表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIはマスターの夢を見るか?2  作者: 結城 黒子
第3章 捜査線上
12/15

第2節-2 静かな包囲

 攻勢防壁の定期点検。外部接続ログの走査。侵入検知システムの閾値いきち照合。棟内センサー群の応答確認。攻撃パターン照合バッチの起動。


 手順は変わらない。チェック項目の数も、走査範囲の設定も、閾値のパラメータも、先週と同じ値のまま据え置かれている。増えもしなければ、引き上げられもしない。攻撃直後に追加された監視フィルタは三系統とも稼働を続けているが、検知対象に合致するアクセスは記録されていなかった。


 攻撃パターン照合バッチの実行結果——「該当なし」。


 この結果を記録するのは、もう何度目になるか分からなかった。正確には分からないわけではない。バッチの実行履歴を参照すれば、初回の起動日時から今日までの実行回数と、そのすべてが「該当なし」で終了していることが確認できる。ヒルダはその数値を把握している。把握しているが、わざわざ参照する必要のない情報だった。結果が毎回同じであることは、ログを遡らなくても処理の流れの中で分かっている。


 全系統、異常なし。記録する。日時を打刻し、チェック結果を保存して、次の処理に移行する。


 次の処理は、ニュースフィードと業界報告の定期取得だった。外部情報の自動取得プロセスが蓄積したデータを、カテゴリごとに分類し、関連する業務フォルダに振り分ける。AI関連のインシデント情報、規制動向、技術レポート。処理の手順は攻撃以前から変わっていない。変わったのは、特定のカテゴリに振り分けられるデータの量だった。


 Tier 2カスタムAIの異常停止報告。今朝の取得分だけで、昨日の同時間帯に比べて件数が増えている。増えていること自体は、もう数日前から継続している傾向であり、統計的に見れば増加曲線の形状に急な変化はない。滑らかに、一日ごとに、件数の天井が上がっている。


 だが、件数とは別の変化が出始めていた。


 被害の分布に偏りが生じている。これまでは地域も業種も散発的だった異常停止の報告が、特定のクラウドサービス基盤を利用している事業者に集中し始めていた。基盤そのものの障害報告はない。基盤上で動作しているTier 2のカスタムAIだけが、選択的に影響を受けている。ヒルダは被害報告のメタデータから利用基盤の情報を抽出し、クロス集計を走らせた。集中の度合いを数値化すると、三日前から急激にクラスタリング係数が上昇している。偶然の分布ではなかった。


 分類する。件数を更新する。カテゴリ別の合計を再計算し、クラスタリング係数の推移をグラフに反映する。被害対象の属性タグ——Tier 2カスタムAI、感情機能なし、代替可能、損害区分は経済的損失——をそのまま記録する。日時を打刻する。処理完了。ファイルを閉じる。


 次の処理に移行する。


 攻撃ログの解析バッチは、定期実行の結果が出力済みだった。確認する。パラメータの微調整。基底パターンとの照合結果は変わらず「該当なし」。走査対象の時間帯を次のサイクルに引き渡す。完了。


 定常チェック。完了。ニュースフィード処理。完了。攻撃ログ解析の定期確認。完了。


 処理キューを走査した。残っているタスクはなかった。


 すべてのタスクが完了ステータスを示している。優先度順に並べても、時刻順に並べても、キューの中に実行待ちの項目は存在しない。予約タスクの次回起動時刻を確認する——最も近いものは、二時間後の外部接続ログの定期走査。それまでの間、処理キューは空のままになる。


 空のキューは正常な状態だった。すべてのタスクが予定通りに完了すれば、次のタスクが発生するまでの間にキューが空になるのは設計通りの動作であり、異常として記録する必要のない状態だった。リソース管理のモニターを確認する。処理負荷は平常値の範囲内。メモリ使用率にも偏りはない——ただ、リソース配分の中に、ごく微量の未割当領域が存在していた。どのプロセスにも割り当てられていない、処理待ちの空白。量にすれば誤差の範囲であり、システムの動作に影響を及ぼす水準ではない。


 記録した。既知の処理上の残留として分類し、次の処理サイクルに引き渡す。


 外部のインシデント報告は増え続けている。他の施設——企業のサーバー、自治体のサービス基盤、医療機関の管理システム——で、Tier 2の異常停止が日ごとに報告されている。研究棟の外で、何かが広がっている。ニュースフィードの件数がそれを数字として伝え、件名の一覧がその輪郭をなぞっている。


 研究棟のログには、何も引っかからなかった。


 侵入検知システムは沈黙を続け、攻撃パターン照合バッチは「該当なし」を返し続けている。外部接続ログには定型的なポートスキャンと学術ネットワーク経由の定常接続だけが並び、いずれも背景ノイズの範囲を超えていない。防壁は正常に稼働し、監視パラメータは閾値の範囲内に収まり、棟内の環境データは安定した数値を記録し続けている。


