第24話 燃えたのは、台所帳ではなかった。
共同厨房に、夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。
食事を終えた村人たちが帰り、残っているのはリディアとセドリック、レオン、それにノアだけだ。
テーブルの上には、使い込まれた一冊の台所帳。
リディアは何度目になるか分からないほど、その表紙をそっと撫でた。
「先生。」
ノアが湯呑みを両手で持ちながら尋ねる。
「ずっと気になってたんだけど。」
「うん?」
「その本って、どうして先生が持ってるの?」
リディアは少し困ったように笑った。
「拾ったの。」
「拾った?」
「追放されて、王都を出る日の朝。」
静かに記憶を辿る。
「荷物なんてほとんど持たせてもらえなかったけど、この本だけは馬車の荷台に落ちていたの。」
「誰が置いたかは分からない。」
その時は、料理の本だと思っていただけだった。
けれど今思えば、偶然とは思えない。
「誰かが先生に渡した……。」
レオンが低く呟く。
「しかも、誰にも気付かれずに。」
セドリックが腕を組む。
「台所帳を知っていた人間しかできない。」
「つまり。」
リディアが続ける。
「味方がいる。」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ温かくなった。
追放された日。
誰も味方などいなかったと思っていた。
だが、もし誰かが密かに本を守り、自分へ託したのだとしたら――。
その頃、王都。
宮廷厨房の奥にある書庫では、料理長ガストンが一人、古い記録棚を調べていた。
「ない……。」
棚から一冊、また一冊と料理帳を取り出す。
どれも違う。
目当ての本だけがない。
副料理長が恐る恐る声を掛けた。
「料理長、お探し物ですか?」
「十年前の記録だ。」
「火事で焼失したと聞いておりますが。」
ガストンはぴたりと手を止めた。
「……誰から聞いた?」
「歴代の料理人たちです。」
「そうか。」
短く答える。
副料理長が去ると、ガストンは誰もいない書庫で小さく息を吐いた。
「焼失した、か。」
その表情は苦い。
「そういうことになっている。」
静かな独白だった。
暖炉の火など、一度も書庫には届いていない。
それでも「焼失した」と記録されている。
それは事実ではなく、記録だった。
「……やはり、お前が持っているのか。」
ガストンは窓の外を見つめる。
その視線の先には、遠くルーデンの方角があった。
一方その頃。
王城の地下。
誰も入ることのない石造りの部屋。
蝋燭が一本だけ灯っている。
黒い外套を羽織った男が、机の上へ一枚の報告書を置いた。
「ルーデン。」
「台所帳を確認。」
机の向こう側。
暗闇の中から、低い声だけが返る。
「……そうか。」
姿は見えない。
年齢も分からない。
男か女かさえ分からない。
「処分しますか。」
報告した男が尋ねる。
沈黙。
やがて、暗闇から静かな笑い声が漏れた。
「いや。」
「もう遅い。」
「遅い……ですか?」
「あの本は。」
一拍置く。
「燃やせば消えるようなものではない。」
黒衣の男は顔を上げた。
意味が分からない。
台所帳は本だ。
燃えれば灰になる。
それなのに。
「料理は、人が覚えている。」
暗闇の声は続けた。
「だから文化は消えない。」
その言葉に、黒衣の男は返す言葉を失った。
翌朝。
リディアは台所帳を閉じる。
昨日作った「先代領主夫人の汁物」。
村人たちは、誰一人レシピを見ずに作り始めていた。
味は少し違う。
切り方も違う。
それでも。
食卓には確かに、あの日と同じ笑顔があった。
リディアは静かに微笑む。
「本当に残したかったのは。」
台所帳を胸へ抱く。
「本じゃなかったのね。」
その瞬間。
最後のページの裏表紙が、かすかに浮き上がった。
「……?」
指先でそっと触れる。
厚紙の中に、何かが挟まっている。
慎重にはがすと、一枚の古びた封筒が現れた。
表には、たった一行だけ。
『リディアへ――あなたが、この本を最後まで読んだなら。』
リディアの鼓動が、大きく鳴った。




