第9話「裏切り者は誰?」
逃亡決行まで、あと三日。
その事実が、頭の奥に張り付いたまま離れなかった。
朝、目を覚ましても。
授業を受けていても。
夜、眠ろうとしても。
――あと三日。
その言葉が、何度も脳裏に浮かぶ。
私は、できるだけ“普通”を装って生活していた。
笑う。
話す。
隣に立つ。
手を取られても、驚かないふりをする。
見つめられても、照れないふりをする。
――全部、演技。
(……ごめんなさい、殿下)
心の中で、何度も謝る。
けれど、口には出せない。
出した瞬間、すべてが終わるから。
今日も私は、エドワード様の隣を歩く。
廊下。
階段。
中庭。
渡り廈。
図書室の前。
どこへ行くにも、必ず一緒。
まるで、影のように。
気づけば、周囲の視線にも慣れてしまっていた。
(……これ、恋人というより護衛では……?)
そんなことを考えながら歩いていると。
「……最近、素直だね」
ふいに、そんなことを言われた。
心臓が、びくっと跳ねる。
「え? そ、そうですか?」
「うん。前より……可愛い」
にこ。
柔らかな笑顔。
優しくて、穏やかで。
――私だけに向けられる顔。
破壊力、致命的。
(やめて……!)
(そんな目で見ないで……!)
(罪悪感が、積み上がるだけなんですけど!?)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
この人は、本気で私を想ってくれている。
疑いようもなく。
だからこそ――
逃げるのが、こんなにも苦しい。
放課後。
私は、一人になりたくて学園内のカフェに入った。
窓際の席。
人目につきにくい場所。
いつもなら殿下と並んで座る場所を、今日は避けた。
温かい紅茶を前にして、深く息を吐く。
「……あと三日」
誰にも聞こえないほど小さな声。
指先が、わずかに震える。
その時。
「……ヴィクトリア様?」
聞き慣れた声。
振り向くと――
そこに立っていたのは、セシリアだった。
原作ヒロイン。
淡い笑顔。
優しい瞳。
まっすぐな心。
眩しい存在。
「ど、どうしたの?」
私は慌てて笑った。
平常心、平常心。
セシリアは私の向かいに座り、不安そうに眉を寄せる。
「最近……元気ないですよね」
「そ、そんなこと――」
「……逃げたいんですか?」
――え。
一瞬、意味が理解できなかった。
次の瞬間。
頭の中が、真っ白になる。
空気が、一瞬で凍る。
「……な、なにを……」
笑おうとした。
でも、頬が引きつる。
声も、少し震えていた。
セシリアは、ぎゅっと拳を握った。
「……殿下のこと、怖いんでしょう?」
図星。
胸を、正確に撃ち抜かれた。
私は、言葉を失った。
視線を落とす。
否定できない自分が、そこにいた。
「……私、見てたんです」
彼女は、静かに続ける。
「殿下が、どれだけヴィクトリア様を囲ってるか」
「警護も……行動も……全部」
「……正直、少し、怖いくらいです」
……観察力、異常。
(ヒロイン、優秀すぎ……)
思わず呟く。
「え?」
「い、いえ! なんでもない!」
慌ててごまかす。
でも、もう無理だった。
私は、小さく息を吸った。
「……逃げたいの」
声が、震える。
「このままだと……私、自分じゃなくなる気がして」
「誰かの“所有物”になるみたいで……怖いの」
本音だった。
ずっと、胸の奥に溜め込んでいた言葉。
セシリアは、黙って聞いていた。
急かさず。
遮らず。
ただ、真剣に。
やがて、ゆっくり口を開く。
「……私、手伝います」
「え!?」
思わず声が裏返る。
「殿下は……人として好きです。でも」
彼女は、まっすぐ私を見る。
「好きだからこそ……誰かを縛る人にはなってほしくない」
……聖女。
……天使。
「ありがとう……!」
私は、思わず彼女の手を握った。
温かい。
心まで温かくなる。
「でも……一つだけ条件があります」
「な、なに?」
セシリアは、真剣な表情になる。
「……バレたら、私が裏切り者になります」
「え?」
「殿下に……私は嘘をつけません」
……つまり。
限界が来たら、全部吐く。
「で、でも……!」
「大丈夫です」
彼女は、静かに微笑んだ。
「それまでに、逃げ切ればいいんです」
覚悟、重すぎ。
ヒロイン、強すぎ。
「決行は、いつですか?」
「……三日後」
「なら、準備は明日ですね」
その夜。
二人は部屋に集まり、何度も地図を広げた。
時間。
動線。
警備交代。
死角。
✔ 舞踏会リハーサルで人が集中
✔ 南門の警備が薄くなる
✔ 使用人用通路を利用
「ここを抜けて……」
「この時間なら、交代直後です」
「……これなら」
「……いけます」
私は、久しぶりに希望を感じた。
胸の奥に、小さな光が灯る。
――逃げられるかもしれない。
自由になれるかもしれない。
誰のものでもない、自分になれるかもしれない。
……知らなかった。
この会話が、すでに“誰か”に聞かれていたことを。
暗い廊下の奥。
灯りの届かない場所。
気配すら消した男。
静かに立つ影。
「……やっぱりか」
低く、冷たい声。
感情を抑えた、底のない声。
「ヴィクトリア……」
握られた拳が、ぎしりと鳴る。
爪が、皮膚に食い込む。
「……逃がさない」
それは、呪いのような誓い。
救済の仮面を被った、執着。
愛情と狂気を宿して。
王太子は、すべてを理解していた。
そして――
すでに、包囲網を完成させつつあった。




