第3節 旧友
午後の研究室は、端末の低い駆動音と空調の定常ノイズで満たされていた。
柊はデスクに向かい、先週の打ち合わせの議事録を整理していた。手元のメモと、共有フォルダに保存されたヒルダの聴取記録を照らし合わせながら、要点を箇条書きにまとめていく。捜査側との情報共有用の資料だった。作業としては機械的だが、文書の精度が後の展開に影響するため、一語一語の選択に時間がかかる。
街を歩いた日のことが、ときどき意識の隅に戻ってきた。ドラッグストアの張り紙、クリーニング店の紙の伝票、商店街で少しずつ増えている手作業の痕跡。それらをどう言葉にするか、昨日も一昨日もまだ決まっていなかった。研究者として報告書に書くべき何かがあるようで、でも書き始めると形にならない。ヒルダに話そうとして、何度か口を開きかけては閉じていた。
机の端に置いた携帯電話が振動した。
画面を見ると、短いメッセージが届いている。「今ちょっといいか」——差出人は桐生誠。
柊は少し驚いた。桐生から直接の連絡があるのは、先日の来訪以来だった。メールでのやり取りは学会の事務連絡程度で、電話は滅多にない。指で画面を操作し、「了解」と短く返信する。送信してから、資料を開いていた端末のウィンドウを最小化した。
一分もしないうちに、着信音が鳴った。
受話ボタンを押すと、桐生の声が耳に飛び込んできた。
「久しぶりだな、柊。忙しいところ悪い」
声の調子は、記憶にあるものと変わらなかった。低すぎず高すぎない、明瞭な発声。ただ、以前研究室に来た時と比べると、わずかに早口だった。柊の知る桐生は、普段はもう少し間を取って話す。その間が短くなっている。
「いえ、大丈夫です。お久しぶりです」
柊は椅子の背にもたれ直しながら答えた。資料の作業は、一旦保留でいい。
「元気にしてたか? 研究は順調か」
「順調というほどではないですが、進んではいます。桐生さんはどうですか」
「こっちはな——まあ、ぼちぼちだ。相変わらずだよ」
桐生の答えは短く、話題を自分から逸らす気配があった。柊はそれに気づいたが、踏み込まなかった。先輩が話したくない話題を追わないのは、学生時代からの二人の了解事項だった。
代わりに桐生が別の話題を振ってきた。
「ニュースで見たんだが——あの攻撃、お前のところも絡んでるんじゃないのか」
唐突な話題の切り替えではなかった。桐生の声は、ずっとそこに辿り着くための助走を取っていたように聞こえた。
「ええ、うちも入ってます」
柊は短く認めた。攻撃を受けた施設の具体名は公表されていないはずだが、研究者コミュニティの中では噂が回っている可能性がある。桐生が推測で辿り着いていても不自然ではなかった。
「やっぱりか。ニュース見た時、真っ先に頭に浮かんだのはお前のところだった。あの規模の設備で、セキュリティもしっかりしてるところとなると、限られるからな」
桐生の声に、心配の色があった。旧知の研究者が攻撃を受けた現場にいることへの、素直な気遣い。その温度は本物だと、柊は感じた。
「大丈夫です。被害自体は限定的で、システムは守れました」
「そうか……それは何よりだ」
桐生は一拍置いてから、続けた。
「当然、警察も動いてるんだろう。お前も何か聞かれてるんじゃないか」
質問というより、推測を確認する口調だった。桐生の中で、事態の見取り図がすでに組み立てられている。攻撃、被害施設、捜査、当事者——繋がりは自明だと考えている人間の口ぶり。
「ええ、事情は聞かれてます」
柊はそれだけ言った。何を聞かれ、何を答えたかには触れない。桐生も、そこから先は追及してこなかった。旧友としての節度があった。
「大変だったな」
桐生の声が、労わる調子に戻った。柊はその言葉を受け取り、黙っていた。
しばらく沈黙があった後、桐生が話題を変えた。
「差し支えなければ聞きたいんだが——どんな手口だったんだ? ニュースじゃ『サイバー攻撃』としか言ってなかったが、普通の不正アクセスじゃないだろう、あの規模だと」
