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家庭料理しか作れないと追放された宮廷料理人ですが、 一汁三菜で辺境を建て直したら、 王都より豊かな領地になっていました  作者: 花結 紬


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第28話 その値段では、売りません

共同厨房を出ると、広場には見慣れない馬車が三台停まっていた。


 黒塗りの車体。


 銀色の金具。


 側面には、麦の穂を三本束ねた紋章が描かれている。


 馬も、この村で使われている農耕馬とは明らかに違った。


 毛並みの整った大きな馬が四頭。


 その前に、一人の男が立っていた。


「ようやく来たか」


 四十代ほどだろうか。


 仕立ての良い深緑の上着に、磨かれた革靴。


 指にはいくつもの宝石。


 男はセドリックを見ると、帽子を取って軽く頭を下げた。


「ルーデン領主、セドリック様で?」


「そうだ」


「私は王都で交易をしております、ハーゲン商会のヴィクトル・ハーゲンと申します」


 レオンの眉がわずかに動いた。


「知っているのか?」


 セドリックが小声で尋ねる。


「ええ」


 レオンも声を落とす。


「王都でも五本の指に入る食品商です」


「……そんな商会が、なぜここへ?」


「それを今から聞くんでしょうね」


 ヴィクトルは二人の会話など気にした様子もなく、広場を見回した。


 そして――。


「なるほど」


 小さく笑った。


「想像以上に、何もない」


 バルドの顔が険しくなる。


「なんだと?」


「事実を申し上げただけですよ」


 ヴィクトルは悪びれない。


「街道は荒れている。宿はない。倉庫もない。加工場もない。まともな市場さえない」


 一つずつ指を折る。


「商人から見れば、価値のない土地です」


「帰れ!」


 バルドが怒鳴った。


 だが。


「待って」


 止めたのはリディアだった。


 ヴィクトルの言葉は腹立たしい。


 けれど。


 間違ってはいない。


「それで?」


 リディアが尋ねる。


「価値のない土地へ、どうして王都の大商人が?」


 ヴィクトルが初めて彼女を見る。


「あなたが、リディア・フェルン?」


「そうです」


「なるほど」


 頭の先から靴まで、値踏みするような視線が動く。


「宮廷を追われたというから、どんな変わり者かと思いましたが」


「普通でしょう?」


「それはどうでしょうな」


 ヴィクトルは笑った。


 そして。


「赤い実を買いに来ました」


 広場がざわめいた。


     ◇


 商談は、領主館ではなく共同厨房で行われることになった。


 ヴィクトルは露骨に嫌そうな顔をした。


「ここで?」


「ここが一番広いので」


 リディアが答える。


「商談をする場所には見えませんが」


「料理を売る話をするなら、厨房が一番でしょう?」


「……なるほど」


 ヴィクトルは椅子へ腰掛けた。


 セドリック。


 リディア。


 レオン。


 そしてエドガー。


 ノアは「大事な話だから」と追い出されたが、扉の隙間から半分だけ顔を覗かせている。


「単刀直入に参りましょう」


 ヴィクトルが革袋を机へ置いた。


 ずしり、と重い音。


「赤い実を、我が商会がすべて買い取ります」


 セドリックの表情が変わる。


「すべて?」


「現在残っている実だけではありません」


 ヴィクトルは微笑む。


「今後十年間、この領地で採れるものすべてです」


 レオンの目が細くなった。


「独占契約ですか」


「話が早い」


 ヴィクトルが袋を開く。


 銀貨がぎっしり詰まっていた。


「契約金として――銀貨千枚」


 誰かが息を呑んだ。


 銀貨千枚。


 滞納している税は八百三十七枚。


 契約すれば。


 今日にでも払える。


「……助かる」


 セドリックが呟く。


 その声には、領主としての苦悩が滲んでいた。


 三十日の猶予など必要なくなる。


 家畜も。


 畑も。


 家も。


 守れる。


「どうでしょう?」


 ヴィクトルが微笑む。


「悪い話ではないと思いますが」


 セドリックが銀貨へ手を伸ばしかける。


 その時。


「駄目です」


 リディアが言った。


 セドリックの手が止まる。


「リディア?」


「契約できません」


 ヴィクトルの笑顔は変わらなかった。


「理由を伺っても?」


「安すぎます」


 厨房が静まり返った。


 セドリックが目を見開く。


「千枚だぞ?」


「だからです」


「税を払っても百六十三枚残る」


「今年は」


「……何?」


 リディアは銀貨ではなく、契約書を見ていた。


「この契約は十年です」


 一年で百枚。


 十二か月なら、一か月で八枚と少し。


 しかも、収穫量が増えても支払額は変わらない。


「私たちが果樹園を再建して」


 リディアは静かに続ける。


「来年、今年の十倍採れたら?」


 セドリックの表情が変わる。


「さらにその翌年、加工場ができたら?」


 レオンが小さく笑った。


 リディアは続ける。


「果実酢だけじゃない」


「ジャムにできるかもしれない」


「干して保存できるかもしれない」


「菓子に使えるかもしれない」


「薬になる可能性だってある」


 一つの赤い実。


 その価値は、まだ誰にも分からない。


「私たちはまだ」


 契約書をヴィクトルへ返す。


「この実に何ができるのかさえ、知らないんです」


「それを今、十年分まとめて売る?」


 首を横に振る。


「そんなことはできません」


 ヴィクトルはしばらく黙っていた。


 やがて。


「料理人に商売が分かるのですか?」


「分かりません」


