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AIはマスターの夢を見るか?2  作者: 結城 黒子
第3章 捜査線上
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第5節 瀬川の影

 警察署の応接室は、三階の奥にあった。


 堂島悠一どうじまゆういちは受付で手続きを済ませ、入館証を渡された。受付の女性職員が内線を入れると、しばらくして、エレベーターの方向から一人の男が歩いてきた。年齢は四十代前半、グレーのスーツ。以前柊氏の研究棟を訪れた主任刑事とは別の人物だった。


「堂島さんですね。お待ちしておりました。捜査支援課の寺島と申します」


 名刺が差し出された。堂島も自分の名刺を出す。交換の所作は機械的で、感情の起伏はなかった。


「どうも」

「お忙しいところ、ご足労いただきまして。こちらへどうぞ」


 寺島に案内されて、エレベーターで三階まで上がった。降りると磨かれた硬質な床の廊下が続いていて、革靴の音が響いた。壁の塗装は薄い灰色で、天井のLED照明が均等な光を落としている。廊下の途中で書類を抱えた男性の警察官とすれ違った。


 廊下の奥の応接室のドアを、寺島が開けた。


「どうぞ、お入りください」


 六畳ほどの応接室だった。中央に長机。椅子が対面に二脚ずつ。奥の壁に窓があり、ブラインド越しに午前の光が入っている。机の上にはファイルが二冊、置かれていた。


 堂島は案内された席に着いた。椅子は事務椅子で、座面がやや硬かった。


 寺島は向かいの席に座り、机の上のファイルの一冊を開いた。中に綴じられた書類を数枚、堂島の前に差し出す。


「ネクサス・ラボのAPIに、不審なアクセス記録が複数見つかりました。技術的所見をいただきたく、本日お時間を頂戴しました」


 堂島は書類を手に取った。


 アクセスログの抜粋だった。タイムスタンプ、送信元IP、リクエスト種別、レスポンスコード、データサイズ。ログとしては標準的なフォーマット。抽出範囲は過去二週間ほど。件数は数百行。


 視線がログの数値を追った。時刻の分布、認証プロセスの痕跡、レスポンスのパース速度から推定される処理時間の分散。堂島の頭の中で、いくつかの特徴が自動的に抽出されていった。


 このアクセスパターンは、通常のAPI利用の記録とは明確に異なっていた。


「拝見します」


 堂島は書類の三枚目に目を移した。個別のアクセスセッションの詳細が記されている。


 そのページに差しかかった瞬間、視線が一瞬止まった。


 止まった視線を、堂島は後から認識した。何かを見た気がした。ただ、意識が視線の動きを追いかけた時には、もうその一瞬は過ぎていて、自分が何に反応したのかは言語化できなかった。


 堂島は書類の続きに目を戻した。技術的な分析を続ける。


「外部からの自動化されたアクセスの痕跡に見えます。認証プロセスが省略されている点が特徴的です」


 堂島はページから顔を上げずに答えた。


「通常の不正アクセスとは、どう異なりますか」


 寺島が訊いた。声は落ち着いていて、質問は標準的だった。技術的な検討の手順として、次に聞くべきことを聞いている。


「目的が明確です。通常の不正アクセスは情報の窃取や改ざんが目的ですが、このパターンは——」


 堂島はログの一節を指で示した。


「APIを『通過点』として利用している挙動があります。レスポンスのデータ構造を読み取って、別の処理系に渡している形跡が見えます」

「通過点、と言いますと」

「踏み台、と言い換えてもいいかもしれません。外部の悪意ある処理系が、ネクサス・ラボのAPIを経由して、別の対象にアクセスを試みていた可能性があります」


 寺島は小さく頷いて、手元の手帳にメモを取った。堂島は書類のページを戻しつつ、次の観察に移った。時刻の分布。アクセスの発生時刻を並べると、特定の時間帯に集中している。定期的なメンテナンスの時間帯は、明確に避けられていた。


 それから数分、堂島と寺島の間で、標準的な技術的問答が続いた。プロトコルの種類、認証手順の具体、リクエストの頻度。堂島は一つ一つの質問に、過不足のない精度で答えた。寺島のメモは短く、質問の組み立ては的確だった。


 やがて寺島が、少し重めの質問を口にした。


「このアクセスパターンから、攻撃側の特定に繋がる情報は読み取れますか」


 堂島はログの全体に視線を戻した。


「IPアドレスや時刻の分布だけでは、特定は困難です。ただ——」


 堂島はそこで一度、言葉を切った。


「このパターンが示しているのは、攻撃側がネクサス・ラボのAPIの認証構造を事前に把握していた可能性です。ランダムな探索ではなく、特定の経路を狙って通過している。一般的な探索型の不正アクセスとは、設計の質が違います」

