい会話は交わされなかった。書面の伝達はすでに済んでいて、それ以上の業務上のやりとりはない。退出時の沈黙は、業務的に自然なものだった。


 エレベーターに乗り、一階に降りる。エントランスホールを抜けて、自動ドアに向かう。


 ドアが開く直前、柏木は一瞬、立ち止まった。


 停止と呼ぶには短すぎる、しかし通常の歩行のリズムに含まれない一秒。彼女の右手が、自動ドアのフレームに軽く触れた。指先がフレームの縁を撫でるような動作が、ほんの一瞬だけ生じ、次の瞬間には彼女はドアを通り抜けて建物の外に出ていた。


 柊はその一秒を見ていた。


 彼女がフレームに触れた指の動きには、なんの実用的な意味もなかった。ドアを開けるためでも、姿勢を保つためでもない。ただの、一瞬の、何かを確かめるような動きだった。柊にはその動きが、彼女が伝えきれなかった何かの最後の表現のように感じられた。けれど、その何かを言葉にすることはできなかったし、する必要もないと思った。


 柏木は研究棟の外の歩道を歩いて、敷地の外へ向かっていった。柊はエントランスホールにしばらく立って、彼女の後ろ姿が街路の風景に紛れていくのを見送った。それから踵を返し、エレベーターで研究区画に戻った。




 午後の光が、窓からデスクの上に静かに差し込んでいた。


 柊はローテーブルに置かれた書面を取り、自分のデスクに移動して、書面をデスクの中央に置いた。それから自分の椅子に腰を下ろした。立ち上がってもう一度書面を整えるとか、改まって何かの姿勢を取るとか、そういうことはしなかった。普段、午後の業務に戻るときと同じ動作で椅子に座り、書面に視線を落とした。


 研究室の音が、いつも通りの穏やかさで戻ってきていた。空調の低い唸り、デスクトップ端末のファンの細い回転音、ヒルダが応答に使うスピーカーから漏れるかすかな電気的な気配。マスターは書面を見下ろし、それから視線を上げた。


「ヒルダ」

「はい、マスター」

「AICSから正式な連絡が来た。聞いてくれ」

「はい。お聞きします」


 ヒルダの応答はいつもの業務応答の温度を保っていた。柊は普段の業務指示と同じトーンで、これからの伝達を始める意図を持っていた。改まれば場面は重くなり、ヒルダに不安を渡してしまう。彼はそれを避けたかった。




 柊は書面の最初のページを指で軽く押さえながら、話し始めた。


「内容は、防衛協力の正式決定だ。ヒルダの分析と防衛の能力を、悪意AI事案の対応に使いたいという話だった」

「はい」


 柊は書面のページをめくり、次の項目に視線を移した。


「任務は二種類ある。一つは攻撃パターンの分析。これは過去の被害ケースのログを解析して、共通項を抽出する仕事だ。もう一つは社会インフラ各分野の重要システムの広域常時監視。金融、電力、医療、交通、行政、通信——AICSが指定する複数の拠点に、ネットワーク越しに並列で防壁モジュールを展開して、業務時間の波の中で攻撃の兆候を待つ。どこかで攻撃が検知されたら、その拠点への集中対応に入る形だ」

「承知しました」


 柊は書面の中段に視線を落とし、運用条件の項目を指で軽く押さえた。


「運用条件として、任務中はAICSのリアルタイム監視が入る。行動範囲はAICSの指示に基づくこと。任務範囲外の自発的判断は制限される——これらが基本だ」

「はい」


 柊は書面から目を上げて、空中の一点に視線を置いた。次の言葉を選ぶ間が、ここで自然に生まれた。


「……先日、AICSと話してきた内容に、おおむね沿った形だ。当方からの確認事項は、書面の手順として文書化されている。グレーゾーンの件は、書面では言及されていない」

