第10話 井戸の底
井戸を止めれば、水を汲む仕事が倍になる。
止めなければ、病人が増える。どちらを選んでも、誰かが苦しむ判断だった。
北井戸の使用は、夜のうちに止められた。
だが、村人の反発は大きかった。
「南井戸まで歩けば、往復で半刻かかる!」
「家畜の水はどうする」
「本当に井戸が原因なのか」
リディアにも断定はできない。
《食養眼》で見えた黒い濁りは異常の兆候にすぎず、その正体までは分からない。だからこそ、確かめる必要があった。
「腹痛が出た家を地図に記します」
領主館の卓上へ、村の簡単な地図を広げた。
発症した九人の家へ石を置く。すべて北井戸を使う区域に集中していた。
「共同厨房の食事を食べていない者も発症しています。逆に、同じ食事を食べても南井戸の水を使った人は無事です」
「なら、井戸だ」
セドリックが即断する。
「可能性は高いです。でも、原因を探さなければ再発します」
北井戸の周囲を調べると、井戸枠に大きな破損はない。水面も一見澄んでいる。
リディアは水を透明な瓶へ汲み、光へ透かした。細かな浮遊物がわずかに見える。
「上流を見ます」
「井戸に上流?」
ユアンが首を傾げた。
「地下水も、どこかから流れてきます」
村の北側には緩い斜面があり、その上に家畜小屋が並んでいた。前日の雨で、糞尿を溜める溝から黒い水が溢れている。
その流れは土へ染み込み、井戸の方向へ続いていた。
「昔は石の排水路があった」
マルタが記憶を辿る。
「先代様の頃にね。でも、崩れてから直す人手がなくて」
家畜小屋の裏を掘ると、土の下から割れた石管が見つかった。
汚水を村の外へ流すための設備だったらしい。それが壊れ、井戸側へ染み出していた。
「すぐに直す」
セドリックが言う。
「石工を集めろ」
「その間の飲み水をどうする」
ユアンが訊く。
南井戸だけでは村全体と家畜を賄えない。
リディアは手順を分けた。
飲用と調理用は南井戸から運び、必ず沸騰させる。洗濯や掃除には北井戸の水を使えるが、口へ入れない。水運び班を作り、子どもや高齢者の家を優先する。
共同厨房では大鍋で湯を沸かし続けた。
発熱者には、沸かした水と薄い麦粥。塩を少し溶かし、失った水分を補う。食べられる者には柔らかく煮た豆を少量ずつ加えた。
「味が薄い」
ノアが味見して言う。
「病人のための味よ」
「じゃあ、元気になったら濃くする?」
「少しだけね」
炊き出しと水運び、排水路の修復が同時に始まった。
誰もが疲れていた。
そこでリディアは、作業者用に鹿肉と豆の濃い汁を別鍋で作った。病人食と同じ鍋にしない。元気な者が食べるものまで薄くすれば、働く力が落ちる。
「同じ村なのに、別々の料理か」
セドリックが椀を運びながら訊く。
「同じものを平等に配ることが、いつも公平とは限りません」
「病人には病人の食事、働く者には働く者の食事」
「子どもには子どもの量を」
セドリックは考え込むように頷いた。
三日後、腹痛を訴える新しい患者は出なくなった。
重症だった二人も峠を越え、怪我人の熱も下がった。
村人たちは北井戸の周りに集まり、埋め戻される排水路を見守った。
「料理人が井戸まで直すとはね」
マルタが言う。
「直したのは石工さんたちです」
「あんたが騒がなきゃ、誰も掘らなかった」
リディアは返事をせず、井戸の底を覗いた。
水はまだ使えない。何度も汲み出し、洗い、検査する必要がある。
そのとき、底近くの壁に、崩れた石とは違うものが見えた。
「縄をください」
「降りる気か?」
セドリックが眉を寄せる。
「壁に何かあります」
石工が降り、泥を落とす。
現れたのは、古い石板だった。
そこにはヴァルツ家の紋章と、見慣れない文字が刻まれている。
マルタが息を呑んだ。
「先代奥様の印だよ」
「母の?」
セドリックの声が変わった。
石板の裏から、油布に包まれた薄い木箱が見つかった。
中に入っていたのは、湿気で端の崩れた古い帳面。
表紙には、震える字でこう記されていた。
『ルーデン台所帳――飢えの年に、捨ててはならないもの』
リディアは息を止めた。
自分よりずっと前に、この土地で同じ戦いをした料理人がいた。
帳面の最初の頁には、一つの献立と、赤い文字の警告が残されていた。
『王都へすべてを渡してはならない。冬豆を守れ』




