39.月の女神と水族館
待ちに待った土曜日。
意気揚々と品川駅へと向かった俺を迎えてくれたのは、美の女神だった。
「おはよう、よりこんにちはが正しいかしら。こんにちは、横島くん」
「………………おお」
挨拶を返すことも忘れてしまう。
ハーフの私服はどんな系統なのだろう、というのは以前からの疑問だったが、月ノ原が纏っているのはタイトなワンピースだった。
近さだけで言えば九重のギャルファッションか。
だが、日本人離れした顔立ちの月ノ原が着ていると、エロさよりも造形的な美しさが際立つ。
「横島くん、どうしたの? ……もしかして、似合ってない、かしら……?」
「い、いやいやいや、そんなことないよ!」
「な、ならいいんだけど……誰かと私服で出かけることなんて初めてだから、自信がなくて……」
こんな美女がぼっちだなんて、考えれば恐ろしい世界だ。
現実世界から男が群がるのは想像するまでもない。
自信が無いのなら、俺がつけさせてやろう。
異性からの褒めこそが一番の経験値だ。
「見惚れてたんだよ。月ノ原さんがあまりにも綺麗で」
「私なんかに? 変な人ね……」
そっけない態度ではあるが、その耳は微かに赤く染まっている。
「あんまり時間もないし、そろそろ行こうか」
「時間って……今日はこのあと予定があるの?」
「そういうわけじゃないけど、水族館でゆっくりするなら、できるだけ早く行きたいと思って」
「なるほどね。場所は調べてきたから、私に任せてちょうだい」
道のりぐらいは俺も知っているが、彼女の言葉に甘えてついて行くことにした。
品川駅の改札を離れ、十分もしないうちに水族館に到着する。
途中、いつも通りの視線を感じたが、今日ばかりは俺だけの手柄ではない。月ノ原にも多くの注目が集まっていた。
さっさとチケットを買い、めくるめく海の世界への入り口をくぐる。
「その……チケットを買ってもらってごめんなさい。本当なら私が買うべきなのに」
「そんな決まりがあるわけじゃないし、気にしないでよ。そもそも僕が誘ったんだし」
申し訳なさそうな月ノ原だが、俺の言葉を聞いて、少しばかり胸の重しを取ってくれたようだ。
俺であれば、その気になればいくらでも金を用意することはできるしな。九重考案のフィギュアだけで億稼げそうである。
「あ、さっそく水槽があるよ」
「ここは淡水魚のエリアみたいね」
身近な川魚だけでなく、アマゾン川などに棲む巨大魚も展示されている。
もう少し奥へ進んで淡水魚エリアを抜けると、一気に視界が開ける。
海底トンネルのような水槽が長く伸びていた。
「綺麗……」
表情の変化に乏しい月ノ原でも楽しんでいるのがわかる。
「エイのあの部分って口じゃないのよ。知ってたかしら」
水族館デート御用達のフレーズまでくれたし、俺はエイよりも月ノ原に夢中だ。
水槽の上部からはおそらく自然光が差し込んでいて、それに照らされた彼女は儚く、触れれば消えてしまいそうなほど。
「こんな綺麗なのに、今日は人が全くいないのね。私たち、かなり運が良いんじゃないかしら」
「……そうだね。土曜日なのに珍しい。あ、この先にクラゲの水槽があるみたい」
「行きましょうか」
足取りの軽い月ノ原に置いていかれないようについて行くと、彼女のお目当てであるクラゲエリアに入る。
真っ暗な空間。クラゲの入った円柱型の水槽が等間隔に設置され、それぞれが色を変えながら光を放っていた。
「ここ……母と見た覚えがあるわ……」
月ノ原はミズクラゲの揺蕩う水槽の前に歩いて行き、遠い昔を懐かしむような顔で眺めている。
俺は彼女の邪魔にならないよう、隣で静かに時間の流れを感じていた。