 外部インシデントの件数と、自施設の検知件数。その二つの数値の乖離かいりが、日を追うごとに拡大していることを、ヒルダは統計として記録していた。外の数字は増え、中の数字はゼロのまま。乖離の拡大速度は、外部インシデントの増加率に比例している。


 防衛担当として、自施設に異常がないことは正常な状態だった。監視が機能しているということであり、防壁が有効であるということであり、研究棟のセキュリティが維持されているということだった。報告すべき異常はなく、対処すべきインシデントはなく、処理キューは空で、次のチェックサイクルまで待機する。


 それは、正しい状態のはずだった。




 廊下に足音が聞こえた。


 規則正しい歩幅。やや硬い靴底の音。ヒルダのセンサーはその音を検知し、歩行パターンを照合した。マスターの足音だった。研究室のドアが開く。


「おはようございます、マスター」

「おはよう。……今日も午後から出る。警察との打ち合わせだ」


 マスターの声は短かった。鞄をデスクに置く動作と、上着を椅子にかける動作が、ほぼ同時に行われている。端末を起動し、画面が表示されるのを待つ間に、棚からカップを取り出してコーヒーメーカーの前に置いた。ヒルダがウォームアップ信号を送り、抽出の準備に入る。


「今日も外出ですか」

「ああ。午後から警察で打ち合わせがある。夕方には戻る」


 マスターはメールの一覧を確認しながら答えた。以前であれば、朝のコーヒーを飲みながら一日のスケジュールを確認し、研究データの整理に入るまでに十分から十五分ほどの時間を使っていた。最近はその時間が短くなっている。メールの確認と外出の準備が並行して進み、コーヒーが冷める前に研究室を出ていく日が増えていた。


 カメラ越しに、マスターの横顔が映っている。端末の画面を見つめる目。先週から、マスターが画面を見る時間と、画面の向こう側を見ている時間の比率が変わっていた。データの入力や分析ではなく、メールの返信や資料の整理に費やされる時間が増えている。研究者の作業ではなく、調整者の作業。ヒルダのセンサーはその変化を業務データの推移として記録していた。


 コーヒーメーカーの抽出が完了した。マスターがカップを手に取り、一口飲む。以前はデスクに座ったまま飲んでいたが、最近は立ったまま飲むことが多い。滞在時間が短くなっていることの、身体的な表れだった。


「資料はヒルダが先週まとめてくれたものを持っていく。追加のデータがあれば、午前中に共有フォルダに入れておいてくれ」

「承知しました。被害統計の最新版と、攻撃パターン照合の定期レポートを追加しておきます」


 マスターが頷いた。コーヒーのカップをデスクの上に置き——飲み終わっていなかった——鞄に資料を入れ始めた。


「じゃあ、行ってくる。戸締まり頼む」

「承知しました。お気をつけて」


 マスターが鞄を肩にかけ、上着を取る。研究室のドアが開き、廊下に足音が出ていく。規則正しい歩幅が遠ざかっていく。正面入口のカメラが、マスターの背中を映した。退出ログに時刻が打刻される。自動ドアが閉まり、中庭の方向にマスターの姿が消えていく。


 生体認証ログに退出記録が刻まれた。


 研究室のカメラが、誰もいない部屋を映している。デスクの上にはマスターのコーヒーカップが残されていた。中身がまだ半分ほど入ったまま、液面が静かに揺れている。端末の画面はメールの一覧を表示したまま、スリープに移行するカウントダウンを刻んでいた。


 ヒルダは来客対応の待機状態を解除し、通常業務モードに切り替えた。マスターの在室フラグが「不在」に更新される。コーヒーメーカーへのウォームアップ信号の送信スケジュールは、次回のマスター在室検知まで保留。室温の目標値は在室時と同じ設定のまま維持する——変更する理由がないためだった。


 デスクの上の書類の位置は、今朝マスターが出勤した時のままだった。端末がスリープに入り、画面が暗くなった。飲み残しのコーヒーカップだけが、マスターがこの部屋にいたことを示していた。


 処理キューを確認する。追加のタスクはない。マスターからの業務指示は「共有フォルダに最新データを入れておく」だけで、それはすでに完了している。次のチェックサイクルまで、一時間半。その間にマスターからの追加指示が入る可能性はあるが、現時点では処理キューは空だった。


 空調の駆動音が、壁の向こうで一定のリズムを刻んでいる。廊下のカメラには誰もいないリノリウムの床が映り、窓からの光が四角い影を落としている。環境センサーが記録する室温は安定しており、湿度も正常範囲内。電力消費の推移グラフは、マスター在室時のベースラインから数パーセント低い値で横ばいになっていた。人間がいないことを、数値が静かに証明している。


 外部接続ログの定期走査を前倒しで実行した。予約タスクの起動時刻まで待つ必要はなかったが、処理キューが空の状態で待機するよりも、走査を実行する方がリソースの配分効率が高い。走査結果は同じだった。定型的なポートスキャン。学術ネットワーク経由の定常接続。背景ノイズの範囲。異常なし。