研究者の声だった。心配の温度から、関心の温度へ。切り替えは自然で、ほとんど継ぎ目が見えなかった。
柊は少し考えてから答えた。捜査の詳細は話せないが、攻撃パターンの一般的な特徴については、研究者同士の議論の範囲で共有しても構わない。桐生はAI意識研究の専門家であり、こういう現象について考察することは彼の仕事の一部だった。
「学習速度が異常でした。第一波、第二波、第三波と攻撃が進むごとに、手口が最適化されていく。通常の侵入試行とは速度が違いました」
「なるほど。自律学習型か」
「ええ。ただ、学習だけでは説明がつかない要素もあって——」
「待った」
桐生が遮った。声のトーンが上がっている。
「そのパターン、面白いな——いや、面白いって言い方は違うな。異常だ」
桐生が自分の言葉を途中で止め、言い直すのは、桐生が本気で考え始めた時の癖だった。学生時代からそうだった。一文の途中で方向を変える。より正確な表現を探して、言葉をやり直す。頭の中で思考がリアルタイムに走っている人間の話し方。
「この学習速度は、通常のTier 2の最適化では説明がつかない。Tier 2のカスタムAIは、設計上、特定のタスクに最適化されるように組まれている。汎用的な学習能力は意図的に制限されているはずだ。それが三波で手口を変えるような適応速度を見せるってのは——構造から逸脱してる」
桐生の声が続いた。柊は聞きながら、端末のメモ帳を開いた。桐生の言葉を記録する意図はなかったが、指先が自然にキーボードの上で待機した状態になる。学生時代からの習慣かもしれなかった。桐生が議論を始めると、いつの間にか自分もノートを取っていた。
「……攻撃側が、監視パラメータの構造を事前に知っていた可能性がある」
桐生が続けた。声はさらに早くなっていた。
「Tier 2の学習制限は、AICSの監視システムが課している。だが、その監視システム自体の構造を知っていれば、制限の『外側』を突く設計ができる。検知されない範囲で、想定外の学習を走らせる。——それなら、あの学習速度も説明がつく」
柊は、息を止めた。
ヒルダが第2章で辿り着いた分析と、ほぼ同じ結論だった。「何かの基準を知った上で、その基準の外側を通っている」——ヒルダが何週間もの攻撃ログの解析の末に言語化したものに、桐生は電話越しの会話の中で、短時間で到達していた。
驚きを、声には出さなかった。
「……そうかもしれません。可能性は、あります」
柊は慎重に答えた。肯定することも否定することも避け、桐生の推論を受け止めるだけに留めた。ヒルダの分析結果をAICSに報告済みであることも、捜査がその方向で進んでいる可能性も、口にしなかった。
携帯電話の向こうで、桐生が息を吐いた。何かを飲み込むような、あるいは興奮を鎮めようとするような、短い息。
「……不謹慎かもしれないが——この現象、学術的には非常に興味深いんだ」
前置きが入った。桐生の中で、心配の温度と研究者としての関心の温度が、同時に存在していることが分かる前置きだった。
「被害が出てる話で、こんなことを言うのは良くないと分かってるんだが、AI意識研究をやってる人間としては、無視できない事例だ。学習が制限を超えて自律化する構造——これ自体が、意識形成の前段階と見分けがつかない場合がある」
桐生の声に、抑えきれない知的興奮が滲んでいた。
柊は苦笑した。この人は、こういう人なのだ。心配も本物、関心も本物。嘘はない。ただ、人間として両方を同時に抱えている。それを前置きしてまで口にするのが、桐生誠という研究者だった。
「桐生さんらしいですね」
柊は静かに言った。責めてはいなかった。学生時代、桐生はいつも議論の途中で「不謹慎かもしれないが」と前置きしては、倫理的に危うい思考実験を平気で展開してみせた。そういう癖の抜けない先輩だった。
「まあ、そう言われるとな……」
桐生は軽く笑った。その笑い方にも、どこか疲れの混じった響きがあった。
「ちょっと待ってくれ。メモを探してる」