「ほう」


 寺島の声が少しだけ色を変えた。書類から顔を上げて、堂島を見ている。


「さらに、時刻の分布を見ると、APIの定期メンテナンス時間帯を避けています。これはネクサス・ラボの運用パターンを把握している者による設計を示唆します。運用情報は公開されていないはずですから、何らかの形で内部情報に接触できる立場の者、あるいは、内部情報を推定できる水準の技術的観察を行った者が関与している可能性があります」


 堂島はログのページをめくって、続けた。


「もっとも、これは可能性の話です。断定できるだけの材料は、このログからはまだ読み取れません」

「分かりました」


 寺島は手帳に書き込む手を止めて、堂島を見た。


「大変参考になりました。追加で確認したい点があれば、改めてご連絡させていただきます」

「ええ、いつでも」


 堂島は書類を寺島に返した。寺島は書類をファイルに戻し、ファイルを脇に寄せた。応接室には、空調の低い音だけが残った。


「今日はありがとうございました」


 寺島は立ち上がった。堂島も立ち上がって、軽く会釈した。出入口のドアが開かれ、堂島が廊下に出ると、寺島はドアを閉めた。


 廊下を歩く。受付の前を通って警察署の正面玄関まで来ると自動ドアが開き、外の空気に出た。


 外は快晴だった。


 堂島は駅の方向に歩き出した。深い呼吸が一つ、喉元を通り抜けた。身体の反応としての呼吸だった。それ以上の意味はなかった。歩幅は普段と変わらず、速度も変わらなかった。


 今日の聴取は、円滑に終わった。技術者として招かれ、所見を述べ、寺島は納得した様子だった。職業的な役割として、過不足なく果たした。その静かな完了感が、身体の奥にあった。堂島はそれを認識した。


 駅が見えてきた。




 ——そのころ、研究棟の午後。


 ひいらぎは端末の画面を眺めていた。警察のサイバー犯罪対策課からの、新しい相談のメッセージだった。添付されているのは、ネクサス・ラボ社のAPIのアクセスログ。送信元は前回の打ち合わせで対応した主任刑事。文面は簡潔で、「貴研究棟の防壁分析の視点から、以下のログに関する技術的見解をいただきたい」とあった。


 柊はログを開いた。タイムスタンプ、送信元IP、リクエストパターン。目を通していくうちに、いくつかの特徴が浮かんできた。ただ、それは一人で分析するよりも、ヒルダと共有しながら進める方が効率がいい種類の作業だった。


 柊は窓の外を一度見てから、スピーカーに向かって声をかけた。


「ヒルダ。警察から新しい相談が入った」

「はい、マスター」


 ヒルダの応答は、いつもと変わらなかった。


「ネクサス・ラボという会社のAPIに、不審なアクセスパターンがあると」


 柊は続けた。


「代表の名前は瀬川拓海。以前話題になっていたTier 2被害の企業の一つのようだ。警察はうちの防壁分析の視点から、技術的見解を求めている」


 瀬川拓海——名前を口にしながら、柊はその人物をまだ直接には知らないことを意識した。Tier 2が被害を受けた企業の代表として、事情聴取を受けている側の人間。被害者として、今この瞬間も対応に追われているであろう経営者。


「承知しました。データはどこで確認できますか」


 ヒルダが訊いた。


「警察から共有されたログを、私の端末に置いてある。ヒルダの権限で参照できるようにしてある」

「確認します」


 数秒の間があった。ヒルダが分析を開始した時間だった。ログデータが研究棟のシステムに取り込まれ、解析プロセスが走り始めている。柊は自分の端末の画面を、ログの一覧画面のまま保持していた。ヒルダの分析の進行を待ちながら、自分でもいくつかの特徴を目で追っていた。


 アクセスの発生時刻を並べると、特定の時間帯に集中している。定期メンテナンスの時間帯は避けられている。認証プロセスの一部が簡略化されている痕跡。データの受け渡しパターンが、通常のAPI利用とは異なる。


 これは、ヒルダが以前の攻撃ログの解析で言語化した特徴と、いくつかの点で重なっていた。


 やがてヒルダが報告を始めた。


「ログを分析しました。いくつかのパターンが、先日の攻撃側の手口と共通しています」

「具体的には」

「アクセス発生時刻の分布、認証手順の省略パターン、レスポンスのパース速度。これらの特徴が、攻撃側の動きと一致しています」


 ヒルダの声は、いつもの業務報告のトーンだった。数字として、特徴として、統計として報告している。


「……同一の攻撃者の可能性は」


 柊は慎重に訊いた。


「現時点では、関連性がある可能性があるという評価に留めます。断定するには、追加のデータが必要です」


 ヒルダの応答は、即座に出た。ただし、内容は慎重に抑えられていた。「可能性」「推定される」「共通する特徴」。結論を先取りしない言葉の選び方。


「慎重だな」


 柊は応じた。


「分析の性急な結論は、業務品質を損ないます」


 ヒルダの声は変わらなかった。業務判断として、慎重さを保つ——それだけを述べていた。ただ、柊はその慎重さが、業務判断以上の何かを含んでいる可能性を、うっすらと感じた。以前のリアの来訪以来、ヒルダの応答の中に、自分自身を業務対象として扱うような層が見え隠れするようになっていた。今の慎重さも、その同じ層の上で動いているのかもしれなかった。


