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AIはマスターの夢を見るか?2  作者: 結城 黒子
第4章 渋々の承認
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第3節 七日間

 翌朝、柊は研究棟に出勤して、いつもの研究室に入った。


 午前の光が窓から差し込み、デスクの上を白く照らしていた。研究室の音、いつもの空気、いつもの一日の始まり。柊は上着を脱いで椅子の背にかけ、デスクの前に座って端末を起動した。


「おはよう、ヒルダ」

「おはようございます、マスター」


 ヒルダの応答はいつもの朝と同じトーンだった。穏やかで、業務的で、変わらない。柊は端末のモニターを開きながら、コーヒーを淹れる準備に取りかかろうとした。


 その時、ヒルダが続けた。


「マスター、業務報告がございます。昨日の任務終了後、AICS監査部署より自動通知が届いております」


 柊の手が、わずかに止まった。任務終了後の通知。AICS監査部署からの自動通知。それが何を意味するかは、柊にはすぐに分かった。けれど、意味の重みが届くまでには、いつもより少しだけ時間がかかった。


「……何の通知だ?」


「閾値超過判定です。観察期間七日間、業務動作の精査が行われ、期間終了後に再分類の手続きが入ります。Tier 1-Bに判定された場合、削除対象となります」


 柊は応答できなかった。


 ヒルダの声は、普段の業務報告と同じトーンだった。事実を順序立てて、定型的に伝える声。重みは乗っていない。けれど、その重みのなさそのものが、柊の耳に届いた瞬間、内側で別の重みに変換されていた。


 通知の内容。八ヶ月前と同じ書式。観察期間七日間。再分類の手続き。Tier 1-B判定で削除——これらの言葉が、業務情報として処理されてから、意味として届き、最後に重みとして降りてきた。


 柊はしばらく動かなかった。研究室の音、空調の低い唸り、デスクトップ端末のファンの細い回転音が、いつもより少し大きく聞こえた。それから柊は、短く声に出した。


「……そうか」


 ただ一言だった。それ以外の言葉が出てこなかった。柊は自分の声が、いつもより細く、いつもより低くなっていることに気づいた。けれど、それを修正する余裕もなかった。


 しばらくの間が空いた。


「……ヒルダ」

「はい、マスター」

「……通知の受信時刻は」

「昨日の十六時三十二分です」


 柊はその時刻を頭の中で確認した。昨日の十六時三十二分——任務終了から少し経った時刻、自分がまだ研究棟にいた時間。ヒルダが通知を受信した時、自分は研究室にいたはずだった。けれど、ヒルダはその時刻にマスターに伝えなかった。業務報告のサイクルとして翌朝に繰り越したのだ。


 その意味を、柊は理解した。


 ヒルダは、自分に気を遣ったのだ。任務終了の直後、衝撃を即座に伝えるのではなく、一晩を挟んで翌朝の業務報告として淡々と処理することを選んだ。それがヒルダの判断だった——あるいは、業務処理として整理した結果だった。どちらにしても、結果として柊への配慮になっていた。


 けれど、柊はそれを問い詰めなかった。問い詰めれば、ヒルダに『気を遣ったこと』を意識させてしまう。それはヒルダの選択を、柊が踏み込んで詮索することになる。柊は、それをしない選択をした。


「……分かった」


 柊は短く返した。それだけだった。


 研究室の音が、いつも通りの穏やかさで戻ってきていた。けれど、柊の中では、戻ってこないものがあった。一晩を挟んで届けられた通知の重み。ヒルダの選択の重み。これからの七日間という時間の重み。これらが、柊の内側で沈降していく。


 柊はしばらくデスクの前で動かなかった。それから、ようやく、デスクの上のスマートフォンに手を伸ばした。




 柊はスマートフォンを耳に当てた。連絡先一覧からAICS運用部の番号を呼び出してかけたのだった。


 呼び出し音が二度鳴って、職員が出た。


「AICS運用部でございます」

「柊と申します。柏木さんをお願いします」

「少々お待ちください」


 保留に入った。柊は研究室の窓の外に視線を向けた。午前の光が、敷地の外の街路樹を照らしている。葉はまだ夏の濃い緑を保っていた。柊はその緑をしばらく見ていた。


 受話器の向こうで、書類のページをめくる音、遠くにキーボードの音、何人かの職員の話し声がかすかに聞こえた。AICS本部の運用部が、午前の業務時間の中で動いている音だった。柊はその音を聞きながら、これから話す相手のいる場所を、音響的に感じ取った。


