胸騒ぎ。其の一
夢を見ていた。
とても古い夢だ。
夢の中で、俺はまた十歳に戻っていた。郡山の近くにあった家で、祖父と一緒に座っている。夏だったから夜になるのが遅く、日が沈んでも空気はほとんど冷えなかった。
縁に腰掛けて足をぶら下げながら、俺は気だるそうにキャンディを舐めていた。祖父は穏やかな笑みを浮かべながら、雲一つない空を見上げている。太陽はゆっくりと丘の向こうへ沈み、辺り一面を鮮やかな橙色に染めていた。
何を見ているのか、俺には分からなかった。
そこに何がある?
ただの空じゃないか。
毎日見ているものだろう。
何がそんなに特別なんだ?
「じいちゃん、何か考えてるの?」
「ほっほっ、まあそうとも言えるな。だが何より、この景色から目が離せんのじゃ」
「ふーん……景色? でも、ただの空でしょ」
祖父は大きくしわだらけの手を俺の頭に乗せ、優しく撫でた。
「お前にはそう見えるかもしれん。わしもお前くらいの頃は、同じように思っておったよ。だがな……」
少し言葉を切る。
「歳を重ねると、今まで見えなかったものが見えてくる。気にも留めなかったものの価値にも気づくようになる……目は良くても、のう」
「じいちゃん、なんか変なこと言ってるよ」
「はっはっは」
静かな夕暮れの中に、祖父の笑い声が溶けていく。
「いつか分かるようになるさ、レイ。今はまだ若すぎるだけじゃ」
祖父は再び空へ視線を戻した。夕日の光を受けて、白髪がわずかに輝き、穏やかな笑みは変わらないままだった。
「鳥を見てみろ。空を飛んでおる。あれはあいつらにとっては当たり前のことじゃ。わしらが歩いたり走ったりするのと同じようにな」
「……でもな、レイ。お前は空を飛びたいと思ったことはないか?」
「え? うーん……どうだろ。たぶん、あると思う」
「ほれ見ろ。誰でも一度は思うものじゃ。人は飛べん……だが、それでも飛ぼうとする」
「それって、どういう意味?」
「いやなに……年を取ると、少し口が軽くなってのう」
祖父は軽く笑った。
俺はその視線を追い、遠くに三羽の鳥を見つけた。ゆったりと円を描くように空を舞っている。
言っていることは、まだよく分からなかった。
それでも――なぜか目を離せなかった。
人は飛べない。
それでも、飛ぼうとする。
✧ ₊ ✦ ₊ ✧
金曜日。一週間目の終わり。
「はぁ……久しぶりに夢なんて見たな」
目を開け、ゆっくりと上体を起こす。その瞬間、スマホが鳴り響いた。充電器から外し、画面をスワイプして通話に出る。
「おはよう、レイくん」
「おはようございます、サイオンジさん」
……朝一番でこの人からの電話か。
しかもマネージャーだ。
「よく眠れた? 学校は楽しめてる?」
……わざとらしいな。
どうせ全部把握しているくせに。学校側は完全に会社と繋がっている。俺の行動はすべてサイオンジと会長に報告されているはずだ。
「おかげさまで、非常に充実していますよ♪」
「それはよかった。もう十分楽しんだでしょ?」
俺はわずかに眉をひそめた。
……嫌な予感しかしない。
「どういう意味ですか?」
「もう少し刺激があった方がいいと思ってね」
「はっきり言ってください、サイオンジさん」
「ふふ……つまらないわね、レイくん。学校に行けば分かるわ」
「……」
「まあ、一つだけ忠告しておくわ」
「何でしょう」
「この学園、そんなに単純じゃないわよ。全員が無能に見えたとしても、それは錯覚」
少し間を置く。
「今はたまたま運がよかっただけ。いつまでも続くとは思わないことね」
「全部を遊び半分で見るのはやめなさい」
そう言い残し、通話は一方的に切れた。
✧ ₊ ✦ ₊ ✧
いつも通り、朝はホームルームから始まる。教室に入ってきたのはシンドウ先生だが、いつものような話はせず、出席確認を終えるとすぐに本題へ入った。
「タブレットかスマホを出してください」
クラスが一斉に動く。俺もタブレットを取り出した。
「学校アプリを更新してください。開くだけで自動的に更新されます」
言われた通りアプリを起動すると、学園のエンブレムとともにロード画面が表示された。しばらくして更新が完了し、そのままホーム画面へ移行する。
「全員更新できましたね。では説明します」
先生はリモコンを手に取り、プロジェクターを起動した。映像が電子黒板に映し出される。
「まず一つ目。これまで通り、自分の成績と順位は確認できます。ただし――今後は他の生徒の順位も閲覧可能になります」
「えぇ……」
教室に重い空気が流れる。
これまでは匿名だった。自分の平均点と順位しか見えなかった。それが今後は他人の順位も確認できる。競争は間違いなく激化する。そして、場合によっては下位への圧力も強まる。
他の生徒と同じように、俺もすぐに自分の順位を確認した。四クラス、計約百二十人の同学年で、俺は十位だった。
「本校は常に競争を重視してきました」
「今回の変更は、それをさらに促進するためのものです」
理屈としては分かる。だが、報酬もペナルティもなければ、動くのは一部の生徒だけだろう。
元々上を目指している人間だけが反応する。
平均的な生徒にとっては、順位など大した意味を持たない。トップ大学や一流企業を目指していない限り、そこまで執着する理由もないからだ。
「もちろん、動機付けが弱いことは理解しています」
「ですので、報酬も用意されています」
「どういうことですか?」と女子の一人が手を挙げる。
「本校は国内の有力大学と提携しています」
「各学年の上位十名には、いずれかの大学との特別進学契約が与えられます」
少し間を置く。
「学費は本校と大学が負担」
「入試は免除」
「さらに、住居も大学側が提供します」
確かに強い動機だ。
だが、これは上位層向けだ。元々進学を考えている生徒がさらに努力するだけだろう。
ただ、経済的理由で進学を諦めていた層にはチャンスになるかもしれない。
……もっとも。
この学園に通える時点で、その問題はある程度クリアしているはずだが。
「でも、それだけじゃないですよね〜?」
黒瀬が軽く口を挟む。
「その通りです」
「契約の代わりに、金銭を選択することもできます」
「お金……?」
ざわめきが広がる。
「上位十名には、二千万円が支給されます」
「は!?」「二千万!?」
教室が一気に騒がしくなる。
現在のレートで、およそ十二万ドル。人生を変えるには十分な額だ。
「十一位から二十位までは一千万円」
「二十一位から二十五位までは五百万円です」
「すげぇ……!」
空気が一変する。
だが――
重要なのはここからだ。
「次に、下位に対する措置について説明します」
一瞬で静まり返る教室。
「年度末、最下位の十名は退学処分となります」
「……は?」
ざわめきが再び広がる。
当然だ。報酬よりも、罰の方が人を強く動かす。
「十一位から二十位は、大学推薦なし」
「二十一位から二十五位は、義務不履行として罰金が科される可能性があります」
罰金――曖昧だが、額はおそらく五百万前後だろう。
法的にどうかはともかく、退学に関しては現実的だ。入学時に保護者は契約を結んでいる。その中には、成績や義務違反による除籍の項目も含まれていたはずだ。
そして“義務違反”には――
成績も含まれる。




