第19話 料理人は、最後の一粒を残しておく
森を吹き抜ける風が、赤い実のなくなった枝を揺らしていた。
昨日まで宝石のように輝いていた景色は、まるで何事もなかったかのように静かだ。
残っているのは、踏み荒らされた土と馬車の轍だけ。
「全部……。」
ノアが膝をつく。
「全部持ってかれちゃった。」
マルタは言葉を失っていた。
セドリックも、唇を固く結んだまま森を見渡している。
税の期限は明日。
頼みの綱は消えた。
誰もがそう思った。
ただ一人を除いて。
リディアだけは、枝を一本一本見上げていた。
「……先生?」
ノアが不安そうに声を掛ける。
「どうしてそんなところ見てるの?」
リディアは答えず、一本の枝へ近付いた。
葉をそっとかき分ける。
そこには、小さな赤い実が三粒だけ残っていた。
葉の陰に隠れるように。
「見つけた。」
ノアが目を丸くする。
「えっ!?」
リディアは笑う。
「盗んだ人は、実を見ていた。」
「でも私は、枝を見ていた。」
さらに数歩歩く。
今度は、岩陰。
その裏にも五粒。
倒木の向こうにも七粒。
鳥がつついて半分だけ残した実。
熟しきって黒くなり始めた実。
枝の高い場所に取り残された実。
一時間ほど森を歩くと、小さな籠が半分ほど埋まっていた。
ノアは感心したように籠を覗き込む。
「どうして盗まれなかったの?」
リディアは熟れ過ぎた実を手に取る。
「急いで収穫するとね。」
「一番目立つ実から採るの。」
「だから。」
葉の裏。
低い枝。
鳥が傷付けた実。
全部残る。
「料理人は。」
実を優しく籠へ入れる。
「一番きれいな食材だけじゃ料理は作れないの。」
レオンが静かに頷く。
「市場も同じです。」
「え?」
「大商会は、一番売れる商品しか見ません。」
「だから。」
リディアと目が合う。
「あなたみたいな料理人が勝てる。」
その言葉に、セドリックが眉をひそめた。
「これだけで税金は払えない。」
現実だった。
籠半分では足りない。
銀貨八百三十七枚には届かない。
リディアも頷く。
「ええ。」
「だから。」
籠を抱え直す。
「これは売りません。」
「……?」
ノアが首を傾げる。
「先生?」
「売らないの?」
「うん。」
「じゃあ何するの?」
リディアは森の奥を見つめた。
「増やす。」
セドリックが聞き返す。
「増やす?」
「果実を?」
「はい。」
リディアは一本の枝を折らずに手へ取る。
「この実。」
「来年もなるでしょう?」
「もちろんだ。」
「でも。」
枝先を見せる。
「種を育てれば?」
全員が息を止めた。
「十本。」
「百本。」
「千本。」
リディアは静かに言う。
「宝を掘る必要なんてありません。」
「宝は。」
種を手のひらへ乗せた。
「育てられます。」
レオンは、思わず笑ってしまった。
「やっぱり。」
「先生は料理人じゃない。」
「え?」
「産業を作る人です。」
その瞬間だった。
森の入口から馬の音が響く。
兵士ではない。
荷馬車でもない。
一頭だけ。
若い騎士が慌てた様子で駆け寄ってくる。
「領主様!」
息を切らしながら叫ぶ。
「王都商会が!」
「どうした?」
「王室専属商会と揉めています!」
レオンの顔色が変わる。
「もう始まったのか……。」
リディアは驚く。
「始まった?」
レオンは森の向こう、王都の方角を見つめた。
「先生。」
苦笑する。
「あなたはまだ何も売っていません。」
「でも。」
一拍置いた。
「王都では、もう奪い合いが始まっています。」
誰も言葉を発せなかった。
商品は一つも出回っていない。
それなのに。
"価値"だけが先に走り始めている。
リディアは初めて理解した。
商売とは、物を売ることではない。
人の期待を動かすことなのだと。
そしてその時。
レオンは、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……だから急がないと。」
「また、同じことになる。」