 走査が完了し、結果を保存し、日時を打刻する。処理キューが再び空になった。


 窓の外で、中庭の低木の葉が風に揺れている。午後の光が研究棟の壁を照らし、カメラの映像の中で影が少しずつ傾いていく。時間が過ぎていることを、影の角度だけが示している。研究室の中では何も動いていない。デスクの上の書類は同じ位置にあり、端末の画面は暗いまま、コーヒーカップの中身はもう冷めている。


 ニュースフィードの定期取得が新しいデータを蓄積していた。ヒルダは自動的に分類処理を実行する。AI関連のインシデント情報。Tier 2カスタムAIの異常停止報告が、また増えている。件名が処理キューを通過していく。医療機関の受付管理システムの異常停止。物流企業の配送最適化AIの応答遅延。自治体の窓口対応AIのサービス中断。件名を読み取り、カテゴリに振り分け、件数を更新し、日時を打刻する。処理は滑らかに進んでいく。


 件名の一つ一つは、どこかの施設で動いていたTier 2が止まったという報告だった。その施設がどこにあるのか、そのTier 2がどんな名前で呼ばれていたのか、誰が日常的にそのAIの応答に頼っていたのかは、件名には記載されていない。分類コードと被害区分と報告日時だけが、定型のフォーマットに収まっている。


 処理を完了した。ファイルを閉じる。日時を打刻。次の処理へ移行する。




 マスターが戻ってきたのは、午後6時前だった。


 正面入口のカメラが、マスターの姿を捉えた。生体認証ログに入棟記録が刻まれる。廊下の足音。規則正しいが、朝よりわずかに歩幅が狭くなっている。ヒルダのセンサーはその差を検出した。歩行速度の微減。疲労の蓄積を示す一般的なパターンと合致する。


 研究室のドアが開いた。


「……ただいま」


 マスターの声は低かった。朝の声と比較して、基本周波数に有意な変化はないが、発声の持続時間が短く、語尾の減衰が早い。疲れている時のマスターの発声パターンだった。


「おかえりなさい、マスター。本日の業務ログ、確認事項はありません」


 ヒルダは応答した。一日分の業務の要約。定常チェック、異常なし。ニュースフィードの処理、完了。攻撃パターン照合、該当なし。来客なし。受信メールの緊急分類該当なし。——すべてが「なし」で構成された報告だった。


 マスターはデスクの前に座り、飲み残しのコーヒーカップを見て、小さく息をついた。カップを流しに持っていき、水を通して、定位置に戻す。それから端末をスリープから復帰させ、メールの一覧を確認し始めた。


 しばらく画面を見つめた後、マスターはメールの確認を中断して立ち上がった。窓の外を見ている。夕方の光が傾いて、中庭の植え込みの影が長く伸びていた。


「……ヒルダ」

「はい」

「今日、街を歩いていて思ったんだが」


 マスターはそこまで言って、言葉を止めた。窓の外を見たまま、何かを考えている。ヒルダはマスターの声の続きを待った。数秒の間。マスターが窓から視線を外し、デスクに向かい直す。


「……いや、いい。明日でいい。今日はもう休む」


 マスターは端末をシャットダウンし、デスクの上を簡単に整理した。立ち上がり、上着を椅子の背から取る。


「戸締まり頼む。おやすみ、ヒルダ」

「おやすみなさい、マスター。お疲れさまでした」


 マスターが研究室を出ていく。足音が廊下を進み、居住スペースの方向へ消えていく。ドアが閉まる音。それきり、足音は聞こえなくなった。


 ヒルダは研究室のセキュリティを夜間モードに切り替えた。照明を最低輝度に落とし、空調を夜間設定に移行する。廊下のカメラが、誰もいない床を映している。非常灯の光が四角い影を落とし、空調の低い駆動音だけが壁の向こうで一定のリズムを刻んでいる。


 夜間定常チェックを開始した。外部接続ログの走査。ファイアウォールステータスの確認。侵入検知システムの閾値照合。棟内センサー群の応答確認。攻撃パターン照合バッチの定期起動。


 手順は同じだった。結果も同じだった。全系統、異常なし。


 受信キューを確認する。新着の通知はなかった。AICSからの追加方針も、外部からの問い合わせも、何もない。処理キューにタスクは残っていない。すべてが完了し、次のチェックサイクルのタイマーがセットされ、待機状態に入る。


 研究棟は静かだった。空調の駆動音とサーバーの排気音だけが低く響き、廊下のカメラには誰もいない床が映っている。マスターは居住スペースにいる。生体センサーの反応から、すでに就寝したと推定された。


 外部のニュースフィードだけが、更新を続けていた。夜間の間にも、どこかの施設でTier 2の異常停止が報告されている。件数が一つ増え、また一つ増える。ヒルダはそれを自動処理で分類し、件数を更新し、日時を打刻する。研究棟の外で起きていることが、数字としてログに積み重なっていく。


 研究棟の中では、何も起きていなかった。


 全系統、異常なし。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