13.九重綾香の泡
初めて本物の男子――横島樹を目にした感想は「そんなものか」だった。
『週間少女ステップ』で連載されている王道系の作品、それに出てくる主人公のようで、大きな衝撃はない。
衝撃がないというのが、衝撃だった。
フィクションとノンフィクションは違う。
アニメや漫画と、現実は違う。
絶対にガッカリするはずなのだ。アタシたちの思い描いていたような男子ではない、と。
でも、彼は違った。妄想がそのまま具現化したかのように、アタシたち「女子」の理想を体現していた。
アタシは思った。そんなものか。
アタシは努力してきた。誰に見せたいわけでもないが、流行を取り入れたり、可愛くある事はモチベーションだ。
アタシは、現実の男子なんかに簡単に心を奪われたりしない。
そして、横島くんを見た時に理解してしまった。
アタシの意地なんて「そんなものか」と。
女の子のような可愛い顔をしていても、華奢な身体でも、否応なく分かってしまう。彼は男だ。
本当なら、アタシたちを奴隷のように扱ってもバチは当たらないぐらいの神々しさ。
神様が――本当にいたとして――自分たちと同じ目線で笑い合ってくれるのなら、誰だって近付きたくなる。
・
昼休みが始まり、みんなが石のように動けなくなっていた。
アタシも同じくで、呼吸すら忘れてしまいそうだった。
受け入れるわけにはいかない。
ここまで横島くんと会話する機会がなく、ここで勇気を出さなければ、アタシは埋もれてしまう。
粉々に砕かれたはずの意地がガムテープでグルグルに巻かれて、辛うじて形を保っている。
形を保ちながら、アタシに言った。
「アンタの努力の成果を見せる時じゃない?」
反論なんてない。その通りだ。
他の子たちも可愛かったり綺麗だったりするけど、負けないという自負はある。
総合的に考えたらアタシが最強なんだ。
じゃあ動くしかない。チャンスを掴む、絶対に。
立ちがろうとして足で椅子を押すと、それは大袈裟に音を立ててみせた。
アタシにはそれが挑発のように聞こえた。不安が吹き飛ぶ。
気付けば鼓動は落ち着いていた。
一歩、二歩と視界が狭まっていき、ついに声をかける。
「よこ――い、いっくん、ちょっといい?」
攻めて攻めて攻めまくる。それがアタシの作戦だった。
男子の中には、女子に好意を持たれると怖い人もいるらしい。
でも、いっくんに関してはそうは見えない。
なら――他の子達が追いつこうと思っても追いつけないぐらい、背中も見えなくなるほど遠くへ行ってやる。
彼は多少動揺しているようだったが、柔らかい笑みを浮かべて反応してくれる。
それどころか――
「えっと……確か九重 綾香さんだったよね?」
「も、もうアタシの名前覚えてくれてるとか……え、夢なの……?」
なにこれ、アタシのこと好きってこと?
本能すら固まってしまう。
……いやいや、流石に初対面で好きになられることなんてない。
漫画の読み過ぎだと思われて引かれてしまう。
勘違いだけは絶対にしちゃいけない。
あ、いっくんって立ち上がると結構男の子なん――
「その……一目見た時から、すっごく可愛いと思ってたんだ」
「…………ひゅ?」
自分が聞いたことのない音を発しているのを、どこか上の空で聞いた。
いっくんはアタシになんて言った? 一目見た時になに?
今の言葉は皮肉? もしかして変なことしちゃったのかもしれない。最初にアクセルをかけ過ぎたのかも。
じゃあ、いっくんは何て言ったの?
一目見た時からすっごく可愛いと思ってた。
一目は一目。初めて見た時ってことだ。
すっごくっていうのは、その後に続く言葉を大きくしてるんだよね。
その後の言葉っていうのは?
可愛いと思ってた。可愛いと思ってた? 誰が、誰を?
いっくんが、アタシを、可愛いと思ってくれたの?
要は、アタシはもういっくんが好きになってしまったのだ。
・
誰にか分からないけど、一つ言っておくと、アタシたちはめちゃくちゃ我慢強いと思う。
もちろん、いっくんを傷つけるような真似をしたら、その時点で夢の学生生活が終わる事は知った上で。
思春期の女子が男子と触れ合えたら、供給過多である。
自分から手を出さない代わりに、この熱を鎮める事くらいは許してほしい。
「――あれ、いっくんじゃん!」
ここでいっくんと出会った時、アタシはすぐに部屋に帰るべきだった。
女性の方が嗅覚に優れているらしいけど、異性の異変を察知する能力は男女問わずなのだ。
「な、なにもしてないからっ!」
「ごめん、九重さんの言いたいことが分からないや。詳しく教えてもらっていいかな?」
現行犯で逮捕されてもシラを切る犯人のように叫ぶアタシを、彼は怪訝な目で射抜き、手首を抑えられてしまう。
「ちかいちかいちかい……も、もう少しだけ離れ――」
「そんなことより、なんて言おうとしてたか教えてよ」
みるみるうちに顔が近くなっていく。
視界にいっくんしか入らなくなる。
怖くなった。アタシはこれからなにをされてしまうんだろう。
こんなに心臓が強く鳴っているのに、これ以上があるなら、死んでしまうのではないか。
でも、夢の中にいるのは事実だった。
漫画でも、ここまで急激に距離が縮まることなんてない。
これからなにをしてくれるんだろう。
そんな気持ちを弄ぶように、いっくんは自分の足で、アタシの逃げ道を塞いでいく。
身体が言うことを聞かない、ということにすら意識が回らない。
だからこそ、唐突に「触れて」いることを意識した途端、死んでしまいたい気持ちだった。
絶対に嫌われた。女子が自分でそういう行為に励んでいると知って、嫌悪感を抱かないわけがない。
瞬きすると、いっくんの顔がなくなっていた。
いや、消えたのではなく、アタシと重なった。キスだった。
そこからの事は何も覚えていない。というより、小動物が餌を細かく砕いて口にするように、情報を咀嚼していかなければいけなかった。
最初に、ギリギリ理解していたのは唇の柔らかさだった。
処女みたいな――実際にそうだけど――ことを言えば、キスって本当に幸せになるんだな。そういうことだった。
次に、多分いっくんはアタシの頭を撫でてくれた。
いつの間にかいなくなっているけど、そんなに時間は経っていない……はず。
アタシは時間をかけて、かけて、かけて。
ようやく全てを理解した。ほとんどの女子が一生かけても得られない体験――キスをしたということ。それも、いっくんの方から。
本当のところは分からないけど、いっくんはきっと、女子との恋愛ができる人だ。
たくさんモテて、いっぱい恋愛をして、誰かと幸せになる。誰かが幸せにする。アタシじゃない誰かが。アタシよりも、もっと頑張っている誰かが。
それでも良い。そんな男子がいること自体が奇跡みたいなものだし、アタシがどうとかじゃなくて、世界が守っていかなきゃいけない。
だというのに。そう理解したら、持っていいはずがない気持ちが泡のように浮かんでくる。
――好き。
泡の数が増える。小さな粒が大きくなっていく。
――好き。好き。
抑えないといけないと、報われないと思えば思うほど、反比例して泡が増えていく。
――好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き。
好きだよ、いっくん。
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