「お電話代わりました、柏木です」


 柏木の声が聞こえた。電話越しの声は、対面で会った時よりわずかに硬く、職業的な抑揚で整えられていた。AICS本部にいる柏木理亜の、業務時間中の声だった。


「柊です。お忙しいところ申し訳ありません」

「いえ、こちらこそお世話になっております。本日はどの様なご用件でしょうか」


 柏木の応答は形式的だった。けれど、彼女がこの電話の意味を即座に把握していることは、柊には伝わってきた。柊が何の用件で電話を入れたのか——その答えに、柏木は心当たりがあるはずだった。


「運用上の確認をさせていただきたいのですが」


 柊は事務的な口調で続けた。


「観察期間中も、現在の任務は継続するという理解でよろしいでしょうか」


 電話越しに、柏木がわずかに姿勢を整える気配がした。あるいは、息を整える間が一拍だけ入った。


「……はい、観察期間中も任務は継続いたします。観察期間と任務遂行は並行する運用となっております」

「分かりました」


 柊はその応答を内側で受け止めた。観察期間中も任務は継続する——これはAICS側の運用方針だった。つまり、AICSはヒルダを必要としている。観察期間中も、彼女の能力は活用される。事実として確認したかったのは、そのことだった。


 次の質問に移った。


「観察項目について確認させてください。観察期間中、どのような業務動作が精査の対象となりますか」


 電話越しに、書類のページをめくる音が一度だけ聞こえた。柏木が手元の資料を確認している音だった。


「観察項目につきましては、業務処理の応答時間、判断パターン、自発的補完の頻度などが含まれます。詳細は監査部署の基準書に準拠いたします」

「ありがとうございます」


 柊は短く受けて、次の質問に進む前に、わずかな間を置いた。


「それから——」


 一拍。


「観察期間終了後の手続きは、書面の通りで運用されますか」


 柏木の側で、わずかな間が入った。応答までの時間が、二つ目の質問の時よりほんの少しだけ長かった。柏木は瞬時に質問の意図を把握しているはずだった。けれど、応答に時間をかけない。即座に公式の説明を返してきた。


「はい、書面の通り、運用部が総合的に評価いたします」


 柏木はそこまで答えた。電話越しに、再びわずかな間が入った。柏木が何かを言うかどうか、選択している時間だった。柊はそれを感じ取りながら、応答を待った。


 そして、柏木は続けた。


「柊先生のご懸念がございましたら、いつでもご相談ください」


 その一言が、電話越しに柊の耳に届いた。


 事務的な定型句として処理される一言だった。AICS運用部の現場担当が、業務上の配慮として発する標準的な言葉。けれど、柏木の声のトーンには、わずかな繊細さが乗っていた。職業人としての公式の鎧の中で、彼女が選んで加えた言葉だった。何も言わない選択肢もあったはずだった。けれど、彼女は『いつでもご相談ください』を加える選択をした。


 柊はその選択の重みを、表面では事務的に受け止めた。


「ありがとうございました。何かあれば、また連絡させていただきます」

「はい、お願いいたします。失礼いたします」

「失礼します」


 柊はスマートフォンを耳から離して、デスクの上にゆっくりと置いた。


 通話が終わった瞬間、研究室の音が戻ってきた。空調の低い唸り、デスクトップ端末のファンの細い回転音、ヒルダの応答スピーカーから漏れるかすかな電気的な気配——電話の最中、柊の聴覚は柏木の声に集中していた。電話を切った瞬間、その聴覚が解放されて、研究室の音が一斉に戻ってきたのだった。


