第17話 あなたは忘れても、私たちは忘れない
徴税期限まで、あと一日。
共同厨房には、普段よりも静かな空気が流れていた。
鍋は火に掛かっている。
赤い実も集まり始めている。
それでも、誰一人として笑ってはいなかった。
銀貨八百三十七枚。
その数字だけが、皆の頭の中を占めている。
セドリックは机の上へ銀貨を並べていた。
一枚。
二枚。
三枚。
袋をひっくり返しても、増えない。
「全部で百三枚か……。」
小さく息を吐く。
到底足りない。
「先生。」
ノアがリディアの袖を引っ張る。
「本当に大丈夫?」
リディアは少しだけ笑った。
「大丈夫、とは言えないかな。」
「じゃあ……。」
「でも。」
ノアの頭へそっと手を乗せる。
「諦めるつもりもないよ。」
その時だった。
屋敷の外から鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
昨日と同じ鐘。
徴税官の到着を知らせる鐘だった。
広場へ出ると、オスカーは既に馬から降りていた。
昨日と同じ制服。
同じ眼鏡。
同じ無表情。
「期限は明日だったはずです。」
セドリックが言う。
「確認だ。」
短い返事。
「逃亡されては困る。」
リディアはその言葉に違和感を覚えた。
逃げる?
この村の誰が。
どこへ。
老人も。
子どもも。
逃げられるはずがない。
オスカーはゆっくりと村を歩き始めた。
家。
畑。
井戸。
納屋。
一つ一つ帳簿へ書き込んでいく。
「これは?」
兵士が尋ねる。
「差し押さえ対象。」
「この畑も?」
「対象。」
「井戸も?」
「対象。」
感情はない。
ただ仕事。
その様子を、広場の隅から一人の老婆が見つめていた。
マルタだった。
震える声で呟く。
「……また来た。」
リディアは聞き返した。
「また?」
マルタはオスカーを見つめたまま言う。
「十年前も。」
「同じ目をしてた。」
オスカーは聞こえていない。
ただ帳簿を書いている。
「先生。」
マルタがリディアの腕を掴んだ。
「あの人。」
小さく震えている。
「覚えてないんだ。」
「え?」
「うちの息子。」
言葉が止まる。
深く息を吸う。
「飢饉の年。」
「税を払えなくて。」
「兵士に連れて行かれた。」
リディアは息を呑む。
「戻らなかった。」
「でも。」
マルタは笑った。
泣くような笑顔だった。
「あの人は。」
オスカーを見る。
「何百件も回ってるんだろうね。」
「だから。」
「うちなんか覚えてない。」
その瞬間だった。
オスカーがこちらを向く。
「何か。」
マルタは首を横に振った。
「……いいえ。」
リディアの胸が締め付けられる。
悪人ではない。
だからこそ。
人を傷付けた記憶すら残っていない。
夕方。
オスカーは屋敷へ戻る。
「明日。」
「日の出と同時に徴収する。」
それだけ言って立ち去ろうとした。
「待ってください。」
リディアが呼び止める。
「何だ。」
「あなたは。」
一歩近付く。
「ここへ来たことがありますか。」
オスカーは少し考えた。
「……ない。」
「本当に?」
「記録にない。」
「記録じゃなく。」
リディアは静かに言う。
「記憶です。」
オスカーは答えなかった。
ただ。
ほんの一瞬だけ。
眉が動いた。
「……知らない。」
馬へ乗る。
そして去っていく。
誰もいなくなった広場で。
リディアはぽつりと呟いた。
「覚えてない。」
セドリックが隣へ来る。
「どうした。」
「違和感があります。」
「何が。」
「記録にはない。」
その言葉。
「役人なら。」
「記録はあるはずです。」
セドリックは息を止めた。
「……確かに。」
十年前。
ルーデン。
エドガー。
徴税。
台所帳。
全部が少しずつ。
一つへ繋がり始めていた。
その夜。
王都。
薄暗い執務室で、一人の男が報告書を受け取る。
「ルーデン領。」
「まだ滞納しております。」
男は鼻で笑う。
「そうか。」
報告書を暖炉へ放り込む。
「では。」
ワインを飲み干した。
「証拠は消えたな。」
炎の中で。
一枚だけ。
文字が燃え残る。
『十年前 ルーデン 徴税延期申請』
それは。
決して。
却下されてなどいなかった。




