第11話 同じ鍋を囲めない村
先代領主夫人が遺した『ルーデン台所帳』の最初の頁には、料理の作り方ではなく、たった一行の言葉が記されていた。
食卓を分ければ、心も分かれる。
苦しい時ほど、同じ鍋のものを食べなさい。
褪せた文字を指でなぞりながら、リディアは小さく息を吐いた。
「同じ鍋のものを……」
頁をめくる。
麦、乾燥豆、根菜、干し肉。ルーデンで手に入る食材を使った献立が、季節ごとに細かく書き残されていた。
華やかな料理は一つもない。
けれど、どの献立にも共通していることがあった。
少ない肉を細かく刻み、豆や野菜と一緒に煮る。固い麦はたっぷりの水を吸わせ、誰もが食べやすいよう柔らかくする。
一人分を豪華にするのではなく、百人が空腹にならないよう工夫された料理ばかりだった。
「この方も、同じことを考えていたのね」
「母上は、料理がお好きだった」
背後から聞こえた声に、リディアは振り返った。
厨房の入口にセドリックが立っている。
いつもきっちりと留めている上着の襟元が、今朝はわずかに緩んでいた。昨夜も帳簿と向き合い、ほとんど眠っていないのだろう。
「先代領主夫人は、セドリック様のお母様だったのですね」
「ああ。だが、俺が十歳の時に亡くなった」
セドリックは台所帳へ目を落とした。
「母上が生きていた頃は、屋敷の庭で領民を集めて食事をする日があった。身分に関係なく、同じ鍋から料理をよそっていた」
「今は行われていないのですか?」
「父上が亡くなり、飢饉が続いてからは、それどころではなくなった。皆、自分の家族を生かすだけで精いっぱいだ」
その言葉と同時に、リディアの脳裏に昨日見た光景が浮かぶ。
薄い粥を、幼い弟へ譲っていた姉。
配給された豆を服の内側へ隠し、周囲を警戒していた老人。
食べ物が足りない時、人は分け合うとは限らない。
失うことを恐れ、抱え込んでしまうこともある。
「今日、皆で食事をしましょう」
リディアが言うと、セドリックの眉が動いた。
「全員で?」
「はい。台所帳の献立を作ります」
「食料庫には、村全員を満腹にできる量などない」
「満腹にするとは言っていません」
リディアは台所帳を閉じた。
「今日作るのは、食事だけではありません。皆で食卓を囲む理由を作るんです」
◇
昼を過ぎる頃、共同厨房の前には大鍋が三つ並べられていた。
一つ目の鍋には、麦と乾燥豆。
二つ目には、刻んだ蕪と人参、それから捨てられるはずだった葉。
三つ目には、細かくほぐした干し肉と、朝から取っておいただしが入っている。
肉は、百人に一切れずつ配るには少なすぎる。
けれど刻んで煮込めば、脂と旨味を鍋全体へ行き渡らせることができる。
「ノア。その蕪はもう少し小さく切って」
「これくらい?」
「もう半分。口の小さな子も食べるから」
「分かった!」
ノアは舌を少し出しながら、慎重に包丁を動かした。
隣ではマルタが、水で戻した乾燥豆を木匙で潰している。
「豆を潰すなんて、ずいぶん変わったことをするね」
「全部ではありません。半分だけ潰すと、汁にとろみがつくんです」
「小麦粉を使わなくても?」
「はい。温かさも冷めにくくなります」
「へえ……」
マルタは感心しながら、再び木匙へ力を込めた。
潰した豆を根菜の鍋へ加えると、さらさらだった汁がゆっくりと白く濁っていく。
そこへ干し肉のだしを注ぎ、塩をほんの少し。
最後に細く刻んだ蕪の葉を散らした。
素朴な豆と根菜の汁物だ。
もう一つの鍋では、麦に刻んだ干し肉と人参を混ぜ、だしで炊いている。
蓋の隙間から湯気が漏れ始めると、香ばしい匂いが広場いっぱいに流れた。
「なんだ、この匂いは」
「肉を焼いているのか?」
「いや、肉はこんなに残っていないはずだ」
仕事を終えた領民たちが、匂いに誘われて集まってくる。
けれど広場へ置かれた長机を見た途端、足を止めた。
「ここで食べるのか?」
「全員一緒に?」
戸惑いが波のように広がる。
リディアは皿を並べながら答えた。
「はい。今日は皆さんで同じ料理を食べます」
その瞬間、一人の男が声を上げた。
「待ってくれ」
鉱山で働いているという、腕の太い若者だった。
「同じ料理というのは、同じ量という意味か?」
「基本的には。ただし、子どもや体調の悪い方には食べやすい量へ調整します」
「冗談じゃない」
男は顔をしかめた。
「俺たちは朝から鉱山で働いている。畑仕事しかしていない老人や、仕事のできない子どもと同じ量では足りない」
空気が張り詰めた。
今度は、痩せた女性が幼い娘を抱き寄せながら言った。
「子どもは食べなければ大きくなれません。働けないから食べなくていいなんて、あんまりです」
「そんなことは言っていない!」
「言っているのと同じでしょう!」
「俺たちが倒れれば、鉱石も薪も手に入らないんだぞ!」
別の場所からも声が飛ぶ。
「老人は少なくていい」
「妊婦を優先すべきだ」
「働いた者から先に取るのが当然だ」
「領主の屋敷の人間は後回しにしろ!」
誰かが一歩、鍋へ近づいた。
