第5話 はじめての食卓
夜明け前だというのに、共同厨房の戸口には二十人以上が集まっていた。
期待している顔は少ない。昨日、よそ者の汁を口にした者が倒れなかったから、確かめに来ただけだ。
三日間の試用、二日目。
夜明け前から共同厨房には人が集まっていた。
昨日の葉の汁を聞きつけた村人たちだ。しかし、期待より疑いの方が強い。誰も鍋へ近づかず、入口の外から様子を窺っている。
「無料で配るのか?」
「領主様が王都から来た女に騙されてるんじゃないか」
「葉っぱを食わせて、配給の麦を減らすつもりだ」
囁きは、聞こえるように言われていた。
リディアは反論しなかった。
空腹の人間に、理念を説明しても腹は満ちない。
調理台へ並べたのは、割れた豆、麦、蕪、昨日使わなかった蕪葉、干し肉の切れ端。そして、パンを焼いた後に残る粗いふすま。
「それを全部混ぜるのかい?」
マルタが訊いた。
「いいえ。今日は三つに分けます」
まず、麦と豆を一緒に柔らかく煮る。水を吸わせて量を増やし、塩をほんの少し。主食になる麦豆粥だ。
次に、蕪の皮と葉、干し肉の端で汁を作る。皮はよく洗い、細く刻めば甘みが出る。
最後に、茹でた豆の一部を潰し、ふすまと混ぜて小さな平焼きにした。油は使えない。熱した鉄板へ薄く押しつけ、両面を香ばしく焼く。
「三つも作ったら、薪を食うよ」
マルタが竈を見た。
「鍋を順番に使います。粥を煮た余熱で汁を温め、平焼きは竈の上ではなく、側面の熱で焼きます」
「王都の料理人ってのは、薪の数まで数えるのかい」
「数えない料理人のいる厨房は、長く続きません」
ノアが得意げに薪を三本抱えてきた。
「これで足りる?」
「あと細い枝を二束」
「取ってくる!」
少年が走り出す。
やがて、厨房に麦の甘い匂いが満ちた。
昨日の汁より地味な香りだ。けれど、腹を空かせた人々には十分だったらしい。入口の輪が少しずつ近づいてくる。
最初の膳を、マルタが木の盆へ乗せた。
麦豆粥。蕪と葉の汁。豆ふすまの平焼き。
どれも粗末な木椀に入っている。色も華やかではない。
それでも、三つ並ぶと一つの食事に見えた。
「一汁二菜、というほど立派ではありません」
リディアは集まった村人へ向き直った。
「けれど、温かい汁と腹にたまる麦、噛んで食べる小さなおかずがある。全部を少しずつ食べれば、肉だけを一度に食べるより長く働けます」
「そんなこと、どうやって分かる」
若い農夫が声を上げた。
「試してください」
「俺たちを実験台にするのか」
「私も同じものを食べます。領主様にも、ノアにも」
セドリックが盆を取った。
「まず私が食べる」
「また毒見かい」
マルタが苦笑する。
セドリックは麦豆粥を口へ運んだ。派手な反応はしない。ただ、二口、三口と食べ進める。
「温かいな」
彼が言ったのは、それだけだった。
だが、その一言で村人たちの肩から力が抜けた。
ノアは平焼きを両手で持ち、夢中で齧った。
「外、かたい。中、やわらかい!」
「よく噛んで」
「肉なくても、うまい!」
その無邪気な声に、何人かが笑った。
やがて一人、また一人と盆を受け取る。
最初は無言だった。
だが、湯気の向こうで表情が変わっていく。
「蕪の皮って甘いんだな」
「豆、こんなに柔らかくなるのか」
「平焼きを汁につけてもいいか?」
「もちろん」
食べ方に正解はない。食べる人が一番おいしいと思う形でいい。
五十人分の鍋は、昼前には空になった。
しかし、リディアが見ていたのは空の鍋ではない。
使った麦の量、豆の量、薪、調理時間。食べた者の年齢、午後の作業量、腹痛が出なかったか。
料理帳へ細かく記す。
「美味かった、だけでは足りないのか」
セドリックが覗き込んだ。
「今日だけなら十分です。でも、明日も、来月も作るなら記録が必要です」
「来月までいるつもりか」
問いに、リディアの手が止まった。
追放者である自分に、居場所を選ぶ権利はないと思っていた。
「必要とされる間は」
「必要でなくなれば?」
「別の場所へ行きます」
セドリックは何も言わなかった。
午後、農地から戻った若い農夫が厨房へ来た。朝、実験台にするのかと怒鳴った男だった。
「ユアンだ」
ぶっきらぼうに名乗り、空の椀を差し出す。
「明日の分もあるか」
「あります。ただし、手伝ってください」
「何を」
「村じゅうの朝食を調べたいんです。誰が、何を、どれくらい食べているか」
ユアンの顔が曇った。
「そんなもの、調べても腹は増えない」
「増やすために調べます」
リディアは料理帳を閉じた。
「食料がないのか。それとも、あるのに食べ方が偏っているのか。そこを間違えれば、この村は冬を越せません」
冬。
その言葉に、周囲の空気が冷えた。
マルタが低く言う。
「去年の冬は、二十三人死んだよ」
ノアが平焼きの欠片を握りしめた。
リディアは初めて、三日間の試用の先にあるものをはっきり見た。
これは一椀を作る仕事ではない。
三百十二人が、次の春まで食卓を失わない仕組みを作る仕事だ。
そして、そのためにはまず、この村で当たり前になっている「朝は食べない」という習慣を壊さなければならなかった。




