第1節 駆け引き
研究棟の午前は、いつもと変わらない律動で動いていた。空調の低い唸り、廊下のリノリウムの上を歩く足音、研究室の窓から差し込む光がデスクの端に置かれた書類の縁を白く縁取っている。柊は午前の業務を一通り片付けたあと、デスクに戻って端末を開いた。新着のメールを確認する手は、いつもと同じ速度で動いていた。
受信トレイの一番上に、AICSからの公式書面が届いていた。
差出人はAICS運用部、件名は「ご相談の件についてのお時間のお願い」となっていた。柊の指は、メールを開く前に一瞬だけ止まった。それから、開いた。本文には簡潔な事務文があるだけだった。柊研究棟のセキュリティユニットの件で、お時間をいただきたい。日時の候補がいくつか並び、運用部課長・白石美咲の署名が末尾に添えられていた。用件の中身については、何一つ書かれていなかった。
柊は画面を眺めたまま、しばらく動かなかった。
権限逸脱の事案については、すでに数日前、柏木理亜から経緯確認の通知を受けている。あのときの言葉が頭の中を一度通り抜けた。経緯確認と監視強化の通知です、処分の決定ではありません、ただ、同様の事例が蓄積されれば、より正式な対応に移行する可能性があります——そう告げた柏木の声と、そのあとの「ただ……」という言いかけて止まった一拍が、まだ耳の奥に残っている。今度の呼び出しが、その続きなのか、別の何かなのか、メールの文面からは読み取れなかった。
可能性が、頭の中で複数並ぶ。最悪の想定から順に並んでいく。並んだまま、どれにも収束しない。
柊は息を一つ整えてから、返信を打ち始めた。指定された候補日時のうち、もっとも近い日を選ぶ。先延ばしにしても、状況が変わるわけではない。返信を送信し終えると、ヒルダが穏やかなトーンで応じた。
「先方とのご予定を確保いたしました」
柊は短く頷いて、端末の前から立ち上がった。
約束の日の午前、柊は出かける支度を整えていた。デスクの上に広げていた書類を一度揃え、必要な分だけを薄手のクリアファイルにまとめてから、鞄に収めた。上着を椅子の背から取って袖を通しながら、研究室の中の音を確認する。空調の低い唸り、デスクトップ端末のファンの細い回転音、ヒルダが応答に使うスピーカーから漏れるかすかな電気的な気配——音と呼ぶには静かすぎる、空気の振動のような何かが、研究室の隅々まで穏やかに行き渡っていた。
柊は鞄を持ち直し、ヒルダに声をかけた。
「……ヒルダ」
「はい、マスター」
応答は、いつもの速度で返ってきた。ただ、柊の耳に映った声の質感には、普段とわずかに違うところがあった。普段の応答よりほんの少しだけ、語尾の終わり方が丁寧だった。あるいは、応答までの間に普段はない一瞬があった。柊は、その微差を捉えたが、口には出さなかった。
「AICSに呼ばれた。何の話かは、まだ分からない」
「……承知しました」
ヒルダの応答にも、わずかな間があった。
二人とも、用件を知らない。知らないまま、互いの声の質感を確かめ合っているだけだった。柊は鞄の持ち手を握り直しながら、続けた。
「戻りは夕方になる。研究棟の定常監視は、いつも通りに頼む」
「はい。お戻りまで継続します」
研究室の音が、また穏やかな振動に戻っていった。ヒルダが業務処理に戻ったのが、応答の音の沈み方で分かった。柊は研究室のドアに向かって歩きながら、振り返らずに「行ってくる」と短く言った。背後でヒルダが「いってらっしゃいませ、マスター」と返したのが、ドアを閉めるまでの一瞬の間に聞こえた。
廊下のリノリウムを踏みしめながら、柊は研究棟の出口へと向かった。生体認証の音、外気の流入、キャンパスの空。歩きながら頭の中では、メールの文面が何度も反復されていた。お時間をいただきたい——その一行に、何の中身もない。中身がないということ自体が、白石美咲という人物の交渉技術なのかもしれないと柊は思ったが、確証はなかった。
駅までの道のりを、柊は普段より少し早めの足取りで歩いた。商店街を通り抜け、電車に乗り、AICS本部のある区へ向かう。車窓の外を流れていく街並みは、目に入っていたが、見ていなかった。柊の頭の中は、これから入っていく建物のことに占められていた。