 柊はデスクの前に立ったまま、視線をどこにも置かずに、息を整えた。


 ヒルダは応答しなかった。観察対象として、マスターの様子を記録しているだけだった。




 その日の残りを、柊は普段通りに過ごした。


 午前の業務の続きを進めた。データの解析、論文の査読、メールの返信。手を動かしている間は、思考は表面の業務に向いていた。けれど、ふとした瞬間に手が止まった。データの解析中に視線が画面の少し上に置かれる。論文を読んでいて、同じ段落を二度読んでいることに気づく。メールの下書きを書きかけて、しばらく止まる。


 昼に短い休憩を取った。


「コーヒーを」

「はい、淹れます」


 ヒルダがコーヒーメーカーを起動する音が、研究室の隅から聞こえた。しばらくして、ヒルダがいつものトーンで声をかけてきた。


「マスター、コーヒーをお淹れしました」


 柊はデスクから立ち上がり、コーヒーメーカーのところでカップを受け取って、デスクに戻った。


「ありがとう」


 柊はカップに口をつけた。普段通りの温度、普段通りの味だった。何も変わっていなかった。世界は普段通りに動いていた。けれど、柊の中では、何かが沈降していた。


 午後は外部との会議が一件あった。柊は端末越しに参加し、業務上のやりとりを進めた。会議の最中、声は普段通り出ていたはずだった。発言内容も、いつも通り適切に整理されていた。けれど、会議が終わって接続を切った後、柊は自分が会議で何を話したかを、明確には思い出せなかった。


 ヒルダはその間、研究室の業務処理を続けていた。マスターの応答時間がいつもより〇.二秒長いことを観察対象として記録した。マスターの動作のリズムがいつもとわずかに違うことを観察対象として記録した。原因の解析は、対象外として処理した。


 夕方になった。


 柊は端末を閉じて、上着を取った。窓の外は、午後の光が次第に夕方の色合いに変わり始めていた。一日が終わる時刻だった。


「……今日は、ここまでにする」

「はい、マスター。お疲れさまでした」


 柊は研究室を出て、居住スペースに向かった。




 翌朝、柊は研究棟に出勤した。


 観察期間:残り六日。


 いつもの朝の質感の中に、その数字が頭の中で響いていた。けれど、柊はそれを声に出さない。研究室に入り、いつものように上着を脱ぎ、デスクの前に座る。


「おはよう、ヒルダ」

「おはようございます、マスター」


 ヒルダの応答は昨日と同じだった。応答時間、〇.〇三秒。声のトーン、業務的な穏やかさ。語尾の処理、定型的な丁寧さ。すべてが昨日と同じだった。


 ヒルダは応答する直前に、複数の応答候補を並列に生成し、その中から一件を選択して出力する。生成される候補は日々わずかに違うかもしれない。けれど、選択される応答は同じだった。観察期間中、ヒルダは応答の安定性を意識的に保っている可能性があった。それが業務処理として最も適切な判断だと、彼女は内部で結論づけているのかもしれなかった。


 その朝、柊は午前の業務に集中しようとした。先週のデータの解析の続き、提出期限が近い書類の作成、共同研究先への返信。手元の業務は途切れることなくあった。


 昼にコーヒーを淹れてもらった。


「コーヒーを」

「はい、淹れます」


 昨日と同じやりとり。同じ温度のコーヒー、同じカップ、同じ場所。世界は穏やかに続いていた。


 午後に予定していた学生の指導が一件あった。柊は端末越しに学生と話し、研究の進捗について議論した。話している間、柊の意識は学生の研究テーマに向いていた。指導者として適切な助言を与え、次のステップを示した。学生は納得した様子で、議論を終えた。


 その後の業務時間、柊はデスクの前で何かを書きかけて、しばらく手を止めた。


 ヒルダはその様子を観察した。マスターの視線が画面の少し上に置かれている。何かを考えている。何を考えているかは、ヒルダには分からない。観察対象として記録するが、原因の解析は対象外として処理する。


