第1話 貧乏人の皿
「宮廷料理人リディア・フェルン。貴様を、本日付で王都より追放する」
王宮の裁定室に、感情のない声が響いた。
その一言で、リディアが十年かけて積み上げたものは、すべて失われた。
白い料理服。使い込んだ銅鍋。夜明け前から火を起こし、誰より遅く厨房を出る毎日。そして、いつか自分の料理で誰かの身体を支えたいという、ささやかな願い。
罪状は、王妃の料理へ禁制の眠り草を混ぜたこと。
「違います」
声は震えなかった。それだけは、料理人としての最後の意地だった。
「私は眠り草など使っておりません。あの椀に入れたのは、鴨の骨、玉葱、香草、塩だけです。調理記録をご確認ください」
長卓の向こうで、宮廷料理長ガストンがゆっくりと口角を上げた。
「記録なら確認した。お前の筆跡で、眠り草を加えたと追記されていたよ」
差し出された紙には、確かにリディアの名があった。
だが、字が違う。長く料理帳を書いてきた者なら一目で分かるほど、払いも、癖も、何もかも違う。
「偽造です」
「見苦しいぞ」
ガストンはため息をつき、まるで聞き分けのない子どもを見るように首を振った。
「王家の宴に、骨と野菜を煮ただけの貧乏人の汁を出したうえ、王妃陛下の御身体について勝手な診立てを口にした。以前からお前は、宮廷料理人としての分をわきまえていなかった」
あの晩餐の光景が、鮮明によみがえる。
銀の蓋の下に並んでいたのは、蜜を塗った孔雀肉、香辛料を惜しみなく使った仔牛、真冬に南方から運ばせた果実。一皿で平民の家族がひと月暮らせる料理ばかりだった。
その末席に、リディアは小さな白磁の椀を置いた。
鴨の骨と、形が悪いというだけで捨てられかけていた香味野菜を、弱い火で何時間も煮た澄まし汁。
王妃は一口飲み、ほんの一瞬だけ目尻を緩めた。
――悪くはないわ。けれど、王家の宴に必要な料理かしら。
――必要でございます。
答えた瞬間、ガストンの目が冷えた。
リディアには、人や食材の不調が色の濁りとして見えることがあった。《食養眼》と呼ばれる、ひどく曖昧な力だ。病名も正解も教えない。ただ、「何かがおかしい」と気づかせるだけ。
あの夜の王妃の指先には、脂と疲労が積み重なったような灰色が見えていた。
だから、胃を温める一椀を作った。
ただ、それだけだった。
「副料理長も、私の調理を見ていたはずです」
部屋の隅に立つ男へ視線を向ける。
副料理長は唇を噛み、やがて小さく首を振った。
「私は……何も見ておりません」
胸の奥で、何かが静かに折れた。
彼には病気の母親がいる。ガストンに逆らえば職を失う。分かってしまうからこそ、責める言葉も出なかった。
裁定官が羊皮紙を読み上げる。
「王妃陛下に実害がなかったこと、爵位なき者であることを鑑み、死罪は免ずる。北方ルーデン領への移送を命じる。日没までに王都を去れ」
ルーデン。
不作と重税で人が逃げ、次の冬を越せないと噂される、王国最北端の領地。
裁定室を出ると、ガストンが追いついてきた。
「死なずに済んでよかったな」
誰も見ていない廊下で、彼は穏やかに笑った。
「家庭料理しか作れないお前には、似合いの土地だ。骨でも皮でも煮て、飢えた者に褒めてもらえばいい」
「なぜ、私をそこまで?」
「お前は余計なものを見すぎる」
笑みが消えた。
「捨てられる食材。残される皿。王妃の体調。そして、厨房から消える穀物。料理人は、出された命令どおりに美しい皿を作ればいい」
その言葉だけで、リディアは悟った。
眠り草の件は、単なる嫌がらせではない。自分が気づきかけた何かを隠すための追放なのだ。
けれど、証拠はない。
厨房へ戻ることも許されず、与えられたのは着替え二組、古い包丁、そして私物の料理帳だけだった。
王都の門を出る荷馬車の上で、リディアは一度だけ王城を振り返った。
朝日に輝く白い城は、美しかった。
その足元では、昨夜も手つかずの料理が桶ごと捨てられている。
悔しかった。
怖かった。
それでも、膝の上の料理帳を抱きしめると、不思議と呼吸が整った。
鍋を奪われても、包丁が一本あれば料理はできる。
立場を奪われても、十年かけて覚えたことまで失うわけではない。
「北へ着いたら、まず台所を見よう」
御者が乾いた笑いを漏らした。
「台所? ルーデンに、煮るほどの食い物が残っていればいいがな」
荷馬車は、石畳の終わりへ向かって走り出した。
そのときのリディアはまだ知らなかった。
追放先の倉庫に、三百十二人を七十六日生かすには、あまりにも少ない食料しか残されていないことを。




