第一巻のエピローグ。其の二
俺は数秒のあいだ、黙って橘を見ていた。
驚いたからではない。
むしろ、彼が自分からどこまで踏み込むつもりなのか、それを見極めたかったからだ。
「ここではまずい」
彼は生徒会室の扉からわずかに身を引きながら、そう付け加えた。
「壁にも耳がある」
「あなたは、どうやら随分と含みを持たせるのが好きみたいですね」
「場所と時間を間違えた率直さよりは、安全だ」
彼の警戒は理解できた。
仮に彼がそう言わなかったとしても、俺は同じ提案をしていただろう。なにしろ、こういう話を生徒会室のすぐそばの廊下でするほど、俺も鈍くはない。
俺は短く息を吐き、彼の後に続いた。
俺たちは階段の方へは向かわず、一般生徒がほとんど足を踏み入れない脇の通路へ入った。細い廊下の突き当たりで、橘は表札のない目立たない扉の前で足を止めると、ポケットからプラスチック製のカードを取り出し、ロックにかざした。
カチリ。
「本当に、ここは妙に金がかかってますね」
「ただの資料保管室だ。印象づけたいなら、サーバールームに連れていく」
電子錠自体は、もう珍しいものではない。俺の家の玄関も似たような仕組みで動いている。
だが、校長室だけでなく、学校内のこんな扉にまでそれが付いているとなると、この学院の予算がどういうものかは嫌でも分かる。
「脅しに聞こえますね」
「皮肉だ」
「演出が足りませんよ」
「妙に期待値が高い人間の台詞だな」
俺は小さく笑って、中へ入った。
部屋は狭かった。
金属製の棚。灰色のファイル。壁際に置かれた古いプリンター。モニター付きの細長い机。そして、紙とプラスチックと、埃をかぶった事務用品のような鈍い匂い。
美しい告白にはまるで向かない場所だった。
その代わり、誰も目をぱちぱちさせて「そんなはずない」と言わなくなる類の真実を話すには、これ以上なく向いている。
橘が扉を閉めた。
「さて。話してください」
「妙だな」
彼は言った。
「普通、こういう場面では最初に『あなたがやったんですか』と聞くものだが」
「もう自分で答えを出した質問を、わざわざ口にする趣味はありません」
ほんの一瞬だけ、彼の視線が揺れた。
弱い風に触れた水面ほどの揺れ。
だが、俺にはそれで十分だった。
「つまり、やはり気づいていたわけか」
「ほとんど最初から」
「なら、なぜ黙っていた?」
いい質問だ。
もっとも、俺に必要な写真を、あそこまで都合よく用意できる人間が何人いるのかという話でもある。
特に、あの審議そのものが公には告知されていなかったことを考えれば。
「単純に、俺の“救い主”が自分から現れるかどうか、少し興味があっただけです」
橘はわずかに首を傾けた。
「それで、お前はどの答えを選んだ?」
「あなたです」
彼は否定しなかった。
視線も逸らさない。
勝ち誇ったように笑うこともない。
ただ、その言葉を事実として受け入れただけだった。
いかにも生徒会副会長らしい。
「正解だ」
彼は言った。
「写真を送ったのは俺だ」
小さな部屋の沈黙は、廊下にあったものよりも濃く感じられた。
俺は頷いた。
「なら、俺の勘違いではなかったわけですね」
「何が、お前をその答えに導いた?」
「一つだけではありませんね……」
俺は机の端に腰を預け、暗いままのモニター画面を見た。
「まず一つ目。俺に送られてきたのは、必要な三枚だけじゃなく、写真の一式でした。二つ目。説明めいたヒステリーがなかった。“見ろ、あいつらは最低だ”も、“誰かの評判を守ってくれ”も、“すぐに犯人を指差せ”もない。普通の生徒は、ああいうやり方をしません」
一般的に、十代は衝動的に動く。
それが名門校であろうと、普通の学校であろうと関係ない。頭のいい人間でさえ、感情と利益を適切なタイミングで切り分けられるとは限らない。
「続けろ」
「三つ目」
俺は言葉を続けた。
「送信者の名前はありませんでした。けれど、文脈を復元するには十分な情報があった。これは、一年生の混乱にも、新聞部内部からの単純な流出にも見えない。送った人間は、意識的に情報源を守っていた。その上で、俺に必要になるファイルを正確に理解していた」
橘は黙って聞いていた。
「そして四つ目」
俺は彼へ視線を上げる。
「ファイルは公開記事から取ったものではありませんでした。圧縮で劣化していない。掲載で潰れていない。普通の画像に変換されていない。まだ元データの構造が残っていた。つまり、最終公開前に取り出されたものか、普通の生徒がアクセスできない場所から取り出されたものです」
しばらくのあいだ、彼は黙っていた。