 即答だった。


 ヴィクトルが少し驚く。


「だから売らないんです」


「……ほう?」


「知らないものに、値段を付けられませんから」


 今度こそ。


 ヴィクトルの笑顔が消えた。


     ◇


「では」


 ヴィクトルは指を組んだ。


「銀貨千五百枚」


 セドリックが息を呑む。


 リディアは首を横に振る。


「二千」


「売りません」


「三千」


「同じです」


 ヴィクトルの眉がぴくりと動いた。


「税金を払えなくても?」


「はい」


「三十日後、この土地を失う可能性があっても?」


 リディアは一瞬、言葉に詰まった。


 怖くないはずがない。


 自分の判断で。


 村人たちが家を失うかもしれない。


 それでも。


 隣から声がした。


「売らんでいい」


 エドガーだった。


 ずっと黙って茶を飲んでいた老人が、ようやく口を開いた。


「お前さん」


 ヴィクトルを見る。


「腹が減っとるな」


「……何の話です?」


「金にじゃよ」


 ヴィクトルの目が鋭くなる。


「たくさん持っとる奴ほど、もっと欲しがる」


「腹いっぱいなのに食い続けとるようなもんじゃ」


「老人の説教を聞きに来たわけではありません」


「なら帰れ」


 エドガーは茶を啜った。


「この村は。」


 一拍。


「ようやく、自分の飯を自分で決め始めたところじゃ」


 ヴィクトルは老人を睨む。


 しかし反論はしなかった。


     ◇


 数分後。


 ヴィクトルは契約書を鞄へ戻した。


「残念です」


 立ち上がる。


「ただ」


 扉の前で足を止めた。


「一つだけ忠告しておきましょう」


「何です?」


「あなた方は勘違いしている」


 振り返る。


「良い商品を作れば、売れると思っている」


 リディアは黙って聞く。


「市場というのは、そんなに優しくありません」


「味が良くても」


「身体に良くても」


「人を幸せにしても」


「知られなければ存在しないのと同じです」


 レオンの表情が変わった。


「そして」


 ヴィクトルは静かに笑う。


「王都で何が売れるかを決めているのは――あなた方ではない」


 そう言い残し、厨房を出ていった。


     ◇


 馬車が見えなくなってからも、誰も口を開かなかった。


 やがてセドリックが椅子へ崩れるように座った。


「銀貨三千枚……」


 頭を抱える。


「断ってしまった」


「すみません」


 リディアが頭を下げる。


「いや」


 セドリックは首を振った。


「俺が決めた」


「お前だけの責任にはしない」


 レオンは窓の外を見ながら呟いた。


「でも、ヴィクトルの最後の言葉だけは正しい」


「え?」


「作るだけでは売れません」


 振り返る。


「商人が流通を握っている以上、どれだけ良い商品でも王都へ届かなければ価値はゼロです」


「じゃあどうするの?」


 いつの間にか厨房へ戻ってきたノアが尋ねた。


 レオンは答えない。


 代わりに。


 リディアが、調理台の上を見た。


 朝食に使った豆。


 余った根菜。


 麦。


 果実酢。


 特別なものは何もない。


 それでも。


 これまで何度も人を笑顔にしてきた。


「……来てもらえばいい」


「誰に?」


「買う人に」


 レオンが振り返る。


 リディア自身も、口にしてから考えが形になっていくのを感じていた。


「王都へ売りに行くんじゃなくて」


「王都から、ルーデンへ来てもらう」


「ここで食べてもらうんです」


 セドリックが目を丸くする。


「こんな辺境まで?」


「だから来たくなる理由を作ります」


 レオンが、ゆっくり笑い始めた。


「なるほど」


「市場へ入れてもらえないなら」


 リディアが頷く。


「ここを市場にします」


 厨房の外。


 何もないと言われた広場を見つめる。


 宿もない。


 店もない。


 まともな道さえない。


 だからこそ。


 全部、これから作れる。


 エドガーが楽しそうに笑った。


「ようやく。」


「料理人らしい顔になったのう」


「え?」


「客が来んのなら、来たくなる飯を作る」


 空になった椀を置く。


「単純じゃろ?」


 その日。


 ルーデンに、新しい計画が生まれた。


 後に王国中の商人が集うことになる、小さな市場。


 その始まりは。


 立派な商館でも。


 莫大な資金でもない。


 一人の料理人が口にした、


「ここを市場にします」


 という一言だった。


     ◇


 その夜。


 王都へ戻る馬車の中。


 ヴィクトルは窓の外を眺めていた。


「旦那様」


 部下が尋ねる。


「本当に、あれでよかったので?」


「何がだ」


「銀貨三千枚ですよ」


「もし契約していたら……」


「契約するわけがない」


 ヴィクトルは即答した。


「え?」


 部下が目を丸くする。


 ヴィクトルは、初めて楽しそうに笑った。


「あの程度の値段で売る女なら」


「わざわざ王都から来た意味がない」


「では……」


「試したのですか?」


 返事はない。


 ただ。


 ヴィクトルは懐から、一通の手紙を取り出した。


 差出人の名は書かれていない。


 そこには、たった一文。


『リディア・フェルンが、いくらでルーデンを売るか確かめろ』


 ヴィクトルは、その紙を二つに破った。


「売らなかったよ」


 誰にともなく呟く。


「一枚たりともな」


 破られた紙片が、馬車の灯りの下へ落ちる。


「さて」


 男は目を細めた。


「次は、誰が動く?」


 馬車はそのまま、王都へ向かって走り続けた。

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