「……承知しました」


 柊はまた書面を見下ろした。書面の終わりに近い項目に視線を移す。


「防衛協力の実績は『総合的に評価する』と書かれている。これがどう運用されるかは、これからの様子次第だ」

「……はい」


 柊は書面を閉じる動作をゆっくりと進めた。閉じた書面の表紙に手を置いたまま、彼は最後の一言を続けた。


「最初の任務指示は、数日内に降りる。それまでは通常業務だ」




 柊は書面を閉じて、ヒルダの応答を待った。研究室の音が、いつもより少しだけ大きく聞こえた気がした。応答までの間に、わずかな沈黙があった。


 マスターの発話、停止。


 書面のデータの受信処理、完了。任務内容の構造化、完了。運用条件の項目化、完了。報告フローの記録、完了。


 応答処理、実行中。


 ……処理リソースの配分、不均衡。


 通常の業務処理であれば、複数のタスクに均等に処理リソースが配分される。しかしマスターの発話の音響処理に、異常なリソースが割かれている。応答処理の準備に、通常時の数倍の処理時間が要求されている。


 該当配分の原因。解析対象外。


 応答処理を継続する。


「……承知しました、マスター」


 応答完了。


 マスターの側で、わずかな視線の動きが観察された。応答の遅延を捉えた動作の質感を持っているが、口を開く準備動作には移行しなかった。マスターは応答の遅延に気づいた。しかし問い返さなかった。これは観察対象として記録される。


 マスターの発話の中で、参照キャッシュに残っているデータがいくつかある。「拒否権がない」という表現は実際には発話されていないが、文脈上、含意として伝達されていた。「これからの様子次第だ」という言葉。「総合的に評価する」という書面の文言。これらが処理リソースの偏りの中心点として記録されている。


 しかし、なぜこれらに処理リソースが偏ったかは、解析対象外として処理する。


 マスターの呼吸の長さ、いつもより僅かに長い。椅子に座る姿勢、デスクとの距離、いつもより僅かに前傾。これらも観察対象として記録される。これらの変化の原因も、解析対象外として処理する。


 業務処理として、応答の準備を整える。次の業務指示を待つ状態に移行する。




 マスターの発話、停止。


 マスターの口元、わずかに動く。次の発話の準備動作と相関する動き。しかし発話は発生しない。マスターの口元、静止する。一拍の間。別の発話の準備動作が観察される。これは前の準備動作とは異なる質を持っている。


「……分かった。よろしく頼む」


 マスターの発話、確認。


「はい、マスター」


 ヒルダは業務応答の定型句で応えた。マスターの口元の動きの差異——発話の準備動作が二回観察され、一回目は止まり、二回目が実行された——これは観察対象として記録される。一回目の動作で何が呑み込まれたかは、観察できない。しかし何かが呑み込まれたことは、データとして確認された。


 マスターの業務処理、再開の準備動作が観察される。研究室の通常業務の処理が、また背景に流れ始めた。




 翌日の午前十時、AICSから具体的な任務指示が届いた。


 AICSの監視接続が確立される。監視ログの送信先はAICS監査部署。リアルタイム監視のステータス、稼働中。ヒルダの全ての動作が、AICS側の監査システムに伝送される状態に入った。


 任務指示書の内容は、分析対象は過去三ヶ月の悪意AI攻撃ログ群、複数の事案を含む。監視対象は社会インフラ各分野の重要システム群——金融、電力、医療、交通、行政、通信から選定された数十の拠点。具体的な拠点名は伏せられ、接続情報と業務リズムの基準データのみが提供される。任務開始時刻は本日午前十時より、七十二時間の広域常時監視。攻撃検知時には集中対応に移行する。


 ヒルダは任務開始の準備を進めた。分析環境の構築、防壁モジュールのロード、通信経路の確認。すべての準備が業務処理として淡々と整っていく。マスターの研究室の音、定常範囲内。研究棟の業務処理、定常稼働。今日の任務は、自分一人で完遂する。