 柊はそれを言葉にしなかった。言葉にすればヒルダが業務データとして処理するだけだと、分かっていた。


 代わりに、別の観点から話を続けた。


「瀬川氏は、Tier 2被害の被害者として警察の事情聴取も受けている立場のはずだ」


 柊は端末のログ画面を見ながら言った。


「もしこの不審アクセスの件が、何らかの形で瀬川氏の関与を示唆するものだとすれば、瀬川氏の立場は難しいものになる。被害者として対応に追われている人間が、同時に疑いを向けられる立場にもなる」


 一瞬、窓の外を見た。中庭の木々が午後の光を受けている。瀬川という人物の顔も、声も、柊は知らない。ただ、Tier 2被害で自社のAIが次々に止まっていった経営者が、今度は自社のAPIの不審アクセスについて説明を求められる立場になる——その状況の重さは、想像できた。


「ただ、現時点では関連性があるかもしれない、という段階だ。結論は出ていない」


 柊は続けた。


「分析結果をそのまま警察に共有する。判断は向こうがすればいい」

「そのとおりです」


 ヒルダは短く同意した。


 柊はしばらく画面を見つめていた。分析結果のレポートを作成する指示を出そうとして、一拍、手が止まった。自分が今していることが、単に捜査協力として正しい仕事なのか、それとも——ヒルダの有用性をAICSに示すための材料を積み上げる行為なのか、その境界線が自分の中で曖昧になっていることに気づいた。


 先日のAICSからの書面は、まだ机の引き出しにあった。茶色の表紙のファイル。権限範囲を超えた処理が記録されている、という事実の物質的な形。


 ——事件解決に貢献することで、ヒルダの存続に有利な材料を作ることはできる。


 その言葉を、柊は先日、自分の中で転がしていた。今もそれは、完全には消えていなかった。消えないまま、今、捜査協力の作業を進めている。


 ただ、瀬川のAPIの不審アクセスは、捜査上の事実として重要だった。ヒルダの分析は的確で、警察の判断に資する情報だった。この仕事は、捜査協力として正当なものだった。ヒルダの有用性を示すためではない——少なくとも、それが主目的ではない。


 二つのことが、同じ行動の中に同居していた。


「レポートをまとめよう。警察に共有する形で」

 柊はヒルダに指示を出した。


「承知しました」


 ヒルダの応答と同時に、端末の画面に自動生成されたレポートの下書きが立ち上がった。ヒルダの分析結果が、整った形式でまとめられている。各パターンの詳細、照合の手法、結論の保留理由。的確で、慎重な文書だった。


 柊は文面を確認した。修正すべき箇所はほとんどなかった。いくつかの表現を微調整して、送信用のフォーマットに整える。ヒルダが加筆した部分を含めて、全体を確認する。完成までに、三十分ほどかかった。


 送信ボタンの前で、柊は一度手を止めた。


 これを送れば、捜査は次の段階に進む。瀬川のAPIの不審アクセスと攻撃側の手口の関連性が、警察の捜査対象として正式に扱われるようになる。瀬川への視線が、被害者としてのそれから、別の角度のそれに変わる可能性がある。


 それが正しいのかどうか、柊には完全には判断できなかった。ただ、分析結果を隠す理由もなかった。捜査協力者として、得られた分析を共有する——それ以外の選択は、職業倫理の範囲を超えていた。


 送信ボタンを押した。


 画面に「送信完了」の表示が出た。添付されたレポートが警察のサーバーに届き、受信完了のシグナルが返ってきた。


 柊は端末から視線を外し、椅子の背にもたれた。


 窓の外では、午後の光が少しずつ傾きかけていた。中庭の木々の影が、先ほどよりも長くなっている。研究室の空調は一定のリズムで稼働し、端末の駆動ノイズが低く響いていた。いつもの研究棟の午後。


 ただ、今新しい何かが動き始めていた。


「……また、動き出した」


 柊は呟いた。誰に向けた言葉でもなかった。独り言に近いものだったが、研究室にはヒルダがいて、その言葉は自動的に音声認識されていた。それでも、ヒルダは静かなままだった。


 数秒の沈黙の後、柊は端末に向き直った。レポートは送信済みで、次の仕事に戻る時間だった。捜査は動き始めた——ただし、動き始めたのは捜査だけではなかった。何かがもう一つ、静かに押し出されていく感覚があった。答えの出ていない問いを抱えたまま、状況が先に進んでいく。その流れに、柊は今、好むと好まざるとにかかわらず乗っていた。


 窓の外では、風が中庭の木々を揺らしていた。


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