第3話 倒れた少年
少年は生きていた。
だが、肩を揺すっても目を開けない。頬には土がこびりつき、擦り切れた上着から細い腕が伸びている。
「水を」
リディアが言うと、ダンが革袋を差し出した。
「待ってください。そのまま飲ませないで」
水を布へ含ませ、まず唇を湿らせる。呼吸を確かめ、首元を緩める。少年の周囲に見える濁りは、病というより飢えと疲労の色が強かった。
関所から同乗してきた母親が、不安そうに覗き込む。
「この子、ルーデンの子です。何度か村で見ました」
「家族は?」
「いないと聞いています」
荷馬車を道端へ寄せ、昨夜の残り湯を沸かした。干し肉はもうほとんどない。黒パンも一片だけだ。
リディアはパンを湯で崩し、肉の削り屑を加えた。味つけはしない。目を覚ました直後の身体へ、濃い塩気や脂は負担になる。
湯気の匂いに反応したのか、少年の瞼がわずかに動いた。
「聞こえる? 少し飲める?」
匙を唇へ当てる。
少年は一度むせた。それでも二口目は飲み込み、三口目には自分から口を開いた。
「……肉?」
「ほんの少しだけ」
「うまい」
掠れた声だった。
それから少年は、椀を抱え込むようにして続きを欲しがった。
「だめ。一度に食べると、お腹が驚くわ」
「取られる」
「誰にも取らせない」
「嘘だ」
その目には、子どもらしくない警戒があった。
リディアは椀を自分の膝へ置いた。
「なら、私が持っている。十分数えたら、もう一口あげる」
「いくつ?」
「三十」
少年は不満そうに眉を寄せたが、ゆっくり数え始めた。途中で二度数字を飛ばし、そのたび最初からやり直した。
三十まで辿り着く頃には、頬に少しだけ色が戻っていた。
夕刻、荷馬車はようやくルーデン村へ入った。
村と呼ぶには、あまりに静かな場所だった。
家々の屋根はところどころ崩れ、畑は枯れた茎に覆われている。煙突から煙が上がっている家は十軒に一軒もない。人々は荷馬車を見ても近づかず、戸口からこちらを窺うだけだった。
村の中央に、石造りの小さな館があった。
そこで待っていた男は、辺境伯という肩書きから想像するよりずっと質素な姿をしていた。黒い外套は何度も繕われ、革靴には泥がついている。
「セドリック・ヴァルツだ」
低い声で名乗り、リディアの足元へ視線を落とす。
「その子は?」
「街道で倒れていました。ルーデンの子だと聞いています」
少年が身を固くした。
セドリックはしゃがみ込み、目線を合わせた。
「ノア。また北畑の残り物を探しに行ったのか」
「……食うもの、なかったから」
「昨日、配給を受けただろう」
「パン半分。朝に食った」
セドリックの拳が静かに握られた。
リディアは彼の周囲にも重い灰色がまとわりついているのを見た。疲労、睡眠不足、そして強い焦り。
「追放者リディア・フェルン。王都からの書状では、宮廷料理人だったとある」
「はい」
「ここには宮廷料理はない。肉も香辛料も、白い小麦もない」
「承知しています」
「それでも料理人を名乗るか」
試すような問いだった。
リディアは周囲を見た。
痩せた人々。閉ざされた家。冷たい風。何より、空腹が当たり前になってしまった目。
「豪華な食材がなければ料理できない者は、料理人ではありません」
セドリックの眉がわずかに動いた。
「では、何が必要だ」
「台所と、倉庫と、畑を見せてください」
「先に休まなくていいのか」
「明日の食事を考えずに眠れるほど、ここには余裕がないように見えます」
数秒の沈黙の後、セドリックは館の裏手を指した。
「マルタ。案内を」
呼ばれて出てきたのは、背の曲がった老女だった。日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。
「あたしは台所番のマルタだよ。王都のお嬢さんに見せるようなものは何もないけどね」
「何もないかどうかは、見てから決めます」
共同倉庫には、麦が三袋、乾いた豆が一袋、塩が半壺。干し肉は指二本分ほどしか残っていなかった。
ノアが戸口から不安そうに見ている。
「これで、村に何人?」
「三百十二人」
リディアは息を止めた。
「次の収穫まで?」
「七十六日」
どう計算しても足りない。
だが倉庫を出た瞬間、《食養眼》の視界の端に、淡い緑の光が群れているのが見えた。
共同畑の端。刈り取られずに捨て置かれた葉と蔓の山だった。
リディアは歩み寄り、一枚の葉を摘み上げた。
「マルタさん」
「何だい」
「どうして、これを全部捨てているんですか?」
老女の顔色が変わった。
「触るんじゃないよ。それは腹を壊す毒葉だ」
けれどリディアの目には、その葉から傷みの濁りがほとんど見えなかった。
食料がない村で、食べられるものが捨てられている。
それは偶然なのか。それとも、この土地では誰かが食べ方を忘れさせたのか。