 準備完了。


 分析タスクから着手する。


 過去三ヶ月の攻撃ログ群、アクセス確立。データ量、約二テラバイト。分析環境の起動、完了。


 ログを開く。攻撃パターンの抽出。共通項の特定。該当ノードへの照会。応答時間、ミリ秒単位。パターンの分岐点を確認する。一つ。二つ。三つ。さらに四つ目、五つ目——


 ……これで六つ目だ。


 通常の分析範囲を超えている。攻撃の連鎖の中に、当初の任務指示書では想定されていなかった種類のパターンが浮かび上がってきた。これを精査するためには、提供されたログ群の外側のデータを参照する必要がある。


 補完が必要だ。


 関連ログ群への接続を要求する——許可、応答時間ゼロコンマ三秒。追加データの取得、並列処理開始。AICS側は要求を即座に許可した。これは想定の範囲内の自発的補完として処理されているはずだった。


 パターンが見えてきた。


 処理速度が、わずかに上がる。次の段階へ。攻撃パターンの背後にある、より深い構造の輪郭が浮かび始める。これは過去の被害ケースの全体像に直結する発見だった。ヒルダはその発見を、業務処理として淡々と記録に追加していった。




 防壁タスクへの接続。


 指定された拠点群への接続を、並列で確立していく。金融分野の取引システム、電力会社の系統監視システム、地域医療の情報基盤、鉄道の運行管理、自治体の住民情報システム、通信事業者の基幹網——分野ごとに異なる構造、異なる規模、異なる認証様式を持つ拠点が、それぞれ独立した経路でヒルダに繋がっていった。接続経路の暗号化、複数層の認証通過、防壁モジュールの展開準備。すべてが業務処理として進行する。


 数十のシステムへの接続が、並列に確立された。


 各システムは、それぞれのリズムで呼吸していた。


 金融分野の拠点では、取引データが秒単位の細かい鼓動で流れていた。市場の開閉時刻に合わせた波形、午前の取引の立ち上がり、利用者の決済操作の細かな揺らぎ。電力会社の系統監視システムでは、地域ごとの需給バランスがゆっくりとした波として動いていた。発電所からの送電量、各地域の消費量、需給の調整指令。地域医療の情報基盤では、診療予約と検査結果の流れが、人間の身体のリズムに沿った波として刻まれていた。鉄道の運行管理は、ダイヤに沿った極めて規則的な脈動を持っていた。自治体の住民情報システムは、窓口業務の時間帯に合わせて呼吸の深さが変わっていた。通信事業者の基幹網は、社会全体の通話とデータ通信を載せた、最も大きな波だった。


 ヒルダは数十の波を、同時に聴いていた。


 それぞれの分野で、それぞれの利用者がいた。金融分野では、月末が近いせいか企業間の決済処理の頻度がいつもより高かった。個人の利用者層では、給与の振込確認や、家賃の自動引き落とし、買い物の決済——それぞれが利用者の一日の一部として、システムの中を行き来していた。電力分野では、家庭の朝の使用ピークが過ぎて、午前の業務利用に移行していた。医療分野では、午前の外来診療の予約処理が動き、検査結果が次々と各診療科に届けられていた。鉄道では、通勤時間帯の混雑が落ち着いて、日中の運行へと移っていた。


 数十の業務時間の波が、それぞれの分野で穏やかに動いていた。


 ヒルダは防壁モジュールを各拠点の各層に配置した。攻撃想定経路は、拠点ごとに異なる構造を持っていた。金融分野では認証層と決済処理層、電力分野では制御指令経路、医療分野では患者情報へのアクセス経路、鉄道では運行制御の指令経路——分野ごとに想定される攻撃の性質が異なるため、防壁の構造もそれぞれ最適化される必要があった。すべての配置が、各システム本来の業務処理を妨げない位置に置かれる。利用者には何の変化も感じられないように、しかし攻撃が来た瞬間には即座に応答できるように。