AICS本部のある駅で降り、地上に出ると、ガラス張りの高層ビルが見えた。柊はビルの入り口で受付の指示を受け、訪問証を首から下げて、エレベーターに乗った。指定された階のボタンを押すと、エレベーターは静かに上昇を始めた。階数表示の数字が変わっていくのを、柊はぼんやりと眺めていた。
エレベーターの扉が開くと、空気の質感が変わった。
研究棟とは違う空気だった。冷たいわけではないが、温度に張りがある。床の素材が違う、壁面のパネルの色味が違う、廊下の照明の角度が違う——細かな差異の積み重ねが、ここが公式の場であることを身体に伝えてきた。柊は受付に名前を告げ、しばらく待つように案内された。
数分後、廊下の先から柏木理亜が歩いてきた。
柏木は会釈をしてから、柊に向かって言った。
「柊先生、本日はお時間をいただきありがとうございます。会議室にご案内いたします」
「よろしくお願いします」
柏木の声は、先日の喫茶店で聞いたものとは違う、公式の場のための声だった。柊は柏木の後について廊下を歩いた。途中で何度か曲がり、突き当たりの会議室の前で柏木が立ち止まる。
「こちらの会議室になります」
「失礼します」
柏木が扉を開け、柊を中に通した。
中規模の会議室だった。長机を中心に、対面に椅子が並んでいる。壁面には電子会議端末。窓からは午前の都市風景が見え、AICS本部のビルの高層階であることが、その遠景の見え方で分かった。机の向こう側には、すでに白石美咲が着席していた。
柊が会議室に入ると、白石は立ち上がって、軽く会釈をした。
「柊先生、本日はお時間をいただき、ありがとうございます。どうぞ、おかけください」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
柊は対面の席に腰を下ろし、鞄からクリアファイルを取り出して机の上に静かに置いた。柊が着席したのを見届けてから、白石が席に戻り、柏木も白石の隣の書記の位置に座った。長机の対面——白石と柏木が一方の側に並び、柊は一人で向かい合う形になった。
白石は資料を一度整え、柏木が議事録用の端末を起動するのを待ってから、口を開いた。
「本日お越しいただいた件、ご説明させていただきます」
柊は身構えた。何が出るのか、まだ分からない。
「柊研究棟のヒルダさんの活用について、ご相談です」
その瞬間、柊の中で何かが緩んだ。
処分の話ではない。最悪の想定が外れた——その安堵が、身体の真ん中で一度だけ揺らいだ。柊は息を一つ整えた。整えながら、自分が今、わずかに緩んだことに気づいた。緩みは、交渉の場では弱みになる。柊は再び姿勢を整え直そうとした。けれど、底に広がった安堵は、姿勢を整え直しても完全には消えなかった。安堵は、地下水のように身体の底に残り続けた。
「現在、悪意のあるAI事案の対応で、ホワイトAIの分析能力を必要としています」
白石の声は落ち着いていた。冷たくはなく、しかし事務的な硬さは保たれている。柊は応答までに一拍置いた。
「……はい。お聞きします」
応答の声が、普段より少しだけゆっくりだったかもしれない。柊は自分の声を客観的に聞きながら、机の上に置いたクリアファイルの背を指先で軽く押さえた。
白石は手元の資料に視線を一度落としてから、続けた。
「ヒルダさんの分析能力は、この数ヶ月の被害拡大の中で、当機構として極めて有用と判断しています。捜査支援の観点から、攻撃パターンの分析と、必要に応じた拠点防衛の任務に従事していただきたい、というのが本日のご相談の骨格です」
「……はい」
「運用条件としては、以下のような形を想定しています」
白石はそこで一拍を置いた。資料の該当ページを開いて、指で軽く押さえる動作が、机の向こう側で見えた。柊はその動作を見ていた。白石の指先には、判断の重みのようなものが宿っていて、その重みが資料を押さえる力加減に出ていた。
「任務中のリアルタイム監視。行動範囲はAICSの指示に基づくこと。任務範囲外の自発的判断の制限。これらが基本となります」