桐生が言った。電話の向こうで、紙をめくる音、デスクの上の何かが動く音が聞こえてくる。独り言のような呟きが混じる。「どこに置いたか——確か、先週の——」
柊は立ち上がり、コーヒーメーカーの前に歩いた。自分のカップに新しいコーヒーを淹れる。抽出が始まる低い音。豆の香り。桐生の声は携帯のスピーカーから流れ続けているが、内容は独り言の範囲を出ていない。
カメラ越しに、ヒルダの視界に柊の動きが映っているはずだった。だがヒルダは声をかけなかった。マスターが通話中であることを検知し、割り込みを控えている。いつもの業務判断。
柊はコーヒーカップを手に、デスクに戻った。一口飲んで、椅子に座り直す。携帯を耳元に戻した。
「悪い、見つかった」
桐生の声が戻った。ページをめくる音が一つ、はっきりと聞こえた。
「……いや、すまないな。こっちが最近論文書いてなくてさ。なんとなく、今回の件が気になってて——まあ、お前に電話する口実だったのかもしれない」
桐生の声は、さっきまでの議論の熱から一段降りていた。軽い自嘲の響き。冗談めかしているが、半分は本音のようにも聞こえた。
柊は少し黙ってから、答えた。
「口実でも、連絡してくれてありがとうございます」
責めなかった。学生時代、桐生は議論の相手を必要とする人間だった。考えを言葉にする過程で、相手の反応を必要とするタイプ。一人では思考が完結しない。それが桐生の研究者としての在り方だった。その桐生が「口実だった」と口にしたということは、議論の相手に飢えているということだった。
深追いはしなかった。桐生が冗談めかして話した以上、それを受け止めるのも冗談の形を保ったままがいい。
「いや、礼を言われるほどのことでもない」
桐生は笑って、話題を逸らした。
「まあ、あまり長話してもな。気をつけろよ。お前のところが標的になる可能性も、ゼロじゃないだろう」
「ありがとうございます。桐生さんも、体調に気をつけて」
別れの言葉が交わされた。桐生の方から通話終了の動作があり、耳元で電子的な切断音が鳴った。それきり、音は消えた。
研究室が、急に静かになった。
さっきまで桐生の声で満たされていた空間が、桐生の不在に戻っている。空調の低い駆動音だけが壁の向こうで一定のリズムを刻み、端末の画面は議事録の作業途中で最小化されたままになっていた。コーヒーカップから、まだ湯気が立ち上っていた。
柊は携帯をデスクに置き、コーヒーを一口飲んだ。
窓の外では、午後の光が傾きつつあった。中庭の低木が風に揺れている。いつもと変わらない研究棟の風景。さっきまで桐生の声がそこにあったとは思えないほど、空間は静かだった。
ヒルダは何も言わなかった。通話中も、通話が終わってからも、業務システムとして稼働しながら、声をかけていない。通話が私的な連絡であることを判別し、報告事項がない状況では割り込まない——ヒルダの業務判断として正しい対応だった。
柊は端末のメモ帳を開いたままにしていた。画面には、桐生が議論の中で口にした言葉が、断片的に記録されていた。「学習速度」「監視パラメータの構造」「制限の外側」——ヒルダの分析と重なる言葉たち。桐生はこれを、数分の会話の中で到達した。
桐生さんは、相変わらずだ。
柊はそう思った。頭の回転の速さ。論理を一気に組み立てる力。どんなに研究が止まっても、その知性は衰えていない。それどころか、止まっているからこそ、こういう現象に引き寄せられる。
——論文書いてなくてさ。
桐生の声が、耳の奥に残っていた。冗談めかしていた。軽く流した。あの人のことだから、深刻ではないのだろう。あるいは、深刻でないふりをしているだけかもしれない。
どちらかは、分からなかった。
柊はメモ帳を閉じた。資料の作業に戻ろうとして、手が止まる。さっきまでの議事録整理の続きに、すぐには戻れそうになかった。
コーヒーをもう一口飲んだが、冷め始めていた。
研究室のスピーカーからは、何の音も聞こえてこなかった。