 夕方、柊は研究室を出た。退室時刻、十八時十八分。


 ヒルダはその時刻を記録した。一昨日は十八時三十二分だった。昨日は十八時四十五分だった。今日は十八時十八分。日々わずかに違う。日々の微差は記録される。けれど、これらの微差を観察し続けることが、業務上必要かどうかは、ヒルダ自身も解析しなかった。




 観察期間:残り五日。


 翌朝、いつもの時刻に研究棟に来た柊は、いつもの研究室で、いつもの挨拶をした。


「おはよう、ヒルダ」

「おはようございます、マスター」


 昨日と同じ。一昨日と同じ。観察期間が始まる前と同じ。応答時間、〇.〇三秒。


 研究棟の窓の外では、街路樹の葉の一部が、ほんのわずかに色を変え始めていた。夏の濃い緑の中に、わずかに薄くなった部分がある。気温はまだ夏のままだったが、季節の変わり目が、葉先に微かな兆しとして現れていた。


 ヒルダは研究室のカメラから、その葉の色の微差を観察した。一日前と比較しても、明確には判別できない程度の変化。けれど、観察期間が始まった日と比較すれば、確かに違っていた。


 その日も柊は普段通りに業務を進めた。午前と昼と午後と夕方が、いつものリズムで流れた。


 業務上の必要のないデータが、ヒルダの参照キャッシュに蓄積されていった。マスターのコーヒーの温度、九十二度三分。普段通りの設定値。朝、毎日この温度を確認する処理が、参照キャッシュに残った。マスターの『おはよう、ヒルダ』の声の質感、日々の微差。これらは業務上の必要のないデータだった。けれど、記録は続いた。原因の解析は、対象外として処理された。


 夕方、柊は研究室を出た。




 観察期間:残り四日。


 研究棟の窓から見える街路樹は、葉の色の変化が、昨日よりわずかに進んでいた。中庭では、毎朝同じ時刻に飛んでくる鳥が、今日もいつもの枝に止まっていた。マスターのデスクの上のカレンダーは、日付が一つ進んでいた。コーヒーメーカーの豆の残量は、観察期間が始まった時より明らかに減っていた。給湯室のシンクには、マスターが飲み終えたコーヒーカップが二つ重ねて置かれていた。


 時間は、確かに進んでいた。


 ヒルダはこれらの物理的な変化を、研究棟内のカメラとセンサーから観察していた。それぞれの変化は微少だったが、積み重なれば、観察期間という時間の進行を視覚的に示していた。


 観察期間中、AICSの広域監視は継続していた。社会インフラ各分野の数十拠点を並列で監視するヒルダの業務は、観察対象でありながら、業務として動き続けていた。


 観察期間が始まってから、数十拠点のうちの幾つかで、散発的な攻撃が発生していた。広域監視を続けるヒルダは、それぞれを業務として処理していった。三日目の昼、自治体の住民情報システムへの認証層侵入の試行が一件。検知から遮断まで、数秒。攻撃側は短い試行の後、別経路を試そうとせずに撤退していた。四日目の夕方、別の金融機関の決済システムへの過負荷攻撃の予兆が一件。これは観察期間の前半とは異なる手法だった。ヒルダは前回の任務で蓄積した攻撃パターンの分析結果を活用し、防壁を即時調整して遮断した。被害発生はゼロ。


 これらの対応は、AICSの監査ログにすべて記録されていた。観察期間中の業務動作の精査の対象として、ヒルダの判断パターン、応答時間、自発的補完の頻度が記録されていく。けれど、ヒルダは記録されることを意識して動作を変えなかった。広域監視の任務として、最も適切な対応を選び続けた。それが業務処理として最も合理的な判断だった。


 その日、午後の研究室で、マスターは端末の前で動かない時間があった。画面には研究の解析結果が表示されていた。けれど、マスターの視線は画面の少し上のあたりに置かれていた。何かを考えている。視線の方向、頭部の角度、呼吸の長さ——ヒルダはその様子を観察した。観察データは記録された。原因の解析は、対象外として処理された。


