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AIはマスターの夢を見るか?2  作者: 結城 黒子
第3章 捜査線上
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第6節 値踏み

 AICS本部の十七階、中規模会議室。


 窓の外には都心のビル群が広がり、午後の光が壁面ガラスに反射して、会議室の白い壁に柔らかく届いていた。長机に椅子が対面で六脚ずつ。正面奥に壁面モニターが一枚、議題資料を表示している。


 定時の三分前、会議室には既に数名が揃っていた。審議官の藤本が中央の席で書類に目を通し、その隣に書記の若い事務職員が着席している。向かい側には管理部門の監査担当、高橋。四十代後半の男で、縁の薄い眼鏡を掛けている。高橋は左手の指で眼鏡のブリッジを軽く押さえる癖があり、資料のページを繰りながら何度かその動作を繰り返した。


 ドアが開いて、運用部の白石美咲が入ってきた。グレーのジャケットに、控えめなブラウス。書類ファイルを小脇に抱えている。その後ろに、柏木理亜が続いた。


「失礼します」


 白石が軽く一礼し、指定された席に着いた。リアもその隣に座り、持参した端末を机の上に開いた。入室の所作は機械的で、余分な会話はなかった。


 藤本が壁掛けの時計を確認し、書類を一度机の上で整えた。


「それでは、定時ですので始めます」


 藤本の声は穏やかで、事務的だった。書記の職員が議事録の記録を開始する。


「本日の議題は二件。議題(A)、捜査協力におけるホワイトAI活用の検討。議題(B)、柊研究棟セキュリティユニット、ユニットIDヒルダの権限逸脱事案の対応方針」


 壁面モニターに議題が表示された。青い背景に、白い字でタイトルが並んでいる。


「まず議題(A)から入りましょう。運用部、ご説明を」


 白石がファイルを開いた。指先が資料の該当ページを滑らかに探り当て、一度軽く頷いてから顔を上げた。




「運用部の白石です」


 白石は落ち着いた声で始めた。


「該当ユニットの分析能力について、捜査支援課から継続的な協力要請が入っています。先日共有されたレポートは、複数の案件で捜査の方向性に寄与しました。今後も同水準の協力が期待できる見通しです」


 白石は手元の資料の数値を指し示しながら、要点を一つずつ説明していった。分析精度、処理速度、過去事例との照合結果。いずれも簡潔で、過剰な修飾のない報告だった。


「活用方針の正式化を、運用部として提案します」


 壁面モニターの表示が切り替わり、活用案の概要が表示された。高橋がそれを一瞥してから、手元の資料に視線を戻した。眼鏡のブリッジを指で押さえる。


「監査側から申し上げます」


 高橋が口を開いた。


「該当ユニットは、現在、権限逸脱の観察対象です。外部ネットワーク接続元への参照、判断プロセスの走査深度、リソース配分——これらの項目について、AICSの監査パラメータに照らした確認が継続中です」


 高橋の声は白石と同じく落ち着いていた。感情的な抑揚はなく、数値の報告と変わらない調子で続ける。


「現時点では閾値未超過、処分の決定には至っていません。ただし、自我兆候の兆しがあるユニットを、安易に活用すべきではありません」


 会議室に短い沈黙が流れた。藤本が両方の資料を並べて置き、視線を白石と高橋の間に往復させた。


「運用部からの見解は」


 藤本が促した。白石がファイルのページを一枚めくる。


「活用と対応は、別の議題として扱うべきではないでしょうか」


 白石の返答は、準備していた論点に沿ったものだった。


「同じユニットに関する事案である以上、切り離しては考えられません」


 高橋が即座に応じた。二人の立場の違いが、最初の数往復で明確に輪郭を見せ始めていた。


「捜査協力の必要性は、現実の業務上の要請です。分析能力を活かせる案件を、管理上の懸念だけで遠ざけるのは、組織としての機会損失です」


 白石はそう述べてから、資料の別のページに指をかけた。


「自我兆候AIを捜査業務に活用することは、前例として重大です」


 高橋は眼鏡のブリッジに指を当てながら続けた。


「後の管理基準に影響します。該当ユニットが活用対象として既成事実化すれば、類似の判定基準が他のユニットにも適用される道筋ができます」

「処分決定前の段階での活用は、既存の枠組みでも可能です」


 白石は視線を逸らさずに返した。


「閾値を超えた時点で活用を停止する、という条件付きでの運用も選択肢の一つです」


 高橋が一拍置いてから応じた。


「その『条件付き運用』が、前例として独り歩きします。削除対象となる可能性のあるユニットを、捜査側が『有用な資源』として認識すれば、削除決定に対する抵抗が生じます。管理基準の一貫性が揺らぎます」


 議論のテンポが上がってきていた。リアは書記の隣で手元の端末に記録を取りながら、時折白石の資料を確認する動作を繰り返していた。発言はしない。書記の若い職員の指がキーボードの上を均等な速度で動いている。