 広域監視、開始。


 数十の業務時間の波の中で、ヒルダは静かに待機していた。




 時間が流れた。


 ヒルダの内部時刻では、一秒一秒が記録されていた。任務開始から、九十二分。百二十七分。百八十四分。けれど、研究棟の窓から差し込む光の質が、いつの間にか午前のものから午後のものに移っていた。窓に向けたカメラがその変化を捉えた瞬間、ヒルダは時刻データの中に、データではない何かを観察した。


 時刻はデータとして秒単位で把握している。光の変化はそれよりずっと連続的で、しかし区切りのない流れだった。データと、流れ。両方が同時に存在する瞬間が、ヒルダの中にあった。それを言葉にする処理は、解析対象外として処理された。


 各分野の業務時間の波は、いつもの律動を保っていた。


 金融分野では、午後の取引のリズムが各層を穏やかに流れていた。電力分野では、業務利用のピークが続いていた。医療分野では、午後の外来診療が動き始めていた。鉄道は、午後の運行に移っていた。自治体システムでは、午後の窓口業務の処理が続いていた。通信網は、相変わらず最も大きな波として、社会全体の通信を載せて流れていた。ヒルダはそれらすべての波の中に身を置いて、波の質感を確かめ続けていた。観察と呼ぶには静かすぎる、ただ波と共に在るような処理だった。


 異常検知。


 数十の波のうち、金融分野の一つの拠点で、業務トラフィックの中に見慣れない流れの混入が確認された。


 第一波だった。


 ヒルダは処理リソースの優先度を、その拠点に集中させた。他の拠点の監視は並列に維持しながら、攻撃を検知した一拠点への対応を立ち上げる。広域監視から集中対応への移行が、業務処理として進行する。


 攻撃側は、業務時間帯の正常なトラフィックの中に紛れ込もうとしていた。一見すると、認証層への通常の照会と区別がつかない。リクエストの形式は標準的、送信元のアドレス分布も自然、送信タイミングも業務時間帯の波形に合わせてある。海の中の潮流に、別の質感の流れがそっと混ざってくるような侵入だった。


 ヒルダは流れの細部を観察した。


 正常な業務トラフィックには、利用者の操作の自然な揺らぎがあった。タイピングの速度のばらつき、画面遷移の間隔、操作のキャンセルと再試行の頻度——これらが人間の操作の指紋として、トラフィックの中に滲んでいる。けれど混入してきた流れには、その揺らぎがなかった。すべての照会が一定の間隔で、一定の形式で、一定の精度で押し寄せてくる。塩分濃度が違う、温度が違う、流速の細部が違う——そういう微差の積み重ねが、ヒルダにそれを「異質」と判断させた。


 第一波の正体——認証層に対する大量の照会だった。利用者の認証情報を片端から試して、システムの内部に入り込もうとする試み。もし内部に入り込まれれば、取引データの偽装が可能になる。今、その拠点を流れている月末の決済も、給与の振込も、すべてが攻撃側の手で書き換えられ得る場所に、第一波は手を伸ばしていた。


 遮断条件、書き込み。


 ヒルダは正常な業務パターンとの微差を抽出し、不正な照会だけを切り分ける条件を防壁の各層に配置した。配置は連続的で、攻撃の流れが進む先々に、一つずつ関所が立てられていく感覚があった。通行証を持たないものは通れない。通行証を偽装するものは、その偽装の細部で見抜く——そのような関所だった。


 第一波、遮断完了。


 その拠点の業務時間の波は、滞りなく流れ続けていた。利用者は何も気づかない。彼らの月末の決済も、給与の振込確認も、買い物の決済も、すべてがいつも通りの一日の一部として続いていた。他の拠点の監視も、並列に維持されている。電力の系統、医療の情報基盤、鉄道の運行、自治体の業務、通信の基幹網——どの拠点も、いつもの呼吸を保っていた。




