第一日目。其の二
イザナミ・レイ
昼休みになると、俺はいつものように医療用マスクをつけ、フードを被った。
どうせ目立つのは避けられないが、多少は話しかけてくる人数を減らせるかもしれない。
バッグから食事代替用のゼリーパックを取り出し、クラスメイトたちが一緒に昼食を取ろうと声をかけてくる中、俺はその隙に教室を抜け出した。
すでに人だかりになり始めていた廊下を素早く抜け、階段へと滑り込む。
もう情報は広まっているらしい。どうやら学校中の人間が、俺を一目見ようとしている。
最上階まで上がり、屋上へ出た。
――が、その静けさは長くは続かなかった。
清凛学園の屋上は整備されていた。ベンチに、きちんと設置されたゴミ箱、植木鉢の低木、そして転落防止のフェンス。
とはいえ、クラスメイトの話ではここを利用する生徒はほとんどいないらしい。多くは中庭か食堂を選ぶ。
だからこそ、誰かがいるとは思っていなかった。
ベンチの端に、一人の女子が弁当を広げて座っていた。
ドアの音に気づいたのか、箸を止めてこちらを見る。
……綺麗だ。
整った上品な顔立ち。肩までの短い黒髪が、軽く内側に巻かれている。
「ここで食べる人、他にもいるとは思わなかったわ。それより、その格好は何?」
初対面の会話は、軽い皮肉から始まった。
俺はフードとマスクを外す。
「イザナミ・レイです。二年A組。よろしくお願いします♪」
軽く頭を下げる。
顔を上げると、彼女はもう柔らかな笑みを浮かべていた。春の日差しによく似合う表情だった。
「高森雫。三年A組。生徒会長もやってるわ」
「それじゃあ、よろしくお願いします」
俺はもう一度軽く頭を下げた。
本当は一人で食べるつもりだったが、相手が一人なら問題ない。
「ずいぶん話題になってるみたいね。生徒会でも、あなたを見たがってる人は多いわ」
「ご迷惑をおかけしてます」
「別にいいわ。それで、お昼でしょ?」
俺は頷く。
「じゃあ立ってないで、座りなさい。時間なくなるわよ」
言われなくても座るつもりだったが、一応礼は感じた。
ベンチに近づき、そのまま隣に座る。
その瞬間、彼女はわずかに警戒するような視線を向けてきた。
「……随分と大胆ね」
「え?」
「生徒会長の隣に、何も気にせず座るなんて」
……何かルールでもあるのか?
離れて座る方が失礼かと思っただけなんだが。
「そうでしたか。すみません」
立ち上がり、場所を移ろうとする。
「待って。座ってていいわ」
「……」
「別に気にしてないから」
再び元の場所に座る。
……何がしたいんだ。
「普段、仕事以外で話しかけてきたり、隣に座ってくる人ってあまりいないのよ」
「なるほど」
それ以上考えるのはやめた。
正直、少し分かる気もする。
立場は違えど、本質は似ている。
彼女は立場ゆえに距離を置かれ、俺は知名度ゆえに距離を詰められる。どちらにせよ、人は相手の都合をあまり考えない。
ポケットからゼリーパックを二つ取り出し、一つを置き、もう一つを開けて食べ始める。
だが――
落ち着かない。
高森先輩が、時折こちらをちらりと見てくる。
無視して食べ続ける。
「見てるの、気づいてるでしょ。どうして無視するの?」
パックを下ろし、彼女を見る。
「何かご用ですか、先輩♪」
いつもの笑顔で尋ねる。
彼女の眉がわずかに動いた。
「それ、何?」
「栄養食です。食事の代わりになりますし、必要な栄養も取れます」
別に珍しいことでもない。デビュー前からずっとこうだし、今も変わらない。時間の節約になる。
「でも、それは“食事”じゃないわ。成長期なんだから、ちゃんと食べなさい」
「問題ありません」
「私は問題あると思うけど」
……今度は俺の眉が動いた。
「先輩って、結構面倒な人ですね♪」
笑顔で言う。
彼女も笑い返した。だが、さっきまでの柔らかさはない。
「そう? 私は優しい先輩よ。ただ後輩のことを気にかけてるだけ」
「それ、周りに騙されてますよ。人付き合い見直した方がいいです」
顔を背け、食事を続ける。
「それじゃダメ。はい、ちゃんとしたもの食べて」
そう言って、タコさんウインナーを箸で差し出してきた。
