第一日目。其の一
2026年4月。東京。
いわゆる俺の通う学校は、渋谷から車で二十分ほどの場所にあった。家からなら、さらに近い。歩いても二十五分ほどで着く距離だ。
だが、あまり歩くのは好きじゃない。だから、より楽な方法を選んだ。普通の学生なら、まずあり得ない選択だろうが。
クローゼットを開け、制服を取り出す。
意外にも見た目は悪くなかった。グレーのストライプのズボンに、胸元にエンブレムの付いた白いブレザー。シャツにタートルネック、そしてネクタイ。
もっとひどいものを想像していたが、長く眺める気にはならなかった。
俺の立場もあって、多少の着崩しは許可されている。遠慮なくそれを使う。
タートルネック、シャツ、ネクタイはクローゼットに戻す。
代わりに黒のパーカーと白いTシャツ。派手な色や奇抜なプリントでなければ、問題にはならない。
着替え終え、鏡を見る。
別に珍しい格好ではない。こういう“学生風”のスタイルは、これまでにも何度も使ってきた。MVやステージ、ライブでも。
だが――今回は違う。
「……やっぱり、これはもう“演出”じゃないな」
一瞬だけ視線を止め、小さく笑う。
「……現実か」
二階から降りながら、プロテインバーとジャムトースト、そして好きなキャンディをいくつか手に取る。朝はあまり食欲がない。
家の中はいつも通り静かだった。三階建てのモダンな住宅。黒と白を基調にした外装に、大きなガラス窓。裏庭には整えられたプールもある。
豪邸というほどではないが、一般家庭からすれば十分に非現実的だ。防犯カメラやセキュリティも完備されている。
玄関で一度鏡を見る。革靴の代わりに白いスニーカーを選んだ。そっちの方が楽だし、見た目もいい。
軽くメイクを整え、髪を手で流す。左耳のピアスが一瞬光ったが、外すつもりはない。
一つだけ、少し気になることがあった。
袖の隙間から見える指先に目をやる。
「……まあ、どうにかなるか」
ヤクザじゃあるまいし。ただのスタイルの一部だ。
ドアが静かにロックされる音を背に、ガレージへ向かう。中にはバイクと高級車が置いてある。車はまだ運転できないが、バイクなら問題ない。排気量の制限さえ守ればいい。
少なくともバスやタクシーよりはマシだ。
ヘルメットをかぶり、エンジンをかける。リモコンでゲートを開くと、バイクが低く唸った。
スタンドを上げ、前へと進む。
外では桜が咲いていた。
花びらがゆっくりと舞い、枝から離れては、アスファルトや通行人の肩、車の上に静かに落ちていく。
春の風が頬をかすめ、かすかな甘い香りを運ぶ。
太陽の光が建物のガラスに反射し、通りを柔らかく照らしていた。
俺はハンドルを少し強く握る。
こうして、俺の高校初日が始まる。
✧ ₊ ✦ ₊ ✧
「さっき入口にあったバイク見たか? カワサキだよな?」
「見た見た。しかも新品っぽかったな……あんなの乗ってるやつ、普通じゃないだろ」
男子たちが窓際で話しながら、時折外を覗いていた。春の光が教室に差し込み、窓の向こうでは桜の花びらがゆっくりと舞っている。
「またそんな話してるの?」
軽く笑いながら近づいてきたのは、黒瀬美羽。クラスでは密かに“太陽”と呼ばれている存在だ。
ブリーチされた髪が光を受けて柔らかく輝き、毛先の淡いピーチピンクが腰のあたりまで伸びている。春の景色に溶け込むような、明るくて温かい雰囲気を持っていた。
自然と目を引く存在だった。
そして、一度見たら忘れにくいタイプでもある。
男子の多くが一度は告白を考え、そして全員が断られている。
「く、黒瀬さん……」
男子たちは露骨に動揺した。
「でもさ、気にならない? あのバイクの持ち主」
隣に来た友人が笑いながら言う。
美羽は一瞬だけ考え、窓の外を見る。
「別に……」
少し間を置いて答える。
「それより、なんでここにいるのかの方が気になるかな」
軽く笑ってウインクする。
男子たちは一瞬言葉を失った。
「ほら、そろそろ席つかないと先生に怒られるよ〜」
「お、おう……」
ちょうどその時、教師が教室に入ってきた。四十歳前後で、少し無精ひげがあり、長い茶髪を後ろで束ねている。
「はい、静かに」
手を叩いて注目を集める。
「新堂直人だ。今年は君たちの担任を務める」
教室に軽い拍手が起こる。
ほとんどの生徒はすでに顔見知りだが、それでも新年度特有の空気があった。
新しい配置や、偶然の再会、小さな期待。
誰かと同じクラスになれた者。
新しい友人関係を作れた者。
まだきっかけを待っている者。
「さて、大事な話がある。今年はこのクラスに転校生が来る」
教室がざわついた。
「もしかして海外帰りとか?」
男子の一人が小声で言う。
「ここで運命の出会いして――」
「漫画じゃないんだから」
女子たちも盛り上がる。
「クール系イケメンとかじゃない?」