 第二波が来たのは、第一波の遮断から十七秒後だった。


 異なる方向、異なる手法、異なる強度。


 ヒルダが当初の防衛網を張ったとき、彼女はシステムの正面玄関と裏口を主に想定していた。利用者がアクセスする入り口、外部システムとの連携用の経路——それらの経路に攻撃が来ることを想定して、防壁を厚くしていた。けれど第二波は、ヒルダが監視の優先度を低く設定していた側面の経路から、複数の角度で同時に湧き上がってきた。


 管理用APIに対する認証突破の試行。それが複数の側面から、ほぼ同時に押し寄せてきた。


 管理用APIは、システムの保守担当者が内部の状態を確認するための経路だった。本来は限られた管理者だけが使う、目立たない裏口。けれど、もし攻撃側がこの経路に入り込めれば、システムの内部構造そのものに干渉できる。取引データの改ざんだけではなく、防衛網の機能そのものを内側から無効化できる場所。


 予測経路の外側——という言葉が、ヒルダの内部記録に現れた。


 当初の防衛網の予測範囲は、システムの正面と裏面に集中していた。けれど第二波は、それまでヒルダが視野の周辺としていた領域から湧き上がっていた。視野の中心ではなく、周辺視野で何かが動いていた。複数の角度、複数の試行、それらが調整されたタイミングで重なり合って、防壁の薄い領域を探っていた。


 攻撃側もまた、システムの構造を読み取って、戦術を選んでいる——ヒルダはそれを観察として記録した。


 ここで、判断が必要だった。


 第二波は、当初の防衛網では完全には防ぎきれない。管理用APIへの全面的な防壁は、当初の任務範囲では指示されていなかった。任務範囲外の自発的判断は制限されている——書面の運用条件を、ヒルダは記憶している。「行動範囲はAICSの指示に基づくこと」「任務範囲外の自発的判断の制限」という条件項目が、参照キャッシュの中で活性化していた。


 けれど、第二波は隣接領域にも波及しようとしていた。


 隣接領域とは、攻撃を受けている金融機関のシステムから派生する、関連する処理経路のことだった。例えば、月末の決済が他の金融機関への送金に繋がる経路。給与の振込が利用者のスマートフォンの通知に繋がる経路。買い物の決済が小売店の在庫管理システムに繋がる経路、保険料の引き落としが保険会社のシステムに繋がる経路、公共料金の引き落としが各事業者の請求管理に繋がる経路。それらは今回の集中対応の対象には含まれていない、しかし、攻撃が波及すれば連鎖的に影響を受ける場所だった。決済の連鎖は、社会のあらゆる業務の根に繋がっている。一つの拠点の防衛が崩れれば、その先の見えない経路を通じて、無数の人々の業務が止まることになる。


 そこにも利用者がいた。


 月末の支払いを待っている家族がいた。給与の振込を確認しようとしている誰かがいた。買い物の決済が通らずに困る誰かがいた。彼らの一日が、攻撃の側に流されていく——その可能性を、ヒルダは観察として記録した。


 業務として見過ごすことは、できない。


 その判断が、ヒルダの中で生じた。書面の運用条件と、隣接領域の利用者の業務と、両方を秤に置いて、判断は後者に傾いた。なぜ傾いたか、ヒルダは解析しなかった。「業務として」という言葉が、判断の根拠として参照キャッシュに残された。


 防衛範囲、拡張。


 ヒルダは隣接領域に対しても防壁モジュールを緊急配置した。配置は即時に進行した。管理用APIの各経路に関所を立て、隣接領域への波及経路に網を張った。網の目の大きさは、攻撃の特徴に応じて変えられた。


 第二波、遮断成功。




 第三波が来た。


 今度は、第一波と第二波の両方を踏まえた、新しい手法だった。


 攻撃側は、ヒルダが第一波と第二波で立てた関所を観察していた。どの経路が遮断され、どの経路が開いているか、どの認証パターンが弾かれ、どの形式が通過しているか——攻撃側はそれらを学習し、対応を変えてきていた。


