90.終わりの朝
月曜日の朝。横島樹はいつものように家を出て、いつものように学校へと向かった。
その足取りに迷いはなく、道行く異性から向けられる視線にも動じない。
途中、御厨美桜が合流してきた。
樹の隣を歩きながら、ずっと彼の顔を見ている。
「樹さん、夏は好きですか?」
「好きだよ。最近の夏は暑すぎると思うけど。去年なんて、溶けるかと思ったよ」
まぁ、去年はずっとクーラーの効いた部屋にいたんだけど。樹は思う。
「確かにそうですね……樹さんが倒れてしまったら大変ですし、夏までに対策を考えておかないと。それと、海は好きですか?」
「海もいいね。今年は行きたいなぁ」
「でしたら、ぜひ! 今年の夏は一緒に海に行きませんか!? 私、海の家というものに行ってみたいんです」
「焼きそばとか食べたいよね。ちょっと気が早いけど、夏の予定が一つ決まったってことで。楽しみにしてる」
美桜は頬を染め、「私もです」と呟いた。
高校が近くなり、少しずつ生徒の数も増えてくる。
そんな中、樹の背中が二度、控えめに叩かれる。
「樹せんぱぁ〜い」
振り返ると、そこにいたのは町出凪だった。
ピンク色の髪は日差しを浴びて糖度を増し、身長に似合わない二つの塊が跳ねる。
「凪ちゃんおはよう。奇遇だね」
「町出さん、でしたよね? おはようございます!」
「樹先輩に御厨先輩、おはようございますぅ〜。ほんま奇遇やわぁ。今朝は先輩に会いたい気分やったんで、嬉しいなぁ」
凪は——美桜がいない方の——樹の隣に立ち、彼の腕を胸の間に挟んだ。
「朝から癒される、やろ?」
「とってもね。そういえば、こういうマウスパッドがあったな……」
「胸のマウスパッドなんてあるん? そんなの、喜ぶ人おるんやろか……」
俺の故郷ではいるんだよ。言うことはしなかった。
こちらの世界で似たような商品を出すなら、どんなものがいいだろうか。
単純に考えれば鍛えている男の胸筋だが、そもそもの常識として、この世界での男は細い。
あまりに現実味が無さすぎて人気が出ないかもしれない。
「む……さすがに私の胸では、樹さんを癒して差し上げることはできませんね……」
樹を思考から引き戻したのは、少し残念そうな美桜の言葉だった。彼女の目をじっと見つめる。
「美桜、胸は大きさじゃないよ。相手への思いやりがあれば、それで幸せにできるんだ」
「そう言っていただけると嬉しいですっ! ありがとうございます!」
胸は大きければ大きいほど良い派閥の樹ではあるが、この言葉に嘘はなかった。
やがて、高校の門が見えてきた。
門をくぐって校舎へと向かおうとしていると、目の前に人だかりができている。
校舎の入り口に大きなホワイトボードがあり、そこに何かが貼られていたのだ。
「…………えっ?」
最初に足を止めたのは凪だった。
「い、樹先輩、見たらあかん……」
遅かった。ボードを、そこに貼られている写真を見てしまった樹は立ち止まる。
その目は衝撃と恐怖に染まっていた。
「お二人とも、どうしたの——」
最後に気付いたのが美桜だ。彼女は二歩ほど樹より先へ進み、ソレをしっかりと見てしまったようだった。
信じられないものを目にし、ふるふると震えながら俯いていた美桜だが、やがて樹の方へ振り返る。
「い、樹さん……これは、どういうことですか……?」
「……ち、違うんだよ、これは……な、何かの間違いで……」
樹の声は揺れていた。
それが、彼の暴挙の何よりの証拠だった。
「あなたが、あなたがそんな方だとは思いませんでした……」
「ま、待ってよ美桜。きっと、これは誰かが僕を騙すために——」
「聞きたくありません」
樹の言い訳はピシャリとシャットアウトされてしまう。
「……信じてたのに……二度と、話しかけないでください」
美桜は涙も流さず、一瞥もくれずに去っていく。
「そ、そんな……一体誰が、こんなこと……」
唐突に訪れた別れに目の前が暗くなったのか、樹は膝をついてしまう。
だが、彼に襲いかかる絶望はこれだけではなかった。
「——横島くんって、こんな酷い人だったんだ」
「私たち、ちやほやしちゃってバカみたいだよね」
「ねー、みんなにも教えてあげよ? 騙されてる子、たくさんいるだろうし」
若者たちが校舎内に走っていく。樹の没落を運ぶために。
「あ、あぁ……」
茫然自失の状態で虚空を見つめる樹。
凪は彼に寄り添うようにしゃがみ込んだ。
「樹先輩……」
「な、凪ちゃん……凪ちゃんも、僕から離れていっちゃうの……?」
男の目は怯えていた。
自分が積み上げてきたものが崩れ去ったことを理解し、今立っている地面すら危うくなり、どこまで落ちていくのか予想もできない。そんな目だった。
「そんなわけないやろ? ウチは、どんなことがあっても先輩のことが好きやから」
樹は涙を流しながら凪に身を寄せ、彼女に優しく抱きしめられる。
「凪ちゃん……」
「ウチはずうっと樹先輩と一緒。こんなことで先輩に見切りをつけるような、薄情な他の女とは違うからな?」
「うん……」
腕の中には、完全に心が折れてしまったように見える樹。
凪は口角が上がるのを抑えられなかった。
(——ついに、ついにウチが一番になった! 誰にも追いつかれない、追い抜かれない、負けない! 一番に! これでウチは——)
声がしていた。喉の奥から搾り出すような声。
凪の腕の中からだ。
「……大丈夫。ウチがついてますから」
最初、凪は樹が泣いているのかと思った。
しかし、彼の口から発せられるのは悲しみではなく、どちらかというと、喜びのようだった。
「……樹、先輩……?」
「ふっ…………は、はは、ははははははは!」
樹は確かに笑っていた。
気が触れたわけではなく、全てを諦めたわけでもない。
ただ声をあげて笑った。
考えが一から十まで当たったとでもいうように。
「はぁ……笑った笑った」
彼はゆっくりと立ち上がる。
目の前で何が起こっているのか分からず、凪も立ち上がった。
「一つだけ、聞きたいことがあるんだ」
凪の背筋に冷たいものが走った。
相対する男の声の質が変わったからだ。
「まずは……凪ちゃんが俺のことを支えてくれるんだよね。心底嬉しいよ、ありがとう」
「も、もちろん……ウチが先輩を——」
「でも、分からないことがあってね」
「分からないこと……?」
今までに聞いたことがない、冷え切った声。
自分に向けられる敵意。
「俺はさ、ここからじゃ、ボードに何が貼られているか分からないんだ……いや、目は悪くないんだよ? 単に遠すぎる。ここからアレを確認するなら、それこそ双眼鏡でも無いと、無理だと思わない?」
その時、二人の視線が交差し、凪は理解した。
罠に嵌められたのは樹ではなく——自分なのだ。
「それなのに、どうして——凪ちゃんは一番最初に俺を心配してくれたのかな?」
樹の目は死んでいない。闘志の炎が燃え盛っていた。
凪、終了のお知らせ
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