俺の言葉ではなく、俺がそこへ至った順序を確かめているように。
「続けろ」
やがて、彼はそう言った。
「この時点で、候補はかなり絞られました。生徒会側の誰か。システムそのものを壊したいわけではないが、学校の公式ルートが安っぽいすり替えに使われるのを黙って見ている気もない人間。善意をきれいに包装することより、正しい版のファイルを俺に渡すことを優先した人間。高森先輩より、あなたの方がそれらしい」
「なぜ会長ではない?」
「あはは……」
思わず短く笑ってしまった。
「あの人は、そういうことをするには真っ直ぐすぎます」
俺が高森という人間を橘ほど知っているとは言えない。
それでも、あの試験を俺に与えた本人が、その後で自ら解答を投げてくるとは思えなかった。少なくとも、ああいう形では。
橘が、ほんのわずかに笑った。
「褒め言葉としては微妙だな」
「でも、正しいでしょう」
彼は机へ近づき、モニターの電源を入れると、数回の操作でアーカイブカードのフォルダを画面に表示した。
すべてを読む時間はなかった。
だが、重要なものは見えた。
日付。添付ファイルの識別番号。技術的な注記。そして短い管理用の行。
「なら、完全版を話す」
橘は言った。
「途中で口を挟まないよう努力しろ」
「約束はしません」
「努力しろと言っている」
彼はフォルダの一つをクリックした。
「新聞部の公式ページは、外部のSNSではなく、学院ポータル内にある。つまり、公開用にアップロードされた素材は、一定期間、添付ファイルのアーカイブに保存される。全員に開かれた形ではない。管理領域だ。下書き、元コンテナ、ファイル差し替えの履歴、アップロード時刻……そういった情報が残る」
「記事の件が動き出したとき」
彼は続けた。
「俺は最初、介入しなかった。形式上、新聞部は記事を出したという事実だけでは手続き違反をしていなかったからだ。だが、その後、会長の机に異議申し立てが載った。そしてお前は、妙なことに、感情で押し切りに来た人間には見えなかった。だから俺は、そもそもあの記事がどういう経路で組み上げられたのかを確認した」
「そこで十七件の添付を見つけた」
「違う。十七件だと正式に確認したのは、審議の場だ。その前に俺が見たのは、アーカイブ内のパッケージだ。そして、新聞部が素材のごく一部だけを公開したことに気づいた」
彼は俺へ視線を向けた。
「ただの一部ではない。特定の解釈にとって、最も都合のいい一部だ」
俺はわずかに首を傾けた。
「つまり、あなたはその時点で、記事がきれいに作られたものではないと知っていた」
「俺が知っていたのは、記事が選択的に組み上げられていたということだ。それが必ずしも“不正”と同義になるとは限らない」
「慎重な言い方ですね」
「一つの不適切な表現が、その後何年も推薦状の中で生き続けるような場所で働いてみろ」
俺はほとんど笑いかけた。
「分かりました。続きを」
「その後、俺は公開された画像だけでなく、公開前にシステムへ入っていたパッケージも確認した。そこには、編集の元レイヤーがまだ残っているファイルがあった。簡単に言えば――」
彼は指先で机を軽く叩いた。
「それは“別の写真”ではなかった。同じ添付データの流れだ。ただ、それが都合のいいショーケースへ加工される前の状態だった」
「だから、審議でのあなたの言葉が効いたんですね」
俺は静かに言った。
「俺が提示したのは、別の現実じゃない。そこから切り取られたものだった」
「その通りだ」
俺はようやく棒付きキャンディの包みを剥がした。
けれど、口に入れたそれは、妙に甘すぎるように感じた。
「それで、そのパッケージはどうやって俺のところに?」
「校内ストレージの一時リンク経由だ」
「匿名で」
そう考えた瞬間、俺は思わず笑みを漏らした。
今どき、大半のメッセンジャーには自動削除メッセージ機能くらい備わっている。これだけ管理の行き届いた学院ポータルが、普通のアプリより単純だと考える方が不自然だ。
「有効期限は午前零時まで」
橘はそこで初めて、少しだけ俺を注意深く見た。
それから、モニターの電源を落とす。
「一年生の名前は、あえて添付しなかった。ログも渡していない。渡したのはファイルだけだ」
「俺がどう動くか見るために」
「そうだ」
俺はキャンディの棒を、軽く歯で噛んだ。
「それで? 結果には満足しましたか」
「部分的には」
「ずいぶん気前のいい評価ですね」
「俺がそれ以上に温かい褒め言葉を配ると思うな」
相変わらず平坦な口調だった。
けれど今は、ただの壁ではなく、その向こうにある論理くらいは見えていた。
「俺が知りたかったのは」