一分、五分、十分。
月ノ原は、ずっと同じ水槽の前に立っている。
風もないのに彼女の髪はふわりと揺れ、その心中を表しているようだ。
「…………あっ、ごめんなさい。ずっとクラゲばかりだと、あなたがつまらないわよね」
月ノ原が苦笑する。
「ううん、僕も楽しいよ。月ノ原さんの大切な思い出を、一緒に体験できてるみたいで」
「横島くん……」
「孤独は一人じゃ埋められないよ。僕は……月ノ原さんの心を埋められる男になりたい」
俺はそう告げて、おもむろに彼女の手に自分の手を重ねる。
少しだけ身体を、顔を強張らせた月ノ原だったが、ゆっくりと俺の言葉を咀嚼するように表情が柔らかくなり、やがて確かに頷いた。
「…………横島くんと出会ってから、私は驚くことばっかりよ」
「驚くこと?」
「女子に怖がらないし、自分の奴隷みたいに扱ったりもしない。変な人かと思えば同じ趣味を持ってるし、今もこうして、私と一緒に水槽を眺めてくれた」
俺が繋いでいた手に力が加わり、俺たちが繋いだ手になる。
「あなたとなら、一緒にいれるかもしれない。私の全てをあげられるかもしれない。そう思うわ」
初めて、俺は月ノ原の笑顔を見た気がした。
(これで八割ってところか……)
極めて冷静に、現在の攻略具合を考える。
今の段階でも十分、山下から月ノ原を奪えたと言えるだろう。
しかし、本当にこれで終わりだろうか。
これで月ノ原が嫉妬に狂うだろうか。
答えは否である。
俺のアプローチに彼女が応えるのではない。
彼女からアプローチを仕掛けてくるまで好感度を高めなければ、完璧な勝利とは言えない。
そこまで行って初めて、俺は現実世界へ帰還することができる。
明日からも俺を待ち受ける過酷な社会生活の活力を補充することができるのだ。
それには……まだ足りない。
月ノ原の心を陥落させる最後のピースが足りない。
だが、そのための準備は終わらせた。確認もした。
ついに正念場だ。
・
さらにクラゲを十分ほど堪能した俺たちは、水族館のメインであるイルカショーの会場に立っていた。
「まさか……ここまで誰もいないなんて。まるで貸し切っているみたい」
「イルカは……いるみたいだね。もともとショーを見る予定はなかったけど、こんな閑散具合なら元々中止だったかも。ちょうどいいし、少しだけ座って休まない?」
「そうしましょうか。私のワガママに横島くんを付き合わせてしまったし」
俺たちは、水槽から見て三階ぐらいの席に腰を下ろす。
その間も俺たちの手は繋がれたままだ。
ひんやりとした月ノ原の手に、徐々に俺の体温が移っている気がする。
「……あの」
彼女の方へ顔を向けると、なんとも神妙な表情だ。
悪い意味ではないが、自分のキャラではないことをしようとしている時のような、気恥ずかしさも感じる。
「まだ終わったわけじゃないけれど、今日は誘ってくれて本当にありがとう。忘れられない日になったわ」
「僕だって、月ノ原さんとこんな仲になれて嬉しい。……これからも一緒にいてくれるよね?」
思わせぶりのレベルが限界突破しそうだが、これは仕方のないことだ。
彼女は人の好意には鈍感で、露骨なぐらいに仄めかさないと理解できない。
まぁ、その甲斐はあったようで、月ノ原は「もちろんよ」と肯定してくれた。
もはや恋人のような距離感。脳が悦びに満ち溢れている。
だが……いつの時代も、幸福というのは長く続かないものだ。
「……あのね横島くん」
月ノ原——未だ鎖に繋がれた彼女は切り出す。
「私、しっかり口にしておこうと思うの。これからもあなたと一緒に——」
「————あなたと一緒に、なんだよ」
目の前の人間の時間が止まる。




