第27話 一番うまい料理は、腹が減った時の料理ではない。
共同厨房には、朝の光が差し込んでいた。
鍋から立ち上る湯気の向こうで、エドガーは腕を組んでいる。
誰も口を開かなかった。
十年前、ルーデンを去った料理人。
台所帳に名を刻まれた男。
その人物が、今、目の前に立っている。
「……ずいぶん静かじゃのう。」
最初に口を開いたのは、エドガーだった。
ぽりぽりと頭を掻きながら、気まずそうに笑う。
「もっと『待ってました!』とかあるかと思っとった。」
「ありません。」
セドリックが即答する。
「あなたは母を置いて村を去った。」
空気が張り詰める。
しかしエドガーは怒らない。
静かに頷いた。
「そうじゃ。」
「だから嫌われても仕方ない。」
そのあまりにも素直な返事に、セドリックは言葉を失う。
言い訳をすると思っていた。
責任転嫁すると思っていた。
だがエドガーは違った。
「逃げた。」
その一言だけだった。
リディアは、老人の横顔を見つめていた。
その顔には、自分の過去を飾ろうとする様子が一切ない。
だからこそ、胸がざわつく。
「あなたは……」
言葉を選ぶ。
「後悔していますか。」
エドガーは少しだけ笑った。
「毎日じゃ。」
短い返事だった。
けれど、その重さは十分すぎるほど伝わってきた。
「さて。」
急に明るい声になる。
「話ばかりでは腹は膨れん。」
鍋へ近付く。
「朝飯にするか。」
そう言って木匙を手に取ろうとした瞬間。
「待ってください。」
リディアが止めた。
「まだ味見していません。」
「必要ない。」
「え?」
エドガーは鍋を見ただけだった。
「火を止めろ。」
「でも。」
「止めろ。」
リディアは迷いながらも火を落とす。
鍋の蓋を開ける。
湯気がふわりと立ち上った。
エドガーは一口も食べない。
ただ香りを吸い込み、静かに頷く。
「ちょうどいい。」
リディアは慌てて味見をした。
「……!」
驚いて顔を上げる。
確かに。
あと一分火を入れていたら、豆が崩れすぎていた。
絶妙だった。
「どうして……。」
エドガーは笑う。
「鍋が教えてくれた。」
ノアが首を傾げる。
「鍋って喋るの?」
「喋る。」
真顔で答える。
「聞こうとせん奴には聞こえんがな。」
ノアは本気で鍋を覗き込み、リディアは思わず吹き出した。
セドリックも口元を押さえる。
張り詰めていた空気が、少しだけほどけた。
朝食が始まる。
エドガーは一口食べるなり、箸を置いた。
「うまい。」
リディアはほっと胸をなで下ろす。
だが次の瞬間。
「じゃが。」
やっぱり来た。
「惜しい。」
「どこがですか?」
「全部じゃ。」
ノアが吹き出す。
「全部って!」
「料理はうまい。」
エドガーはゆっくりと言葉を選ぶ。
「じゃが。」
「食卓は、まだ半分じゃ。」
リディアは意味が分からなかった。
「半分?」
「見てみい。」
エドガーが指差した先。
村人たちは黙々と食べている。
笑顔はある。
でも、昨日より会話が少ない。
「……。」
リディアは初めて気付く。
皆、税のことを忘れようとしている。
安心したのではない。
不安を飲み込んでいるだけだ。
「腹は満ちた。」
エドガーは静かに言う。
「じゃが。」
「心は、まだ空腹じゃ。」
その言葉が、リディアの胸へ深く刺さる。
宮廷では味ばかり追い求めてきた。
ルーデンへ来てからは栄養を考えた。
でも。
心まで満たせていただろうか。
その時だった。
広場の方から、怒鳴り声が聞こえた。
「領主を出せ!」
男の声だった。
村人たちが一斉に立ち上がる。
バルドが厨房へ飛び込んできた。
「セドリック様!」
「商人です!」
「王都から!」
レオンが眉をひそめる。
「……早すぎる。」
セドリックが外へ向かおうとすると、エドガーが肩を掴んだ。
「待て。」
「何です。」
エドガーは椀を持ち上げる。
まだ半分ほど汁が残っていた。
「食っとけ。」
「こんな時に何を――」
「こんな時だからじゃ。」
老人は静かに笑った。
「腹が減っとる人間は、正しい判断ができん。」
誰も反論できなかった。
リディアは木椀を手に取り、一口だけ汁を飲む。
温かい。
身体だけではなく、張り詰めていた心まで少しほどけるようだった。
エドガーは満足そうに頷く。
「よし。」
「これで負けん。」
その一言を残し、ゆっくりと立ち上がる。
外では、馬のいななきと荒々しい声が響いている。
新たな来訪者。
その目的は、ルーデンの果実か。
それとも――リディアか。
共同厨房の扉が、ゆっくりと開いた。