橘は続けた。
「お前にとって真実が復讐の道具になるのか、それとも修正の道具になるのかだ。もしお前が審議の場で、一年生を公に差し出し、新聞部を潰し、すべてを自分のための舞台に変えるつもりだったなら、俺はそれなりの結論を出していた」
「でも、俺はそうしなかった」
「ああ。お前が叩いたのは記事だ。その組み立て方と、下された処分の論理だった。連鎖の中で最も弱い人間ではない」
一瞬、部屋の中が完全に静まり返った。
それから、俺は尋ねた。
「なぜですか」
「何がだ?」
「どうして、あなたにとってそれが重要だったのか、です」
彼はすぐには答えなかった。
まず、少しだけ考えた。
「俺は、学校の公式な場を、見栄えのいい棍棒として使われるのが嫌いなんだ」
橘は静かに言った。
「ポータルを通じて誰かに評価を貼りつけ、社会的な烙印を押せるなら、その場には相応のルールが必要になる。そうでなければ、システムはすぐに誰かの玩具になる」
それは、正直な答えだった。
「つまり、俺のためではなかったと」
「思い上がるな。第一には、お前のためではない」
「では、第二には?」
橘がわずかに笑った。
「お前のためでもある」
俺は鼻から静かに息を吐いた。
当然だ。
彼の不愉快なところは、まさにそこだった。
穏やかに話しているのに、ほとんどの言葉の中に小さな鋭い針を残してくる。
「会長には、圧力のかかった状況でもシステムを維持できる人間が必要だ」
橘は言った。
「俺には、文脈を渡せば一つ一つの動きを説明しなくても済む人間が必要だった。今日のお前は、もしかするとそれができるかもしれないと示した」
「もしかすると?」
「喜ぶには早い。お前はまだ、極めて扱いづらい人間だ」
「あなたはまだ、人間のことを新しいゲームカードでも選ぶみたいに話しますね」
「職業病だ」
「病気みたいに言いますね」
「この学校で罹患できる病の中では、まだ軽い方だ」
俺は彼を見て、ようやく気づいた。
最初から何が俺を苛立たせていたのか。
橘のような人間は、ほとんどパニックを起こさない。
そして、偶然に間違えることも少ない。
彼らが間違えるのは、自分でリスクを選び――そして負けたときだけだ。
「つまり、これで貸し借りはなしですか」
俺は尋ねた。
「違う」
返答は、あまりにも早かった。
「じゃあ、これは何です」
「確認だ」
「何の?」
「写真を渡したのが誰か、お前が正しく理解していたという確認」
橘は言った。
「そして、それを誰に渡すべきだったのか、俺の判断も間違っていなかったという確認だ」
何か皮肉を返そうとした。
だが結局、俺は小さく笑うだけにした。
「こういう会話、嫌いです」
「違う」
彼は静かに否定した。
「お前が嫌いなのは、会話のあとで、誰かが自分にとって役に立ったと認めざるを得なくなることだ」
それを否定するのは、不快だった。
俺は机から身を離し、扉へ向かった。
「分かりました」
俺は言った。
「では、あなたは自分の大切なシステムを守り、俺を試し、感謝も期待していない。そういうことでいいですね」
「その通りだ」
「結構です」
ドアノブに手をかけた、そのときだった。
彼が言葉を付け加える。
「伊弉波くん」
「まだ何か?」
「次に誰かが、お前に正しい版のファイルを渡したとき」
橘は言った。
「それが必ずしも“助け”だとは思わない方がいい」
俺は振り返った。
彼は電源の落ちたモニターのそばに立っていた。
落ち着いていて、整っていて、なぜか審議の席にいたときよりも、この狭い資料保管室の方が彼には似合っていた。
「それは時として、真実をどう扱うのかを見せろという招待状にすぎない」
その言葉に対して、ようやく俺にも適切な反応が見つかった。
短く頷く。
「なら次は、せめて管理情報の痕跡が残らないリンクを用意してください。試験としては、少し雑すぎます」
彼の唇の端が、ほんのわずかに動いた。
「覚えておく」
俺は廊下へ出た。
外の空気は、アーカイブ室の中より軽く感じた。
だが、自由になったわけではない。
ポケットの中で、スマホがすぐに短く震える。
取り出して画面を見ると、メッセージが届いていた。
[黒瀬]:ていうか、生きてる?
俺は数秒、画面を見つめた。
それから、すぐには返信せずにスマホをポケットへ戻した。
背後で、資料保管室の鍵が静かにカチリと鳴る。
そして、その瞬間になってようやく、今日の夜における一番厄介な事実が、はっきりと理解できた。
審議は終わった。
騒動も、おそらくは終わった。
だが学校は――どうやら、ようやく本気で俺を見始めたらしい。