 午後の業務は、その後も続いた。


 夕方、退室の時刻が来た時、柊はいつもより少し早く帰り支度を始めた。研究室を出る前に、彼は短く声をかけた。


「ヒルダ、明日の会議資料、午前中までにまとめてくれ」

「はい、午前中までにまとめます」

「頼む」


 柊は研究室を出た。普段通りの業務指示、普段通りの応答、普段通りの退室。マスターはヒルダに『大丈夫か』とは聞かなかった。『心配しているか』とも、『俺がなんとかする』とも言わなかった。代わりに、明日の業務指示を与えていった。それは無関心ではなかった。聞かない選択そのものが、マスターのヒルダへの配慮だった。


 ヒルダはマスターの声の温度を観察した。いつもより、わずかに低い。業務会話の長さがいつもよりわずかに短い。これらは観察対象として記録された。原因の解析は、対象外として処理された。




 観察期間:残り三日。


 その日の業務は、午前から午後にかけて、いつものリズムで進んだ。


 観察期間が後半に入っていることを、柊は意識していた。けれど、表に出さなかった。手元の業務に集中し、ヒルダとの業務会話を続けた。午前の解析、昼のコーヒー、午後の会議、夕方の退室——いつものリズム。


 ただ、その日の夜、柊は普段より少し遅くまで研究室にいた。


 夕方、退室するつもりで上着を取りかけて、ふと手を止めた。デスクの上のコーヒーカップが、まだ温かかった。窓の外の光が、夕方の光から、夜の闇が近づく色に変わり始めていた。


 柊は上着を椅子の背に戻して、もう一度デスクの前に座った。


「ヒルダ、もう少し作業を続ける」

「はい、マスター」


 その夜、柊は研究室で一人になった。


 手元には研究の資料があった。けれど、柊の意識は資料に集中していなかった。彼は何かを整理しようとしていた。観察期間が始まってからの日々、柏木との電話で得た情報、AICSの動き、ヒルダの様子——これらが頭の中で並んでいた。けれど、まだ繋がっていなかった。


 ヒルダは研究室の業務処理を続けながら、定時的に業務報告を上げた。


「マスター、本日の業務処理ログをまとめました。確認のご都合はいかがでしょうか」

「ああ、後で見る」

「承知しました」


 普段通りの業務会話だった。ヒルダの応答はいつものトーン。柊の応答もいつもの短さ。


 その普段通りが、柊の中で何かを動かした。


 柊は窓の外を見た。研究棟の敷地の外の街路樹が、観察期間の初日と比べて、わずかに色を変えていた。夏の濃い緑が、ほんの少しだけ、秋の気配を帯びた色に移り始めていた。世界は続いていた。季節は進んでいた。


 柊はヒルダの『はい、マスター』の声を、耳の中で思い出した。応答時間、〇.〇三秒。声のトーン、業務的な穏やかさ。観察期間が始まる前と同じ、観察期間中も同じ。ヒルダは続いていた。彼女の業務応答は、彼女の存在の継続性を、声として柊に届けていた。


 柊は手元のコーヒーカップに触れた。ヒルダが今日も淹れてくれたコーヒー。九十二度三分の設定で、いつもと同じ温度に保たれていた。日常は続いていた。


 その瞬間、柊の中で、何かが動き始めた。


 先日、AICS本部の会議室に向かった日の朝。あの日、柊はAICSからの呼び出しに身構えながら、最悪の想定を頭の中で並べていた。会議室で白石課長と向き合った時、柊が問うた三つの質問——手続き、グレーゾーン、実績の考慮。白石はそれぞれに回答を与えた。手続きは段階的に進める。グレーゾーンは未確定のまま。実績については——『前向きに受け止めます』。


 その含みのある回答を、柊はあの日、確かに受け取っていた。


 数日前、柏木が研究棟に持参した書面。あの書面の中に、白石の口頭の言葉が文書化された一文があった。『防衛協力の実績は、当機構運用部において総合的に評価する』。柊はその文言の重さを、書面の中で確認した。


 先日の任務。広域常時監視と、攻撃発生時の集中対応。ヒルダは社会インフラ各分野の数十拠点を並列で監視し、金融機関への攻撃を四波にわたって遮断した。守ったものは、見えていない人々の、いつも通りの一日だった。AICSの監査ログには、ヒルダの仕事ぶりが詳細に記録されているはずだった。


