第2話 北へ向かう荷馬車
追放された翌朝、リディアは自分の腹が鳴る音で目を覚ました。
宮廷厨房にいた頃なら、味見だけで空腹を忘れられた。今は、食べるものを自分で選ぶ自由さえ惜しい。
王都を出て三日目、道から石畳が消えた。
五日目には宿場が消え、七日目には窓の外から畑さえ消えた。
北へ進むほど、風は鋭くなった。荷馬車の幌は隙間だらけで、夜になると吐く息が白く曇る。
リディアに与えられた荷物は、着替え二組と料理帳、古い包丁一本だけだった。宮廷で十年使った銅鍋も、香辛料箱も、すべて王城の所有物として取り上げられた。
「嬢ちゃん、少し食っとけ」
御者のダンが、黒パンを半分投げてよこした。
受け取ったパンは石のように硬かった。表面には白い粉が吹いているが、黴ではなく小麦粉だ。《食養眼》で見ても、強い傷みの濁りはない。
「ありがとうございます」
「礼を言うほどのもんじゃねえ。歯が折れても俺は知らんぞ」
リディアはパンを布で包み、膝の上に置いた。
「食わないのか」
「今は」
本当は、朝から何も食べていない。けれど、乾いたパンをそのまま噛めば胃が痛むことは分かっていた。
昼過ぎ、荷馬車は小さな関所で止まった。
番小屋の前に、母親と幼い娘が座り込んでいる。母親は兵士へ何度も頭を下げていた。
「お願いです。北の村まで乗せてください。この子がもう歩けなくて」
「荷の許可証がない者は通せん」
「夫がルーデンにいるんです」
娘は母の腕の中でぐったりしていた。頬がこけ、唇が乾いている。周囲には濃い灰色の靄がまとわりついて見えた。
リディアは荷台から降りた。
「その子はいつ食事を?」
母親が怯えたように顔を上げる。
「昨日、パンを少し……でも、硬くて吐いてしまって」
「水は?」
「朝に少しだけ」
リディアは関所の兵士を見た。
「鍋と火を貸してください」
「何だと?」
「大きなものでなくて構いません。湯を沸かせれば」
兵士は面倒そうに鼻を鳴らしたが、御者のダンが横から口を挟んだ。
「貸してやれ。ここで子どもに死なれたら、後味が悪い」
番小屋の鉄鍋を借り、井戸水を十分に沸かす。黒パンを細かく砕き、ダンが持っていた干し肉を薄く削った。関所脇の畑には、収穫後に捨てられた蕪の葉が残っていた。
「それは家畜も食わんぞ」
兵士が言う。
「若い葉は食べられます。傷んだ部分だけ除けば」
葉をよく洗い、細く刻む。干し肉を先に煮て塩気と旨味を湯へ移し、パンを加えて弱火で崩す。最後に葉を入れると、灰色だった鍋に鮮やかな緑が浮かんだ。
立派な料理ではない。
けれど、湯気には肉の香りと麦の甘さがあった。
娘の口へ、まず匙一杯だけ運ぶ。
「ゆっくり飲んで」
小さな唇が動いた。
しばらく待っても吐かない。二匙目、三匙目。娘の目がわずかに開いた。
「……あったかい」
母親が顔を覆った。
「ありがとうございます。ありがとうございます……」
「一度に食べさせすぎないでください。残りは布で包んで、少しずつ」
関所の兵士は、鍋を覗き込んだ。
「そんな屑みたいなもので、食事になるのか」
「屑にしたのは人です。食材が屑だったわけではありません」
言ってから、かつて同じ言葉を宮廷で飲み込んだことを思い出した。
荷馬車へ戻ると、ダンが口元を歪めた。
「なるほど。お前さん、本当に料理人なんだな」
「追放された料理人です」
「腕まで追放されたわけじゃあるまい」
その言葉に、リディアは返事ができなかった。
夕方、母子も荷馬車へ乗せてもらえることになった。北へ向かう者は少なく、荷台には十分な隙間があったからだ。
娘は眠る前、リディアの袖を掴んだ。
「お姉ちゃん、あしたもスープある?」
リディアは膝の上の硬いパンを見た。
「材料があれば作るわ」
「材料がなかったら?」
「探すの。それが料理人の仕事だから」
翌日の昼、遠くに黒い山脈が見え始めた。
そして、その麓の街道で、荷馬車が急停止した。
「人が倒れてる!」
道端に転がっていたのは、骨のように痩せた少年だった。
その手には、土のついた蕪の葉が一本、宝物のように握られていた。




