第26話 商人が、料理を学んだ理由。
翌朝。
共同厨房には、薪のはぜる音が静かに響いていた。
ノアは寝坊したらしく、まだ来ていない。
マルタはパンを焼き、セドリックは倉庫の帳簿を確認している。
珍しく、厨房にはリディアとレオンの二人だけだった。
昨日見つかった手紙は、布で丁寧に包まれ、台所帳と一緒に棚の上へ置かれている。
誰も口にはしない。
けれど、お互いに気になっていることだけは分かっていた。
静かな時間だった。
リディアは鍋へ豆を入れながら、小さく笑う。
「レオンさん。」
「はい。」
「昨日から気になっていたことがあるんです。」
「何でしょう。」
「どうして。」
木匙でゆっくり鍋を混ぜる。
「商人なのに、料理が分かるんですか?」
レオンの手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
すぐにいつもの穏やかな笑顔へ戻る。
「……気付きましたか。」
「ええ。」
リディアは頷く。
「果実酢の香り。」
「包丁の癖。」
「羊皮紙。」
「全部、料理人の見方でした。」
「普通の商人なら。」
「そこまで見ません。」
レオンは少しだけ笑った。
「先生は。」
「人を見るより、料理を見る人ですね。」
「料理を見ると、人が見えてきますから。」
その答えに、レオンは小さく目を伏せた。
しばらく沈黙が続く。
鍋から立ち上る湯気だけが、二人の間をゆっくり流れていく。
やがてレオンが口を開いた。
「私は。」
一度言葉を切る。
「料理人の家に生まれました。」
リディアは驚いて顔を上げる。
「えっ……。」
「父も祖父も料理人でした。」
「宮廷ですか?」
「いいえ。」
首を横へ振る。
「町の食堂です。」
少しだけ遠くを見るような目になる。
「小さな店でした。」
「豪華な料理なんてありません。」
「でも。」
柔らかく笑う。
「毎日、同じ時間になると、お客さんが帰って来る店でした。」
リディアは自然と手を止めていた。
「父はよく言っていました。」
レオンは続ける。
『一番おいしい料理は、お腹が空いた時に食べる料理じゃない。』
少し間を置く。
『帰ってきたと思える料理だ。』
リディアの胸が熱くなる。
その言葉は、どこか先代領主夫人の考え方と似ていた。
「でも。」
レオンは笑顔を消した。
「店はなくなりました。」
短い言葉だった。
それ以上は語らない。
けれど、その一言だけで十分だった。
「王都に、大きな商会ができて。」
「安い食材。」
「大量生産。」
「派手な料理。」
「父の店は、誰も来なくなりました。」
リディアは静かに目を閉じる。
どこか他人事には思えなかった。
家庭料理が軽んじられる世界。
その流れの中で、失われていった店。
「だから。」
レオンは微笑む。
「私は料理人になれませんでした。」
「商人になったんです。」
「商人なら。」
革鞄へそっと触れる。
「良い料理を守れると思った。」
その時だった。
厨房の扉が勢いよく開く。
「先生!」
ノアが息を切らしながら飛び込んできた。
「大変!」
「どうしたの?」
「村の入口に!」
肩で息をしながら叫ぶ。
「すっごく変なおじいさんが来てる!」
「変なおじいさん?」
「うん!」
「先生に会わせろって!」
セドリックも立ち上がる。
「名前は?」
ノアは首を傾げた。
「なんかね。」
「料理人は畑より鍋を見ろ。」
「って何回も言ってる。」
レオンの表情が固まった。
その言葉。
彼は知っていた。
「まさか……。」
小さく呟く。
リディアが振り返る。
「知っているんですか?」
レオンはゆっくり頷いた。
「父が。」
「一度だけ話していました。」
その名を。
「……エドガー・ヴァイス。」
厨房の空気が変わる。
十年前、ルーデンを去った料理人。
先代領主夫人と名を並べて刻まれていた人物。
そして今。
自らルーデンへやって来た。
村の入口では、一人の老人が石垣へ腰掛け、のんびりと湯呑みを傾けていた。
ぼさぼさの白髪。
古びた旅装束。
背中には、包丁を一本だけ差している。
近所のおじいさんにしか見えない。
だが、その目だけは鋭かった。
老人は、リディアの姿を見ると、にやりと笑う。
「遅い。」
その第一声に、リディアは思わず目を瞬かせた。
「え?」
「わしなら。」
老人は立ち上がり、リディアの鍋を一目見る。
「その豆は、あと一刻早く火を止める。」
リディアの瞳が大きく見開かれる。
鍋を見ただけで。
味も見ずに。
火加減を言い当てた。
「……あなたが。」
老人は肩をすくめる。
「エドガー・ヴァイスじゃ。」
そして、いたずらっぽく笑った。
「先代領主夫人に、最後まで怒られ続けた料理人でもある。」