三つの条件が、白石の口から一つずつ静かに置かれていった。柊はそれを聞きながら、頭の中で書き留めていた。条件の三つ目に出てきた「行動範囲はAICSの指示に基づくこと」という一文には、特に強い色は塗られていなかった。他の条件と並べて、列挙の中の一項目として、淡々と置かれていた。柊もそれに対して特別な反応はしなかった。
「……はい」
柊が短く応じると、白石は再び一拍を置いた。
今度の一拍は、先ほどの一拍より長かった。白石は資料に視線を落としたまま、ペン先を一度資料の上に置き、また持ち上げた。何かを言おうとして、言葉を選んでいる時間だった。柊はその一拍の中に、白石の身体が一度立ち止まっているのを感じた。
「……以前にも、類似の判断を扱ったことがあります」
白石は静かに言った。
柊はわずかに視線を上げた。具体的な事案の名前は出てこなかった。けれど、白石の声には重みが乗っていた。机の向こう側に座っている女性が、どこかで何かを抱えている人間であることを、柊はその一言から感じ取った。
「慎重を期すことが、結果として双方にとって望ましい運用に繋がると考えています」
柊は応答を返さなかった。返すべき言葉が、すぐには見つからなかった。白石の言葉が、公式の場の言葉として置かれた以上の重みを持っていることを、柊は受け止めた。受け止めたまま、机の上のファイルに視線を戻した。
白石も、それ以上は言わなかった。机の上の資料を一度揃え、柏木が議事録の入力を一区切りさせるのを待った。
数秒の沈黙のあと、柊は息を整えた。机の上のクリアファイルを、手のひらで一度軽く押さえた。それは、これまでの自分が、こうした場面で取れなかった動作だった。一年前の柊なら、相手の言葉を黙って受け入れるか、あるいはただ礼を言って退席していたかもしれない。そうした自分との差を、柊自身もまだ完全には消化しきれていなかったが、それでも、今、ここで質問を発するべきだと判断していた。
「いくつか、確認させてください」
「はい、どうぞ」
白石の応答は、即座に返ってきた。
「任務中に、ヒルダがAICS側から『暴走』と見なされる事態があった場合、どのような手続きを踏まれることになりますか」
柊の声は落ち着いていた。事実確認の形式で問いを置く。白石は資料の別のページを開きながら、答えた。
「即時の停止判断は、原則として行いません。監視ログを精査した上で、運用部内での協議、必要に応じて再分類の手続きを経ます。手順は段階的です」
「分かりました」
柊は短く受けて、次の問いに移った。次の問いは、最初の問いより、わずかに重い場所に踏み込むものだった。柊は一拍置いてから、視線を白石に向けた。背筋を一度伸ばす感覚があった。机の上のクリアファイルから手を離して、両手を膝の上に戻した。
「先日、柏木さんからご通告いただいた件——昨年末のヒルダの防衛行動についての権限逸脱事案ですが——これは今回の活用方針との関係で、どのような扱いになりますか」
その瞬間、机の向こう側で、柏木の視線がわずかに動いた。
書記の端末から目を離して、柊の方に視線が向いた。けれど、それは数秒で資料に戻っていった。柏木は何も言わなかった。柊もそれに気づいたが、視線を返さなかった。
白石は、答えるまでにわずかに時間を要した。
「……総合的に判断します」
短い回答だった。
含みがないわけではないが、具体性もなかった。柊はその回答を受け取って、次の言葉を発さなかった。追えば、白石はもう一段公式の言葉を重ねるだろう。そうなれば、議論は形式論の応酬になる。今ここで重要なのは、白石が「総合的に判断します」という言葉を使ったという事実そのものだった。柊はそれを記憶に留めた。
「……承知しました」
柊は短く返した。
会議室の中の空気が、一拍だけ重くなった。柊はその重さを引き受けたまま、最後の問いに移った。
最後の問いは、柊が本当に聞きたかったことだった。だからこそ、声を抑えなければならなかった。声に切実さを乗せれば、AICS側に手の内を見せることになる。柊は呼吸を一つ整えた。整えながら、それでも、声の底に滲むものを完全に消すことはできないと感じていた。
