78.澱
浴室から出て、身体についた水滴をバスタオルで拭き取りながら——町出凪は思い出していた。
「あの時の樹先輩、傑作やったわぁ」
笑みが溢れる。耳を舐めた時の、樹の動揺した表情。
何とか声を出さないように耐える可愛らしい努力。弱いところは理解した。
横島樹が店に来てくれたのは数時間前のことだ。
彼が現れたのは全くの予想外。
驚きはしたが、凪にっては好都合でもあった。
樹と距離を縮め、御厨美桜や月ノ原ミラに勝たなければならない。もっと言えば、吉崎千翼や九重綾香にも。
ライバルの壁を掻い潜って仲を深めるには、それだけ多くの接触を必要とする。
樹も凪もそれを理解していて、実際に二人は密なコミュニケーションを取っていた。
性的な面で言えば、現時点で最も樹と進んでいるのは、間違いなく凪である。
しかし——凪は湿り気を帯びた手で、自分の胸に手を当てた。
大きな乳房は僅かに形を歪めつつ、若さで押し返そうとしている。
樹の手の感触を思い出して、凪の心臓が強く跳ねた。
平静を装っていた——と言うには声を出しすぎてしまった——が、男に胸を触られるのは初めてだった。
いや、実を言えば男と会話をするのも、実物を見るのも初めてだった。
今までは「男なんて大したことがない」と甘く見ていた凪だったが、なるほど、学校中が浮き足立つ理由が分かる。
これまで“遊んできた”女子たちは少しの反撃もしてこなかったが、樹はそうではなかった。
女から男と関係を持つことは難しいが、男から女と関係を持つのは、当人にその気があれば、いくらでも可能だ。
つまり、真似事でない「セックス」という視点で見れば、彼の方が圧倒的に経験を積んでいるはずなのだ。
そのために、快楽に思考を塗り潰されず、反対にこちらを支配しようとしてくる。
戦う相手とはしては厄介極まりないが、張り合いはある。
楽しくないかと聞かれれば否だった。
(でも、これは……アカンねぇ)
触れられただけなのに、自分の脳に楔を打ち込まれてしまったようだ。
男に触れられると、どんな気持ちなのか。
電流が流れるような感覚は、自分で触れるのとはワケが違った。
そして、自分が弄んだ樹のソレ。
確かに凪が優勢だったプラネタリウムでの行為ですら、翻って自分の首を絞め始める。
硬く、熱く脈打つ物体。アレが自分の中に挿入ったら、一体どうなってしまうのだろう?
下半身が熱を帯び、身体全体が「準備」を始めてしまう。
ただ、こんなものは自分で処理すればいい。
すればいいのだが……樹との行為を想像してしまうというのは、それに興奮を覚えているというのは、彼に対して好意を抱いていることに他ならないのではないか。そんな疑問が過ぎる。
(余計なこと考えるのは止めんとね。ウチは上手くやるんやから)
一瞬のうちに思考がクリアになる。
自分は樹を落とそうとしていて、樹は自分を落とそうとしている。
それだけを頭に入れておけば話は進むし、やるべきことが特定できるのだから。
それでも、どうしても消すことのできない澱のようなものを感じる。
樹の笑顔を見るたびに、声を聞くたびに、身体に触れるたびに、着実に蓄積している。
恋愛であろうとも、戦いをあまり長引かせるわけにはいかない。
追う側と追われる側が確定してしまう前に終わらせる必要がある。
「……先輩、ウチから離れられなくしたるからね」
これは宣言だ。町出凪という存在を賭けた、一世一代の勝負ですらある。そう思える。そう思わざるを得ない。
宣言でもあるし、自分に言い聞かせてもいる。
そうしなければ、輪郭が見えなくなってしまう。
私は誰で、何のために生きているのか。
凪はバスタオルを手から離し、ドライヤーのスイッチを入れた。
ピンク色の髪に手を触れてみると、既に半分ほど乾いていた。
謎の多い凪の行動理由はなんなのか、何をしようとしているのか。今の段階で当てられた方はエスパーです。
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