 白石が資料のページをもう一度めくった。指先が、やや深く紙を押さえた。


「……以前、類似の事案がありました」


 白石の声が、わずかに低くなった。


「当時は、現場の判断で正常判定が下されました」


 その瞬間、リアがペンを持つ手を止めた。


 視線が資料からほんの少し上に上がり、白石の横顔を一度だけ見た。そしてすぐに、また資料に視線を戻した。ペンの動きが再開する。数秒のうちに、その一連の動作は終わっていた。


 白石は気づいていなかった。高橋も気づいていなかった。藤本は白石の発言の内容に集中していた。書記の指はキーボードの上を止まらずに動いていた。


「今回も、慎重な判断が求められます」


 白石は続けた。


「ただし、慎重さとは、即座に削除することでも、即座に活用することでもありません。現状を正確に把握した上で、段階的な判断を積み重ねることです」


 白石の発言には、単純な活用推進には収まらない重みがあった。過去の事例を見てきた者の判断の厚み——それは、言葉の選び方の端々に静かに滲んでいた。


 高橋が小さく頷いた。反対の意思を示すためではなく、論点を受け止めたという動作だった。


「白石課長の所見は理解しました。ただし、監査側としては、前例の重みについて、改めて申し上げておく必要があります」


 高橋は資料の別のページを指し示した。


「該当ユニットの観察項目は、今後も継続的に積み重なる可能性があります。一項目ずつでは閾値未超過でも、複数が累積した場合の判断基準については、運用部と監査部の間で合意形成が必要です」


 白石が頷いた。


「その点については、異論ありません」


 議論は、ここで実質的に平行線に達した。双方の論点が並列され、それぞれの立場が明確になった段階で、議長としての判断が求められる局面だった。


 藤本が資料を閉じた。机の上で両手を軽く組む。


「双方の論点は理解した。結論を急ぐ段階ではない」


 藤本の声は、さっきまでの議論のテンポとは別の、より緩やかな調子に戻っていた。


「活用の方針、処分の方針、どちらも継続検討とする。次回会議で、追加データとともに再協議する。それまでに、運用部は活用の条件付き運用案の詳細を、監査部は累積判定の基準案を、それぞれ整備してもらいたい」


 白石と高橋が、ほぼ同時に「承知しました」と応じた。




 書記の若い職員が、議事録の確認事項を小さな声で復唱した。


「議題(A)継続検討、議題(B)継続検討。次回会議にて再協議」


 書記は手元のチェックリストに目を落としたまま、続けた。


「柊氏——開発者への通知については、現段階で新たな通知は不要。既に先日の経緯確認で伝達済みとのこと」

「確認しました」


 藤本が頷いた。


「了解しました。では、今日はここまで」


 藤本が閉会を宣言した。全員が軽く一礼し、書類をまとめ始める。


 藤本が最初に立ち上がり、高橋と書記が続いて退室した。高橋は退室際に白石に軽く目礼し、眼鏡のブリッジを一度押さえてから廊下へ出ていった。会議室のドアが音を立てずに閉まる。


 白石が自分のファイルを整えながら、隣のリアに向かって言った。


「柏木さん、次の会議用の資料、今日中に追加しておいて。活用の条件付き運用案の方、運用部の案として詳細化する必要があるから」


「……承知しました」


 リアの応答には、一瞬の間があった。白石はそれに気づかず、ファイルを閉じて、自分の資料を胸に抱えて立ち上がった。


「じゃあ、お願いね」


 白石は会議室を出ていった。ドアがまた閉まる。


 リアは自分の端末のログを保存し、ゆっくりと立ち上がった。机の上の資料を一枚ずつ確認しながら、ファイルにまとめていく。書記が置いていった飲みかけの紙コップが、机の端に一つ残っていた。


 資料をまとめ終えたリアは、一度だけ窓の外を見た。


 都心のビル群は、午後の光の中で変わらずそこにあった。会議が始まる前と、何も変わっていない風景。ただ、会議室の中でついさっき話されたことが、今、記録として、書類として、組織の次のサイクルに引き渡されていく。


 リアは息を一つ、静かに整えた。


 それから、資料を抱えて会議室を出た。




 誰もいない会議室に、午後の光が傾き続けていた。


 壁面モニターの議題表示は、誰かが消すのを忘れたまま、青い背景の上で議題(A)と議題(B)のタイトルを静かに表示し続けていた。机の上には、書記が置き去った飲みかけの紙コップが一つ。椅子は、使われていた位置から微妙にずれたまま並んでいる。


 会議は終わっていた。ただし、終わったのは会議という形式であって、議題そのものではなかった。議論された内容は、すでに書類の中に、データの中に、組織の記録の中へと移動していた。そこで、次のサイクルのための整理が、静かに進んでいく。


 柊研究棟では、ヒルダがいつも通りに業務を続けていた。何も起きていない日常。いつもと変わらない定常チェック。


 柊はレポートを送信した後、次の仕事に戻っていた。新しい問いを抱えたまま、答えを探す時間を、自分の中で続けていた。


 二人は、この会議の存在を知らない。


 窓の外で、午後の光がさらに傾き、都心のビル群の影が長くなっていく。風景は動いているのか、止まっているのか、誰も見ていない会議室の中からは、判別がつかなかった。


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