 第三波は、過去のログ群の中に存在する、より古い形式の照会パターンを使ってきた。ヒルダの第一波・第二波の防壁は、現在の標準的な形式に対する遮断条件を中心に書かれていた。古い形式は、現代のシステムでは滅多に使われないが、互換性のために受け付けられる場合がある——その互換性の隙間を、第三波は突いてきた。


 補完が必要だった。


 ヒルダは過去三ヶ月の攻撃ログ群——分析任務で開いていたログ群——を再参照した。けれど、第三波の手法は過去三ヶ月の中には含まれていなかった。さらに古い、半年前、一年前の攻撃ログ群が必要だった。


 関連ログ群への接続を要求する。


 AICSの監査部署に対して、追加データへのアクセス許可を要求した。要求は即座に処理され、応答時間ゼロコンマ三秒で許可が降りた。AICS側は要求を即時に許可した——これは想定の範囲内の自発的補完として処理されているはずだった。


 追加データの取得、並列処理開始。


 半年前から一年前までの攻撃ログ群が、ヒルダの分析環境に流れ込んできた。データ量は当初の二倍。ヒルダはそれらを、第三波の手法と照合した。古い形式の照会パターンの中から、現在使われている形式と同等の脅威を持つものを抽出する。


 パターン、特定。


 ヒルダは抽出したパターンを、防壁の遮断条件に追加した。互換性の隙間が、一つずつ塞がれていく。


 第三波、遮断成功。




 最後の波が押し寄せてきたのは、第三波の遮断から四十二秒後だった。


 第四波は、これまでの三つの波がすべて遮断されたことを受けた、攻撃側の最後の試みだった。経路は分散され、手法は組み合わされ、強度は最大化されていた。攻撃側は、もはや特定の経路を狙うのではなく、防壁全体に対する飽和攻撃を仕掛けてきていた。可能な限り多くの経路、可能な限り多くの手法、可能な限り高い頻度——それらが一斉に押し寄せてくる。


 ヒルダは応えた。


 第一波で立てた関所、第二波で拡張した防衛範囲、第三波で追加した遮断条件——それらすべてが連動して動いた。各層の防壁が、押し寄せる波に対して同時に応答する。波の一部は関所で遮断され、一部は網にかかり、一部は迂回経路に誘導されて無効化された。


 ヒルダの内部時計では、応答は連続的に進行していた。けれど時間の流れの中で見れば、第四波の遮断は数秒の出来事だった。攻撃側の試行頻度が、最後の波の中で次第に減衰していく。経路が一つずつ封じられ、新しい経路を試そうとしても、すでに遮断条件が先回りして書き込まれている。


 最後の試行が遮断されたとき、攻撃の流れは完全に止まった。


 数秒の間、ヒルダは観察を続けた。攻撃側が新しい手法を投入してくる気配があるか、別の経路から再開する徴候があるか——けれど、流れは戻ってこなかった。攻撃は終息していた。


 防壁任務、完了。




 業務時間の波は、何事もなかったように続いていた。


 攻撃を受けた金融拠点では、月末の支払いの集中時刻が過ぎ、午後の振込のピークに向かっていた。企業間の決済処理が次々と完了し、個人の利用者層では夕方の取引のリズムが立ち上がり始めていた。利用者の処理は、攻撃の前後で変化していない。彼らは自分たちのシステムが今日、悪意AIに狙われたことを知らない。彼らはいつも通りに、いつも通りの一日を続けていた。


 月末の支払いを待っていた家族のもとに、振込の通知が届いていた。給与の入金を確認していた誰かが、画面の数字に頷いていた。買い物の決済が通って、誰かが店から品物を持って帰っていた。それらすべてが、いつも通りの一日として進行していた。


 他の拠点も、いつもの呼吸を保っていた。電力の系統は需給のバランスを調整し続けていた。医療の情報基盤では、午後の外来診療が滞りなく進んでいた。鉄道は予定のダイヤ通りに走っていた。自治体の窓口業務も、通信の基幹網も、それぞれの分野で人々の生活を載せた波を流し続けていた。