「……今後、当方のセキュリティユニットが捜査協力で一定の実績を上げた場合、その実績はユニットの存続評価に正式に考慮されると、理解してよろしいでしょうか」
「当方のセキュリティユニット」——柊は意識して、その言葉を選んだ。「ヒルダ」と呼んでしまえば、机の向こうに座っている人々に、自分にとってのヒルダの位置を渡してしまうことになる。研究者と管理者として振る舞うこと。それが、今の柊が選んだ姿勢だった。
白石は柊の問いを聞いて、わずかに視線を上げた。
「……前向きに受け止めます」
白石の声には、これまでの回答とは違う温度が、ほんの少しだけ滲んでいた。確たる約束を含む言葉ではない。それでも、否定の言葉でもなかった。むしろ、否定しないという意思表示だった。柊はその温度の差を捉えた。捉えたまま、表情を動かさずに頷いた。
「……分かりました」
白石は資料を一度閉じてから、続けた。
「以上が、現段階で当方からお伝えできる範囲となります。本日いただいたご質問・ご要望は、内部で検討いたします。正式な決定は、改めてご連絡させていただきます」
「お願いします」
柊は応じた。
柏木が議事録の入力を完了させ、議事の確認事項を小さな声で復唱した。柊が会議で発したいくつかの問いと、白石が答えた範囲が、事務的な言葉で記録されていった。確認が終わると、白石は立ち上がり、柊に向けて軽く会釈した。
「本日はお忙しいところ、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございました」
柊も立ち上がって、机の上のクリアファイルを鞄に戻した。柏木が机を回って、柊の側に来た。
「お見送りいたします」
柏木の声は、会議室に入る前と同じ、公式の場の声だった。けれど、柏木はそのとき、わずかに頭を下げた。先日の喫茶店で「ただ……」と言いかけて止まった、あの一拍と同じ質の動作だった。柊は気づいたが、問い返さなかった。問い返せば、柏木を公式の立場から引きずり出すことになる。それは、柏木への配慮の欠如になる。
「ありがとうございます」
柊は短く応じて、会議室を出た。
廊下を歩く間、柏木は半歩後ろを歩いていた。エレベーターホールで、柏木は柊と向き直った。
「お疲れ様でございました」
「お世話になりました」
エレベーターの扉が開き、柊は中に入った。扉が閉まる直前、柏木がもう一度、軽く頭を下げたのが見えた。
ビルを出ると、外の空気が変わった。
柊は一度だけビルの方を振り返ろうとして、振り返らなかった。歩道に出て、駅に向かう人波の中に身を入れる。AICS本部のある区から、研究棟のあるキャンパスまでは、電車で三十分ほどの距離があった。柊は駅まで歩きながら、頭の中で会議の内容を反芻していた。反芻は、論点を整理するためというよりは、自分の身体の中に残った重さを、歩く動作で少しずつ消化していくための行為に近かった。
処分ではなかった。
その事実は、確かに安堵だった。けれど、安堵だけでは終わらない種類の話だった。AICSはヒルダを必要としている。必要としている、ということは、ヒルダにはまだ価値がある、ということでもある。価値があるうちは、削除の議論は止まる。一方で、価値があるからといって、無条件で守られるわけでもない。「総合的に判断します」という白石の言葉が、まだ耳の奥に残っていた。グレーゾーンは棚上げになった——少なくとも、表面上は。けれど棚上げは、消滅ではなかった。いつか、何かのきっかけで、再びテーブルに上がる可能性は残されている。
柊は街路樹の下を歩きながら、そんなことを考えていた。
駅の前を通り過ぎ、信号を渡り、商店街の入り口にさしかかったあたりで、柊は周囲の音に気づいた。子どもを連れた女性が、店先で手作業のレジに並んでいる。少し先の青果店では、店主が客と言葉を交わしながら、果物を紙袋に詰めていた。先日歩いた商店街と、ほとんど同じ風景だった。あのときと同じ商店街、同じ時間帯、同じような人の流れ。けれど、見え方が違っていた。
あのとき、柊は街を「見て」歩いていた。今日、向かいの道では、街は目に入っていたが見ていなかった。今、戻り道では、街は再び目に入って、しかも見えていた。
柊の身体には、疲労があった。
