カラオケ。其の二
目的地――黒瀬から送られてきた位置情報の場所へ着くまでに、だいたい三十分ほどかかった。
問題だったのは道のりそのものというより、できるだけ人目につかない場所にバイクを停める必要があったことだ。
指定されたカラオケ店は、特別高級感のある場所ではなく、ごく普通の店だった。建物の二階、他の店舗に挟まれた細い通路の奥にある。受付まで上がると、俺は周囲を軽く見回した。
当然ながら、ロッカーの類はない。つまり、このヘルメットは部屋まで持っていくしかなさそうだ。
……潰されないことを祈るしかないな。
「いらっしゃいませ。ご注文でしょうか……?」
受付にいた男性店員が、少し戸惑った様子でそう尋ねてきた。
その反応は、まあ理解できる。マスク姿で、脇にバイク用のヘルメットを抱えた男子高校生が入ってくることなど、そうそうないだろう。普通の店員から見れば、俺は集合に大幅に遅れてきた客か、あるいは店に余計な面倒を持ち込む人間に見えたに違いない。
「いえ、大丈夫です。クラスメイトが先に来ていて、俺が少し遅れただけなので♪」
俺はすぐにスマホを取り出し、黒瀬とのトーク画面を開いた。
[イザナミ]もう着きました、黒瀬さん。どこに行けばいいですか?
[黒瀬]やった! 十番の部屋だよ、ここにいるから :)
[イザナミ]すぐ行きます♪
顔を上げ、俺は店員に十番の部屋まで案内してもらうよう頼んだ。
部屋の前まで案内してもらうと、俺は礼を言って軽く頭を下げた。ついでに、チェリーコーラを一本と、レモン味のラムネも注文しておく。
少なくとも、何かは持って帰れる。おそらく帰宅する頃には、もうフードデリバリーの受付も終わっているだろう。そう考えれば、多少割高でもここで飲み物を買っておいたほうがいい。
別に、どうしても必要というわけではない。
ただ、たまには自分を甘やかしたくなる時もある。
周囲を見てみると、どの部屋の扉も半透明になっていた。もちろんガラスには色が入っているが、中の様子を完全に隠せるほどではない。たぶん、照明の反射を手で遮って少し目を細めれば、部屋の中はほとんど見えるだろう。
おそらく、意図的にそうしているのだと思う。
本来とは違う目的でこういう場所を使う客への、ある種の抑止力。いつ誰かに見られるか分からないと分かっていれば、軽率な行動に出る前に何度か考え直すはずだ。
俺は扉を開け、中へ入った。
室内ではすでに音楽が流れていて、クラスメイトの一人がマイクを握り、かなりの勢いで歌っていた。
ちなみに、その曲は俺も知っている。今、世界的に流行している曲だ。ジャンルはK-POP。歌っているのは有名なアイドルグループで、国は違えど、俺にとっては心から敬意を抱いている先輩たちでもある。
理由は、音楽だけではない。
むしろ、彼らの評判にある。
十年以上も業界にいながら、本当に大きなスキャンダルを一度も起こしていない。アイドルにとって、それは単なる幸運では片づけられない。自己管理、規律、そしてどんな些細なことでも武器に変わる世界で生き残る力の証明だ。
もっとも、俺のクラスメイトの歌唱力は、控えめに言っても原曲には遠く及んでいなかった。
いや。
“控えめに言って”という表現ですら、だいぶ優しいかもしれない。
素人基準で見ても、かなりひどい。
とはいえ、確か彼は運動部の人間だったはずだ。なら、別に不思議でもない。何もかも完璧な人間など存在しないし、あの歌でも本人が気分よく発散できているのなら、否定的に見る理由はなかった。
そもそも、ここはプロのステージではない。
それに、周りを見ても歌の上手い下手を気にしている者はほとんどいなかった。タブレットで次の曲を選ぶ者。話しながら笑っている者。放課後で腹が減っていたのか、フライドポテトに手を伸ばし、飲み物で流し込んでいる者。
騒がしく、まとまりがなく、そしてある意味ではごく普通の空気だった。
だからこそ、今日あった出来事の後では、その普通さが少しだけ奇妙に感じられた。
ちなみに、簡易的なテーブルの上座に座っていた黒瀬さんが、最初に俺の存在に気づいた。彼女はすぐにソファから立ち上がると、クラスメイトたちの間を器用にすり抜け、ほとんど輝くような笑顔でこちらへ駆け寄ってきた。
「来てくれて嬉しいよ、イザナミさん! こっちこっち!」
彼女はまるで、空いている席へ案内するだけのような口調でそう言った。
だが実際には、黒瀬はすぐに俺の腕を抱え、自分でソファのほうへ連れていった。彼女と、何人かの女子が座っている場所へ。
俺を自分たちの間に座らせると、彼女たちはすぐに俺からヘルメットを受け取り、それをテーブルの下へ置いた。
別に渡したかったわけではないが、この状況で断るほうがかえって角が立つ。だから素直に任せることにした。ただし、どこに置いたのかだけはきちんと確認しておく。誰かが足で引っかけたり、落としたりすれば、あまり気分のいいことにはならない。
その頃にはちょうど曲も終わり、俺は再びクラスメイトたちの注目を集めることになった。
この一週間で、彼らも俺の存在にはある程度慣れてきていた。少なくとも、俺が口を開くたびに教室の空気が妙に固まるようなことは、もうなくなっている。とはいえ、学校の外で有名人と一緒に時間を過ごすのは、これが初めてのはずだった。
