第10話「決行の夜」
――その夜は、風ひとつ吹かないほど静かだった。
まるで、世界そのものが息を殺しているみたいに。
月明かりだけが、王立学園の長い回廊を淡く照らしている。
白い石床に落ちる影は、細く、歪んでいて――
どこか不安定だった。
私は、深くフードを被り、顔を隠す。
呼吸さえ、大きく感じてしまう。
(……お願い、静かにして……)
心臓が、うるさすぎる。
耳の奥で、どくどくと暴れている。
まるで――
「逃げるな」と責めているみたいに。
隣には、セシリア。
同じように変装して、背筋を伸ばし、前だけを見て歩いている。
その横顔は、いつもよりずっと大人びて見えた。
覚悟を決めた人の顔だ。
「……大丈夫」
彼女が、ほとんど息だけで囁く。
「ここを抜ければ、南門です」
「……うん」
私は、ぎこちなく頷いた。
声が震えないように、必死で抑えながら。
私たちは、使用人専用の通路へと足を踏み入れる。
湿った空気。
ひんやりとした石壁。
鼻をつく、古い埃の匂い。
細く、暗い廊下。
一歩進むたびに、靴音がやけに響く。
(……響きすぎ……)
怖くて、つま先で歩いているのに。
それでも音は消えてくれない。
(原作では……ここで捕まるんだよね……)
嫌な記憶が、脳裏をかすめる。
何度も読んだ、あのシーン。
逃げた直後、包囲されて――
絶望する私。
(……でも)
(今回は、違う)
そう、信じたかった。
私は、ぎゅっと外套の裾を握る。
指先が、冷たくなっている。
出口は、もうすぐそこ。
あと少し。
あと数十歩。
それだけなのに――
――カチリ。
小さな、金属音。
あまりにも静かな音。
でも。
その一音は、私の心臓を貫くには十分すぎた。
「……え?」
次の瞬間。
廊下の両端に、明かりが灯る。
ぱっ。
一斉に。
逃げ道を塞ぐように。
闇が、消えた。
代わりに現れたのは――
黒い制服。
整った隊列。
冷たい視線。
近衛騎士たち。
左右から、無言で並ぶ。
完璧な布陣。
逃げ場を、最初から計算した配置。
「……うそ……」
声が、掠れる。
包囲。
完全包囲。
退路、ゼロ。
希望、ゼロ。
セシリアが、小さく息を呑む。
「……やっぱり……」
その声には、悔しさと、諦めが混ざっていた。
私は、震えながら一歩後ずさる。
背中が、冷たい壁に当たる。
「ど、どうして……」
わかってる。
きっと――
ずっと、見られていた。
ずっと、泳がされていた。
その中央に。
ゆっくりと。
まるで、舞台に登場する主役のように。
一人の人物が歩いてくる。
金色の髪。
月光を映す碧い瞳。
完璧に整った微笑み。
――エドワード様。
「こんばんは、リリアーナ」
優しい声。
いつもと同じ。
……なのに。
なぜ、こんなに冷たいの。
「……お散歩には、遅い時間だね」
冗談みたいな口調。
でも、笑っていない。
瞳が、まったく笑っていない。
「……殿下……」
喉が、ひりつく。
唾すら、飲み込めない。
彼は、私の前で立ち止まった。
距離は、ほんの一歩分。
近すぎる。
逃げられない距離。
「……やっぱり、逃げるつもりだったんだ」
責めるでもない。
怒鳴るでもない。
ただ、淡々と。
事実を確認するように。
それが、一番怖かった。
「……ごめんなさい……」
私は、震える声で言った。
「でも……怖くて……」
彼の瞳が、わずかに揺れる。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
「……怖い?」
「……殿下のことが、じゃなくて……」
必死に、言葉を紡ぐ。
「このまま……私が、私じゃなくなるのが……」
「誰かの“所有物”みたいになるのが……」
「……怖かったんです……」
沈黙。
風も、音も、消えたみたいな静寂。
世界が止まったみたいだった。
長い。
長い沈黙。
やがて。
彼は、小さく息を吐いた。
「……なるほど」
低く、静かな声。
そして。
私の頬に、そっと触れる。
冷たい指。
優しい動き。
「だから、逃げたんだね」
……優しい。
あまりにも、優しすぎて。
逆に、怖い。
「……でも」
彼は、額を合わせて囁く。
吐息が、触れるほど近くで。
「それでも、君を失うよりは――」
声が、低く沈む。
「閉じ込めた方が、マシだった」
……来た。
原作の、あの台詞。
逃げ場のない宣告。
私は、涙が滲んだ。
「……やっぱり……」
彼は、私の涙を拭う。
指先で。
丁寧に。
大切な宝物みたいに。
「泣かないで」
「僕は……君を傷つけたいわけじゃない」
「ただ――」
私の手を、両手で包む。
逃げられないように。
優しく。
でも、絶対に離さないように。
「君が、僕のそばにいる未来しか、欲しくない」
包囲網の中。
月明かりの下。
逃げ場ゼロ。
私は、ようやく理解した。
(……これ……詰んでる……)
セシリアが、かすれ声で呟く。
「……ごめんなさい……」
「……ううん……ありがとう……」
私は、微笑んだ。
精一杯の、作り笑いで。
エドワードは、静かに命じる。
「……連れて帰って」
騎士たちが、一斉に動く。
私は、彼を見上げた。
「……殿下」
「……なに?」
「……私、まだ……諦めてませんから」
一瞬。
彼は、目を見開き――
そして。
心から嬉しそうに、微笑んだ。
「……いいね」
「その方が、可愛い」
――こうして。
私の“第一回逃亡作戦”は。
綺麗に、完璧に。
失敗したのだった。




