第16話 商人は、買わない。
「一本、銀貨五十枚。」
その言葉は、ルーデン中を駆け巡った。
昨日まで「誰も食べない」と言われていた赤い実。
その香りを閉じ込めた果実酢が、王都では宝石のような価値を持つ。
希望だった。
少なくとも、リディアはそう信じた。
だから翌朝、まだ日が昇りきらないうちに厨房へ立った。
木桶の中では、赤い実が静かに発酵を始めている。
昨日よりも香りが深い。
森を吹き抜ける風のような爽やかさに、ほんの少しだけ甘みが混じっていた。
「先生。」
ノアが欠伸をしながら顔を出す。
「もう作るの?」
「うん。」
「いっぱい作れば税金払える?」
リディアは一瞬だけ手を止めた。
「……払えるようにする。」
言い切ったのは、ノアを安心させるためでもあった。
そして、自分自身に言い聞かせるためでもある。
◇
昼過ぎ。
レオンは再び共同厨房へ姿を現した。
昨日と同じ外套。
同じ革鞄。
だが、その目だけが違った。
商人の目。
商品を見る目ではなく、市場を見る目だ。
「もう一度、見せてください。」
リディアは小瓶を差し出した。
レオンは木栓を抜き、香りを確かめる。
目を閉じる。
そして、一口だけ舐めた。
長い沈黙。
広場にいる誰もが、その口が開くのを待っている。
「……やはり。」
レオンは静かに頷いた。
「王都で売れます。」
ノアが飛び上がる。
「やった!」
マルタも胸を撫で下ろす。
セドリックの肩からも力が抜けた。
しかし。
レオンは続ける。
「ですが。」
その一言で、再び空気が止まる。
「私は買えません。」
沈黙。
「……え?」
リディアは思わず聞き返した。
「売れるんですよね?」
「ええ。」
「価値があるんですよね?」
「あります。」
「では、なぜ。」
レオンは申し訳なさそうに笑った。
「私には買う権限がありません。」
ノアが首を傾げる。
「商人なのに?」
「商人だからです。」
レオンは近くの椅子へ腰を下ろした。
「王都商会には規則があります。」
「新しい商品を扱う時は、必ず本部の審査を通さなければならない。」
「勝手には仕入れられません。」
リディアは息を呑む。
「審査には、どれくらい?」
「早くて十日。」
十日。
徴税まで。
あと二日。
絶望的だった。
「間に合わない……。」
ノアが俯く。
マルタも何も言えない。
セドリックは拳を握った。
レオンはそんな三人を見渡し、静かに口を開く。
「だから。」
革鞄から、一枚の紙を取り出す。
「私は別の提案をしに来ました。」
机へ置かれたのは、一通の紹介状だった。
封蝋には、見たことのない紋章が押されている。
「これは……?」
「王都でもっとも変わり者の料理人です。」
リディアは目を瞬かせる。
「料理人?」
「ええ。」
レオンは笑う。
「貴族に嫌われ、商人に愛され、王に呆れられている男です。」
ノアが吹き出した。
「変な人?」
「とても。」
レオンは頷く。
「ですが。」
その笑顔が消える。
「彼なら、この価値が分かる。」
リディアは紹介状を受け取った。
名前を読む。
そこには、一人の名が記されていた。
――エドガー・ヴァイス。
その瞬間。
セドリックの表情が変わる。
「……その男だけは駄目だ。」
広場が静まり返る。
レオンは驚かなかった。
「やはり、ご存じでしたか。」
「知っている。」
セドリックは紹介状を見つめたまま言う。
「十年前。」
拳を強く握る。
「ルーデンを見捨てた料理人だ。」
リディアは息を止めた。
料理人。
しかも。
ルーデンを知っている。
台所帳。
果実酢。
誰も知らなかった宝。
そして。
レオンの
『やっと見つけた』
という言葉。
点だったものが、少しずつ線になり始める。
レオンは静かに立ち上がった。
「先生。」
「はい。」
「この作品……いえ。」
彼は言い直すように微笑む。
「この果実酢は、料理ではありません。」
「人を呼び戻す鍵です。」
その言葉だけを残し、歩き出す。
残された紹介状を見つめながら、リディアは小さく呟いた。
「十年前、ルーデンで何があったの……?」