「最初は冷たいけど、だんだん優しくなるタイプ」
「美羽はどう思う?」
「さあね〜」
彼女は頬杖をつきながら答え、再び窓の外を見る。
桜の花びらがゆっくりと落ちていく。
なぜか、この日が少し特別になる気がした。
「それじゃあ、入ってくれ」
教室が静まる。
ドアが静かに開いた。
廊下の光とともに、一人の男子が姿を見せる。
ゆっくりと中へ入り、視線など気にする様子もなく歩く。
教師の横に立ち、クラスの方へ向き直る。
その瞬間、空気が止まった。
誰かが息を呑み、誰かが姿勢を正し、誰かはただ見つめることしかできない。
窓からの光が彼の髪に落ちる。
舞い散る桜の中で、その姿はどこか現実離れして見えた。
「イザナミ・レイです。16歳です。よろしくお願いします♪」
軽く頭を下げる。
そして顔を上げ、微笑む。
一瞬の静寂。
「え……?」
次の瞬間――
教室は一気にざわめきに包まれた。
✧ ₊ ✦ ₊ ✧
イザナミ・レイ
予想通りだった。
挨拶を終えた瞬間、教室は文字通り爆発した。女子たちの視線が一斉に集まる。大きく見開かれた目、きらめき、驚きと純粋な興奮が入り混じった表情。
もっとも、それだけじゃない。
そのざわめきの中で、別のものも感じ取った。男子たちから向けられる、重くて刺すような視線。
まあ、無理もない。
一年間ずっと想い続けてきた相手がいるとして――そこに、その子にとっての“理想”が現れたらどう思う?
面白いはずがない。
騒ぎが少し落ち着いたところで――教師と、何人かの落ち着いた生徒の助けもあって――担任が口を開いた。
「もう知っている者も多いと思うが、イザナミくんはアイドルだ。気持ちは分かるが、節度を持って行動するように」
視線がゆっくりと教室をなぞる。
不思議なことに、それだけでざわめきは収まり、視線が下がっていった。
「授業中はもちろん、休み時間や校外でも同じだ。クラスメイトとして、余計な問題を起こさないように」
――さて、ここは俺の出番だ。
多少は作っていると思われるだろう。気に入らない連中はさらに顔をしかめるかもしれない。
だが、こういう場面では多数派に乗るのが一番だ。
一歩前に出る。
「大丈夫ですよ、先生。いいクラスみたいですし、問題は起きないと思います。それに、俺もみんなと仲良くなりたいですし♪」
「きゃあ〜!」
あちこちから声が上がる。
誰かが堪えきれず、小さく声を漏らした。
「チッ……」
そして、予想通りの反応も。
担任は一瞬だけ俺を見た。何かを測るような目だった。
だが俺は、何事もないかのように穏やかな笑みを保ち続ける。
「……まあ、いいだろう」
それ以上は触れず、話を切り上げた。
「席は窓際の一番後ろだ」
本気か。
内心で小さく笑う。
まるでアニメだな。あとは前の席にうるさいやつでもいれば完璧だ。
軽く一礼し、席へ向かう。
窓からの光が机に落ち、外では桜の花びらがゆっくりと舞っている。
春の空気が、教室のざわめきと混ざり合って流れ込んでくるようだった。
席に着いても、視線は消えない。むしろ増えた気さえする。
……いつまで続くんだ?
今週いっぱいか。それとも、俺が甘いだけか。
背もたれに体を預け、窓の外へ視線を向ける。
ホームルームが始まった。
✧ ₊ ✦ ₊ ✧
ホームルームが終わり、最初の授業が始まると同時に、レイの席にはクラスメイトが一斉に集まってきた。
当然だろう。
これまでネットやテレビでしか見たことのない存在が、目の前にいるのだから。
質問攻めになるのも無理はない。
中にはスマホを取り出して撮ろうとする者もいたが、それについてはすでに担任から釘が刺されていた。
「写真撮影や無断投稿は禁止だ。プライバシーの侵害にあたる。後で面倒なことになりたくなければな」
やや強い言い方だったが、それくらいでなければ情報の拡散は止められない。
この事実が外に知れたらどうなるか――想像するまでもない。
レイは今後、警備付きで登校する羽目になるだろう。
それは本人としても望んでいないはずだ。
それでも彼は、変わらぬ笑みで質問に応じていた。誰一人不快にさせないように。
「チッ……これじゃ俺たち、もう女と付き合うチャンスねぇじゃん……」
教室の隅から、苛立った声が聞こえる。
「みんなあいつに夢中だろ」
当然、それを見過ごす者はいなかった。
「失礼でしょ!」
「イザナミさんに向かって何その言い方!」
「謝ってよ!」
女子たちが一斉に反応する。
中には、それに乗じて女子にアピールしようとする男子もいた。
だが当の本人たちは気にしていない様子で、なおもレイに鋭い視線を向け続けていた。
それでも――
レイ自身はまったく気にしていなかった。
いつも通りの笑みを崩さず、周囲の雑音を意に介さない。
こうして、午前の時間は過ぎていった。