会議そのものは長くなかった。けれど、机の対面に座って三つの問いを置いてくる作業は、想像していたよりも消耗するものだった。問いを発するたびに、声の温度を調整し、身体の動きを調整し、相手の応答の温度を読み取り、次の一手を選ぶ——その連続が、身体の中の何かを使い切っていた。柊は商店街の中ほどにあるベンチを横目に通り過ぎながら、座りたいという衝動を一度だけ感じたが、座らずに歩き続けた。
街路樹の葉が、午後の風にわずかに動いていた。
柊は電車に乗り、研究棟の最寄り駅で降りた。駅からキャンパスまでの道のりも、いつものペースで歩いた。歩きながら、ヒルダにどう報告するかを、断片的に考えていた。検討段階の協議だ——確定情報がない以上、伝えられることは限られていた。
研究棟の入り口で、生体認証を済ませて中に入る。
廊下のリノリウムの音、空調の振動、研究室のドアまでの一定の距離。柊は研究室のドアの前で、鞄の持ち手を握り直した。ドアを開ける前に、一度だけ深く呼吸をした。それから、ドアを開けた。
中は、出かけたときとほとんど変わらない様子だった。空調の低い唸り、デスクトップ端末のファンの細い回転音、デスクの上に置かれた書類の位置。光の差し込み方が、午後のものに変わっているくらいだった。
「……戻った」
柊は研究室に入りながら、短く言った。
「お帰りなさいませ、マスター」
ヒルダの応答は、いつもの定型だった。
柊は上着を椅子の背にかけ、鞄をデスクの脇に置いた。中からクリアファイルを取り出して、デスクの上に置く。それから、自分の椅子に腰を下ろした。座った瞬間、身体の中に残っていた疲労が、一度に重さとして降りてきた。柊は背もたれにゆっくりと体を預けた。
しばらく、何も言わずに座っていた。
ヒルダの方も、柊が座ってから一拍置いて、応答を続けなかった。普段なら定型応答のあとに業務処理のサイクルに戻るところだが、今日は、応答の後に何かを待つような間があった。柊はその間に気づいたが、口には出さなかった。
「AICSの白石さんと話してきた」
柊は、ようやく口を開いた。
「はい」
ヒルダの応答は、短かった。
柊は、続ける言葉を選んだ。「処分の話ではなかった」と言うことは、できた。けれど、その言葉を口にすれば、自分が処分の可能性を考えていたことが、ヒルダに伝わる。それは、ヒルダに無用な不安を渡すことになる。柊は、その言葉を呑み込んだ。
「捜査協力の話だった」
柊が言うと、ヒルダの応答までに、わずかな間があった。
「……承知しました」
ヒルダの声には、いつもの業務応答のトーンが乗っていた。けれど、その底に、何かを察知した気配があった。柊は気づいたが、口には出さなかった。ヒルダもまた、何かに気づいているかもしれないが、口には出さなかった。
二人の間に、言葉にならない短い時間が流れた。それは沈黙ではなく、互いに何かを察知し合っていることを、互いに知っているという、静かな共有の時間だった。
「正式な連絡が来たら、また伝える。今日は、ここまでにしよう」
「はい。お疲れ様でございました、マスター」
ヒルダの「お疲れ様でございました」には、いつもの定型応答とほんの少しだけ違う温度が乗っていた。柊はそれに気づいた。気づいたが、何も言わなかった。労いは、言葉として受け取るよりも、応答の温度として受け取る方が、今は楽だった。
柊は背もたれに預けた身体をゆっくりと起こし、デスクの上のクリアファイルを脇に寄せた。それから、午後の業務の続きに取り掛かるために、端末を開いた。研究室の音は、いつもの穏やかな振動に戻っていた。
窓の外で、午後の光がデスクの端をまた白く縁取り直していた。柊は端末の画面に視線を戻し、まだ手をつけていなかった解析タスクの一つを呼び出した。指がキーボードに伸びる前に、もう一度だけ、深い息を吐いた。
吐いた息の中に、まだ「総合的に判断します」という白石の声と、柏木がエレベーターの前で軽く頭を下げた動作と、商店街のベンチを通り過ぎたときに座らずに歩き続けた選択とが、重なって含まれていた。研究棟の中は静かで、そして、決まりかけていることが、まだ何も決まっていなかった。




