第7話 腐った豆袋
村に一袋しかない冬豆が、腐っていた。
それは失敗ではなく、誰かの冬の食事が消えたということだった。
豆袋を開いた瞬間、湿った土のような匂いが立った。
表面の豆は無事に見える。しかし底の三分の一が黒ずみ、白い黴に覆われていた。
「全部捨てるしかない」
倉庫番のバルトが青ざめた顔で言う。
「待って」
リディアは袋へ手を入れず、まず周囲を調べた。
倉庫は石造りで、床は地面とほぼ同じ高さ。北壁には雨水の染みがあり、袋は直接床へ置かれている。
「いつ運び込みました?」
「夏の終わりだ」
「乾かしてから?」
「刈った翌日に。雨が来る前に急いだ」
原因は一つではない。
乾燥不足、床からの湿気、通風の悪さ。
リディアは無事な豆を一粒ずつ選り分けた。《食養眼》で濁りが強いものは除く。ただし、目に見えない危険まで判別できるわけではない。
「黴の触れた豆は食べません。上部の無事なものも、よく洗って別に保管し、早めに使います」
「そんなことをしても、残るのは半分だ」
バルトの声には責める響きがあった。
「分かっています」
「王都の料理人なら、腐った豆を元に戻せるのかと思った」
「できません」
リディアははっきり答えた。
「料理は魔法ではありません。腐ったものを食べられるようにはできない」
倉庫に重い沈黙が落ちた。
期待を失望へ変えたのは自分だ。胸が痛んだ。
それでも、できないことをできると言えば、次に失うのは食料ではなく人命になる。
「ただし、次の袋を腐らせないことはできます」
床へ木枠を組み、袋を浮かせる。壁から離し、空気の通り道を作る。晴れた日は扉を開け、夜露が入る前に閉じる。袋を大きな一つにせず、小分けにして傷みを広げない。
「木材が足りん」
セドリックが倉庫を見回す。
「壊れた柵を使えます。食料を守る方が優先です」
「家畜が逃げたら?」
「柵は石で補います」
リディアの提案に、バルトが首を振った。
「簡単に言うな。人手がない」
「共同厨房で昼を出します」
「飯で釣るのか」
「働く人へ食事を出すのは、釣るとは言いません」
セドリックが小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。
午後、十人が倉庫の改修へ集まった。
腐った豆は食用にせず、離れた場所で堆肥にする。ただし黴が広がらないよう、土と灰を重ねて深く埋めた。
「腐ったものまで畑に戻すのかい」
マルタが訊く。
「そのままでは使えません。時間をかけて土に返します」
「食べ物は、食べられなくなったら終わりだと思ってたよ」
「終わりではなく、役目が変わることもあります」
昼には、選り分けた無事な豆と麦で濃い粥を作った。作業する者には平焼きを二枚。汗をかく分、塩を少しだけ強める。
倉庫の改修は日暮れ前に終わった。
床から浮いた豆袋の下を、冷たい風が通り抜けている。
「これで絶対に腐らないとは言えません」
リディアはバルトへ記録板を渡した。
「三日に一度、袋の底と壁の湿りを確認してください。異変があればすぐ開ける」
「料理人の仕事か、それ」
「食卓へ届くまでが料理です」
バルトはしばらく板を見つめ、やがて不器用に頷いた。
夜、残った豆を数えていると、セドリックが古い帳簿を抱えて現れた。
「食料の残量を計算した」
卓上へ広げられた数字を見て、リディアの指が止まる。
「この税率は何ですか」
「王都へ納める穀物税だ」
「収穫の四割?」
「通常は二割だ。ルーデンには、五年前から懲罰税が課されている」
「なぜ」
「先代領主――私の父が、北方街道の軍費負担を拒んだからだ」
四割。
不作の土地から収穫の四割を取り上げれば、どれほど工夫しても冬は越せない。
「料理で解決できる問題ではありません」
「ああ」
セドリックの声は静かだった。
「だから、お前に見せるべきか迷った」
リディアは帳簿を見つめた。
料理だけでは救えない。
けれど、料理から始めなければ、交渉する力さえ生まれない。
「まず、食べられずに捨てているものをすべて数えます」
「税は減らないぞ」
「それでも、王都へ渡す前に失っている分は減らせます」
帳簿の最後の頁に、見慣れない商会の印が押されていた。
王都最大の穀物商会、グラナート商会。
そしてその横には、宮廷料理長ガストンの署名があった。
追放されて千里離れた土地で、リディアは再び自分を陥れた男の名を見つけた。