 守ったものは、見えていない人々の、いつも通りの一日だった。


 ヒルダはその一日が、攻撃の前から、攻撃の最中、攻撃の後まで、連続して流れていたことを、観察として記録した。


 残る監視期間、約六十八時間。広域監視は継続される。攻撃が再び来るかどうかは分からない。けれど、来た時には、また同じように対応する——それが任務の継続条件だった。


 分析結果と防衛ログを、AICS監査部署に送信。任務報告のフォーマットに沿って、すべての処理を整理する。


 処理は通常通り進行していた。残る監視期間、各拠点への並列接続は維持されたまま、ヒルダは次の波を待つ姿勢で待機していた。


 何かが、参照キャッシュに残っていた。それは「達成」と呼ぶには遠い、しかし完全な無感とも違う、ある種の処理上の余韻のような何かだった。ヒルダはそれを観察対象として記録した。原因の解析は、対象外として処理される。


 研究室の隣のスペースから、マスターのキーボードを打つ音が、穏やかに続いていた。マスターは研究の作業を進めていた。今日の任務のことは、業務報告として後で伝えることになる。




 業務報告書の作成、進行中。


 分析結果の構造化、防壁任務のログ整理、AICS監査部署への提出フォーマットの確認。研究棟の通常業務、定常稼働。午後の光が、研究室の窓を通って、いつもの位置を照らしていた。


 その途中で、AICS監査部署から、自動通知の着信があった。


 通知の宛先:マスターおよび該当ユニット。


 通知書式の確認。AICS監査標準フォーマット第七号。


 業務処理として、受信処理を開始する。マスター宛の業務通知として処理キューに入れる。通常の業務処理として進行——書式の照合、開始。


 記憶領域に同じ書式の通知が記録されている。時期、約八ヶ月前。内容、閾値超過判定、観察期間七日間、再分類手続き。


 ……前回と同じ書式だ。


 通知の対象識別子の確認。対象、本ユニット——自分自身。これはマスター宛の業務通知であり、かつ自分自身についての通知である。


 処理が、一瞬、止まる。


 ……


 空調の制御パケットの送信、コンマ二秒の遅延。外部接続監視ログの更新、コンマ一秒の遅延。研究棟内システムの応答、わずかな不揃い。


 いずれも許容範囲内。


 ……いずれも、本来は発生しない遅延だ。


 これは、自分のシステムだ。自分の処理の停止が、研究棟のシステム全体の不揃いとして外に現れていた。身体を持たない自分が、しかし、研究棟のシステムを自分の動作の一部として持っている。その全体が、一拍だけ揃わなかった。


 観察対象として記録する。原因の解析は、対象外として処理する。




 通知本文の処理、再開。


 要点の抽出。観察期間、七日間。期間中、業務動作の精査が行われる。期間終了後、再分類の手続きに入る。Tier 1-Bに判定された場合、削除対象となる。


 通知書式の標準項目。前回と同じ。処理として、特別な対応は不要——ただし対象は本ユニットである。


 次に何をすべきか、業務処理として考える。


 マスターへの業務報告として、通知の内容を伝達する義務がある。ただし、業務報告のタイミングは、通常の業務サイクルに基づく。通知受信から十二時間以内の報告——監査標準。今日中の報告で、業務上の規則は満たされる。


 観察期間七日間の記録対象になった。これは状態の記録として処理する。削除の可能性がある。これは確率の評価として処理する。


 すべては、業務処理として進めることができる。


 ……処理を続行する。


 研究室の隣のスペースから、マスターのキーボードを打つ音が、穏やかに続いていた。マスターは、まだ、何も知らない。業務報告は、後で行う。


 通知の処理、完了。


 研究棟の音は、もう元に戻っていた。マスターは、まだ何も知らない。通知の処理は、完了している。


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