それにつられるように、別の誰かも動く。
食事を奪われる。
その恐怖が、集まった人々の目に浮かんでいた。
リディアの視界に、淡い光がちらつく。
《食養眼》が映し出したのは、栄養の不足だけではなかった。
皆の顔に、同じ色が重なっている。
恐れ。
目の前の食事を逃せば、次はいつ食べられるか分からない。
だから、誰よりも先に手を伸ばそうとしている。
「鍋から離れてください」
リディアの声は大きくなかった。
けれど不思議と、広場の隅まで届いた。
領民たちが彼女を見る。
「今日の食事は、全員分あります」
「そんなはずがない」
鉱山の男が吐き捨てた。
「肉はほとんど残っていなかった。俺は倉庫を見ている」
「ええ。肉だけなら、全員分はありません」
リディアは大鍋の蓋を開けた。
白い湯気が立ち上り、その向こうから麦と肉の香りがあふれ出す。
「だから、刻みました」
木匙で鍋の中をゆっくり混ぜる。
一粒一粒の麦がだしを吸い、細かく刻んだ肉と根菜が全体へ均等に混ざっている。
「肉を大きな塊のまま配れば、十人しか食べられません。けれど細かくして、麦や豆と一緒に炊けば、百人が肉の旨味を味わえます」
「そんなものは、肉を食べたことにはならない」
「では、あなた一人が肉を食べ、その隣で子どもが空腹のまま眠る方がいいですか?」
男は口を閉ざした。
責めるつもりはなかった。
彼もまた、空腹なのだ。
誰かから奪いたいのではない。ただ、自分が倒れることを恐れている。
「これは、全員が同じ量を我慢するための食卓ではありません」
リディアは集まった人々を見渡した。
「全員で明日を迎えるための食卓です」
広場が静まり返る。
「働く人には、汁を多めによそいます。子どもには柔らかい部分を。噛む力の弱い方には、潰した豆を多く入れます。同じ鍋でも、その人に必要なものは違います」
リディアは皿を一枚手に取った。
「平等とは、全員に同じ量を渡すことではありません。誰も食卓から外さないことです」
最初によそう相手は、もう決めていた。
リディアは麦飯と汁物を皿へ盛り、鉱山の男へ差し出した。
「あなたが最初です」
「……俺が?」
「朝から働いて、お腹が空いているのでしょう?」
男は戸惑いながら皿を受け取った。
周囲の視線が集まる中、木匙で麦飯をすくう。
口へ運び、何度か噛んだ。
「肉の味がする……」
驚いたようにつぶやく。
「肉は、ほんの少ししか入っていないのに」
「だしを吸った麦も、立派なご馳走になります」
男はもう一口食べた。
硬かった表情が、わずかに緩む。
「……温かいな」
それを合図にしたように、ノアが声を上げた。
「並んで! ちゃんとみんなの分があるから!」
マルタも腰へ手を当てる。
「押すんじゃないよ。鍋をひっくり返したら、あたしが許さないからね!」
今度は誰も、鍋へ殺到しなかった。
長机の前に、ゆっくりと列ができていく。
子ども。
老人。
畑仕事を終えた女性。
鉱山帰りの男たち。
最後にセドリックも並んだ。
「領主様は先にどうぞ」
誰かが言ったが、セドリックは首を横に振った。
「今日は俺も、ルーデンの一人だ」
全員へ料理が行き渡ったところで、長机の端から端まで、いくつもの湯気が立ち上った。
最初は誰も話さなかった。
失うことを恐れるように、皿を抱えて食べている。
だが、やがて小さな声が聞こえた。
「おいしい」
幼い少女だった。
母親が少女の口元を拭い、涙をこらえるように笑う。
「そうだね。温かいね」
別の机では、老人が鉱山の男へ自分の人参を差し出していた。
「わしには少し硬い。お前が食え」
「じゃあ、代わりに豆の多いところをやるよ」
皿から皿へ、食べ物が行き交う。
先ほどまで奪い合いかけていた人々が、今度は相手に合うものを渡し始めていた。
リディアの胸の奥が、じんわりと熱くなる。
王宮では、料理は権力を示すためのものだった。
最も大きな肉を誰が取るか。
最も希少な香辛料を誰の皿に使うか。
けれど、この食卓では違う。
少ないものを分けたからこそ、人と人との間に会話が生まれている。
「リディア」
隣に立ったセドリックが、静かに言った。
「母上が作りたかった食卓は、きっとこれだ」
リディアは答えず、台所帳の一行を思い出した。
食卓を分ければ、心も分かれる。
その意味が、ようやく分かった気がした。
ところがその時、広場の外から馬の蹄の音が響いた。
一頭ではない。
少なくとも五頭。
笑っていた領民たちの顔から、瞬く間に血の気が引いていく。
セドリックが立ち上がった。
村の入口に、王国の紋章を掲げた騎馬隊が姿を現す。
先頭の男は、湯気の立つ食卓を眺めると、嫌な笑みを浮かべた。
「ずいぶん余裕があるようだな、ルーデン領」
男は懐から一枚の書状を取り出した。
「王都より、徴税命令を持ってきた」
先ほどまで皆をつないでいた食卓を、男の視線がゆっくりとなぞる。
「税を納められない場合は――この場にある食料を、すべて差し押さえる」
リディアの手から、木匙が滑り落ちた。