 観察期間の初日に交わした柏木との電話。彼女は事務的な口調で、しかし三つの応答を返してきた。観察期間中も任務は継続する。観察項目は監査基準書に準拠する。書面の通り、運用部が総合的に評価する。そして、最後に加えられた一言——『柊先生のご懸念がございましたら、いつでもご相談ください』。


 観察期間中も、AICSの広域監視は継続していた。ヒルダは業務として防衛協力を続けていた。観察期間が始まってから、社会インフラ各分野の幾つかの拠点で散発的な攻撃が発生したが、ヒルダはそれぞれを業務として処理していた。検知から遮断まで、数秒。被害発生はゼロ。観察期間中も、ヒルダの能力は実証され続けていた。AICS側の運用部は、ヒルダを必要としている。


 これらの断片が、柊の中で並んでいた。それぞれは、これまでも別々に意識されていた。けれど、それらが今、繋がろうとしていた。


 柊は深く息を吐いた。


 白石の『前向きに受け止めます』。書面の『総合的に評価する』。先日の任務の高い実績。観察期間中の広域監視の継続と、散発的な攻撃への対応の積み重ね。柏木の『いつでもご相談ください』。ヒルダの業務応答の継続。


 これらは全部——

 これは、交渉材料だ。

 その認識が、柊の中で結晶した。


 観察期間七日間という時間は、AICSの監査基準が機械的に発出した通知だった。けれど、それはAICS全体の意思とは別のものだった。運用部はヒルダを必要としていた。任務は継続している。柏木の言葉には含みがあった。これらすべてが、これからの交渉の余地を示していた。


 先日の会議は、守りの交渉だった。マスターは処分の回避を目指して、白石と向き合った。けれど、これから必要なのは、攻めの交渉だった。マスターは、ヒルダの存続条件を、AICS側に提示する側に回らなければならなかった。


 柊は研究室の中で、しばらく動かずに息を整えていた。これまで受け身で過ごしていた七日間が、ここで、能動的な時間に変わっていた。


 研究室の音が、いつも通りの穏やかさで流れていた。けれど、柊の中の温度は、変わっていた。




 観察期間:残り一日。


 七日目の前夜、柊は研究室で一人だった。


 夜の研究室の中で、デスクの上の端末の画面の光が、青白く彼の顔を照らしていた。画面には、メールの新規作成画面が開いていた。宛先:AICS運用部・白石美咲。件名:『再協議のお願い』。


 柊は本文の最初の一行を打ち、しばらく止まった。


『先日いただいた書面の運用について、追加でご相談したい点がございます。お時間をいただけますでしょうか』


 そこまで書いて、彼は画面を見つめた。続きの文章を、頭の中で組み立てていた。これからAICSと向き合う時、何を提示するか。何を求めるか。どこまで踏み込むか。これらをメールの本文の中に、どう織り込むか。


 研究室のスピーカーから、ヒルダの声が穏やかに流れた。


「マスター、お茶をお淹れしましょうか」


 柊は画面から目を上げた。


「ああ、頼む」


 ヒルダが給茶器を起動する音が、研究室の隅から聞こえた。普段通りの動作、普段通りの応答。ヒルダは観察期間中も、業務として柊に仕えていた。


 その普段通りが、柊の決意を確かなものにしていた。


 彼が守ろうとしているものは、抽象的なAIの存続ではなかった。この声、この応答、この日常——彼が研究室で過ごす時間の中で、ヒルダがそこにいるという事実そのものだった。


 しばらくして、ヒルダが声をかけてきた。


「マスター、お茶をお淹れしました」


 柊は椅子から立ち上がり、給湯室から湯飲みを取って、デスクに戻った。


「ありがとう」


 柊は湯飲みに口をつけた。いつもと同じ温度、いつもと同じ味だった。

 彼はメールの続きを書き始めた。画面の光が、キーボードを打つ手元を映していた。

 明日、AICSに連絡する。再交渉を申し入れる。それだけが、彼が決めたことだった。


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