……弁当の見た目は、正直かなり可愛い。
この人の雰囲気とは、妙にアンバランスだった。
「結構です。他人から食べ物はもらわない主義なので」
彼女は眉をひそめた。
「毒でも入ってると思ってるの?」
「いいえ。ただ、必要ないものを押し付けられるのが嫌なだけです」
「いいから食べなさい」
少し声が強くなる。
……正直、少し驚いた。
「では質問です。なぜそこまで?」
「手の届かないアイドルに対する優越感、とでも思ってくれればいいわ」
「……性格悪いですね」
「別に気にしないわ」
「はあ……」
結局、俺は折れた。
差し出されたそれを口にする。
彼女は満足そうに笑った。
「どう? 美味しいでしょ」
「まあ」
「それでいいのよ。学生はちゃんと食べるもの。アイドルでも、生徒会長でも関係ないわ」
……正直、こういうやり取りは嫌いじゃない。
最初は他の連中みたいに寄ってくるタイプかと思ったが、どうやら違うらしい。
ただ、食生活に口出しされるのは少し面倒だ。
次は別の場所にするか。
食べ終え、ポケットから棒付きキャンディを取り出す。包装を外し、口に入れる。
イチゴの甘さが広がる。
両手を後ろについて、軽く体を預ける。
視界いっぱいに広がる、春の空。
透き通るような青。ゆっくり流れる雲。遠くの飛行機雲。柔らかい陽の光。
……最後に、こんなふうに空を見たのはいつだったか。
いつもは練習ばかりだった。何時間もスタジオにこもり、終わればすぐに次の作業。
それ以外は、ただ寝るだけ。
今は違う。
やろうと思っても、できない。
……昼休みにスタジオ使えないか、あとで聞いてみるか。
まだ時間はある。食事は二十分で終わった。残りは三十分ほど。
……何をするか。
「何か忘れてない?」と、先輩が言う。
「何ですか?♪」
「食べた後は、普通お礼を言うものよ」
……やっぱり面倒だ。
母親か何かか。
「ごちそうさまでした、先輩♪」
「うん、よろしい」
満足そうに微笑む。
……もうここにいたくないな。
教室に戻ってクラスメイトの質問を三十分も聞き続ける気にもなれなかった。
まあいい。あの熱気に包まれた人だかりに戻るくらいなら、先輩の嫌味に耐えている方がマシだ。それに、彼女もどうやらここを離れるつもりはなさそうだった。
それとも、ただ珍しいものでも見るように俺を観察しているだけか。
「で、うちの学校はどう?」
「悪くないですね。みんなとてもフレンドリーです♪」
いつもの笑みを浮かべて答えた。
「へえ、それはそれは。てっきりみんなに囲まれて大変そうだと思ってたけど……そんなに問題ないなら、クラスや生徒会で“みんなと仲良くなりたい”って伝えてもいいかしら?」
……この人、なかなか食えない。
「それは少し難しいかもしれませんね♪」
俺はまだ笑みを崩さない。
「何言ってるの。せっかくなんだから、みんなと仲良くしたいでしょ?手伝ってあげるわよ?」
彼女が言い終える前に、屋上のドアが勢いよく開いた。
ここ、もう少し静かな場所だと思ってたんだけどな。どうやら普通に人が来るらしい。
入口に現れたのは、確か——緑川 俊。
いわゆる“バッテリー”タイプのやつだ。半日でクラスの半分を疲れさせるほどのエネルギーの持ち主。
ただ、今の表情はいつものように明るくはなかった。
どちらかというと……戸惑っている。
「えっと……イザナミさんと……高森先輩が……」
「何か用?」と会長が静かに問いかける。
「その……イザナミさんを探してる人たちが……止めようとはしたんですけど……」
「はっきり言いなさい。どいて」
その瞬間、俊を押しのけるようにして三人の男子が屋上に入ってきた。
二人は体格がよく——一人は短髪、もう一人は長髪。残りの一人は背が低く、妙に目立つ鼻をしている。
「君たち、誰?」
「お、おい!同じクラスだろうが!」と短髪の男が苛立ったように叫ぶ。
「ああ……言われてみれば、いましたね♪」
相手が明らかに敵意を向けている中でも、俺はあえて無邪気な態度を崩さない。
「随分と舐めた態度だな。これがアイドルの本性ってやつか?」
「何のことか分かりませんね♪」
「いい加減にしなさい。ここに何をしに来たの?」
会長が鋭く睨むが、男たちは気にする様子もない。俊だけが縮こまり、視線をさまよわせていた。
この様子から見て、会長は学校内で相当な影響力を持っているのだろう。ただし、この連中には効いていない。単に怒りで頭に血が上っているのか、それとも自尊心が高すぎるのか。
「いやいや、高森先輩。用があるのはあんたじゃなくて、この生意気なガキなんで」
「校内での暴力は禁止されているの、忘れてないわよね?」
「心配しないでくださいよ、会長。殴ったりはしません。ただ、ちょっと分からせるだけです」
「何ですって?」
俺はこれ以上やり取りを聞く気はなかった。
立ち上がり、キャンディを口にくわえたまま舌で反対側へ移し、両手をポケットに入れたまま歩み寄る。
「イザナミ……?」と先輩が不安げに声をかける。
「お、自分から来たか。いい子だな。土下座して謝れば見逃してやってもいいぞ?」
「そうそう。その様子、動画に撮ってやるよ。有名人が謝り倒す姿なんて、なかなか見られないしな」
完全に優越感に浸っている。
こういう連中、初めてじゃないな。
……ほんと、くだらない。
俺は半歩ほどの距離まで近づき、短髪の男を見上げる。身長差のせいで少し視線を上げる必要があった。
「おー怖い怖い。その目で殺す気か?あの作り笑いはどうした?」
「イザナミくん、無視して離れなさい」と先輩が緊張した声で言う。
だが、それは却下だ。
ここで引けば、今後も面倒になる。
「上から見られるの、あまり好きじゃないんですよね」
「……何だと?」
言い終わる前に、俺は肩に手をかけて強く押した。
男はバランスを崩し、そのまま地面に倒れ込む。
力の問題じゃない。
ただ、迷いなくやっただけだ。
俺はもう片方の手もポケットから抜き、両手で後頭部を掴む。
右足を軽く引き——一気に踏み込む。
膝が顔面にめり込んだ。
鈍い音とともに、鼻から血が噴き出す。
「っ……!」と先輩が声を漏らす。
男はそのまま崩れ落ち、他の二人も動揺して後ずさる。
俺は何事もなかったかのように姿勢を戻した。
「保健室、行った方がいいんじゃないですか?ちょっと注意力が足りなかったみたいですね。階段で滑ったのかな〜?大変ですね♪」
「くっ……」
さっきまで威勢のよかった連中は、慌てて仲間を抱えて逃げていった。
「はあ……どこにでもいますね、こういう面倒なの♪」
「じゃあ先輩、さっきはごちそうさまでした。俺、そろそろ行きますね♪」
会長はまだ口元に手を当てたまま、目を見開いていた。
余計な質問を避けるため、俺はすぐに教室へ戻ることにした。キャンディの棒をゴミ箱に捨てる。
フードとマスクをつけ直し、階段へ向かう。
その途中、俊の肩に手を置いた。彼はびくっと震える。
「さっき、止めようとしてくれてありがとう。ちゃんと見てました」
これは本心だ。
普通なら、ああいう連中には逆らわない。
それでも動いた。
理由はどうあれ、評価に値する。
手を離し、そのまま教室へ戻る。
背後から、かすかに先輩の声が聞こえた。
「……今の、何だったのよ……?」
……へえ。
あの生徒会長でも、そんな言い方するんだ。
ちょっと面白い。
席に戻ると、案の定また人だかりができた。
仕事のこと、日常のこと、恋人がいるのかまで——質問攻めだ。
だが、それもチャイムのおかげですぐに終わった。
次は英語の授業で、新堂先生が入ってきた。
「階段で転んだ生徒がいてな。今日は保健室で休むことになった」
事故、か。
一瞬だけこちらに向けられた視線。
俺はいつも通り、微笑んだ。
こうして、初日は終わった。
教室を出ようとしたところで、数人の女子に呼び止められた。
「一緒に帰りませんか……?」
だが、その前にギャル風の女子が割って入る。
「ちょっと、無理に誘うのやめなよ〜。今日一日で相当疲れてるでしょ?」
女子たちはしゅんと肩を落とす。
「すみません、イザナミさん……考えてませんでした……」
「大丈夫ですよ。気にしてくれて嬉しいです。今度、一緒に帰りましょうか♪」
「本当ですか!?」
目を輝かせる彼女たち。
「もちろん。それじゃ、失礼しますね♪」