彼らの視線が俺に集まるのも、当然と言えば当然だ。
「ところで、少し聞きたかったんですが……ここにいるのって、クラス全員じゃないですよね?」
質問というより、確認に近かった。
物理的に考えても、三十人いるクラス全員がカラオケの一室に入れるとは思えない。ここにいるのは、多く見積もっても十五人ほど。つまり、半数は来ていないということになる。
「残念だけど、全員は来られなかったんだよね」隣に座っていた女子が、少し寂しそうな声で言った。「部活の人もいるし、バイトの人もいるし……あとは、絶対に来たくないって人たちも」
俺の理解が正しければ、彼女は黒瀬の親友――花房千花だ。
黒瀬が少女らしい無邪気さと大人びた美しさを併せ持っていて、時折高校生というより女子大生のように見えるのに対し、花房はもっと自然な意味で“女子高生”という印象を与える。とはいえ、黒瀬と同じく、外見にはかなり気を遣っているのが分かった。
彼女の黒髪は内側だけ赤く染められていて、ツインテールにすると、その色が特によく目立っていた。
黒瀬と花房は、うちのクラスの女子の中では、言ってしまえば“スター”のような存在だった。あるいは、もっと正確に言うなら、クラスのマスコット的存在か。
クラスで一番目と二番目の美少女。
もっとも、俺から見れば、容姿だけなら花房が黒瀬に劣っているとは思えなかった。
「その“絶対に来たくない人たち”というのは、特定のクラスメイトのことですか?」
「うん……」
言うまでもなく、それは俺もすでにそれなりに深く関わることになった、例の“ゴリラ”たちのことだろう。ちなみに、彼らの名前はいまだに覚えていない。この一週間、彼らがやけに頻繁に叱られていたにもかかわらず、だ。
普段、記憶力に困ることはない。むしろ、そこに関しては多少なりとも自信がある。
だが、彼らに限ってはなぜか上手くいかなかった。何度名前を聞いても、すぐに頭から抜け落ちてしまう。
もはや、一種の異常現象と言っていい。
「そんなバカたちのことは気にしなくていいよ、イザナミさん」黒瀬が俺を励ますように言った。「あいつらへの当てつけも兼ねて、今日は楽しも!」
「うん、美羽ちゃんの言う通り」
「イザナミさん、歌ってください!」
黒瀬がそう口を挟んだだけで、少し沈みかけていた空気は、すぐに元の明るく気楽なものへと戻った。
俺は改めて、彼女がどれだけ自然にクラスの空気を動かしているのかを認識する。強引でも、押しつけがましくもない。目に見える努力をしているわけでもない。ただ数言話し、笑うだけで、周囲が勝手に彼女の温度に合わせていく。
黒瀬は、このクラスの心臓のような存在なのかもしれない。全体のリズムを決める人間。
もっとも、何人かの男子は時折、あまり面白くなさそうな視線を俺に向けていた。どうやら、黒瀬が俺の近くであまりにも自然に振る舞っているのが気に入らないらしい。だが、彼女の態度を見ている以上、正面から文句を言うこともできない。
彼女はまるで、無言でこう告げているようだった。
“私がこの人と仲良くしているんだから、あなたたちもそうしてね”と。
それを直接的な意味での操作と呼ぶのは違うだろう。黒瀬自身は本当に素直にそうしているだけで、そんな効果が生まれていることにすら気づいていない可能性が高い。だが、結果が消えるわけではない。
一時間ほど一緒に過ごす頃には、男女問わずクラスメイトたちは、ようやく俺の前で完全に肩の力を抜くようになっていた。普通に冗談を言い、質問を投げかけ、こちらの反応を一秒ごとに窺うようなこともなくなっている。
正直に言えば、俺はこういう空気にあまり慣れていない。
アイドルとしては矛盾して聞こえるかもしれないが、俺自身は自分のことを内向的な人間だと思っている。常に人の輪の中にいて、会話を続け、笑顔を作る。それは慣れることのできる仕事ではあっても、必ずしも好きになれるものではない。
それでも今は、少しだけ楽しかった。
「千花ちゃん、歌って歌って!」黒瀬がマイクを差し出しながら言った。
「えへへ……じゃあ、まあ。でも私、そんなに歌上手くないからね。変でも文句言わないでよ?」
自分の技術に自信がない人間は、周囲の期待値を下げるために、あらかじめそう伝えておくのがいい。そうすれば、たとえ結果が多少悪くても、受け止められ方は柔らかくなる。
本当に失敗したとしても、問題はない。最初からそう言っていたのだから。
花房はタブレットで曲を選び、再生した。
最初のメロディが流れた瞬間、俺はすぐにその曲を思い出した。仕事柄、そこに不思議はない。そして同時に、なぜ花房があれほど自信なさそうにしていたのかも理解した。
この曲は、感情の曲だ。
難しさは音程そのものより、感情の乗せ方にある。譜面上は、無理な音域や突出した技術を要求する曲ではない。だが、だからこそ危険だった。ただ正しく歌っただけでは、空っぽに聞こえてしまう。
それは、かつて心から愛し合っていた少年と少女の、苦い別れを歌った曲だった。
音楽業界にも演技にも縁のない普通の高校生が、その曲の美しさを余すことなく表現するのは、ほとんど不可能に近い。ただ歌えばいいわけではない。一行ごとに、自分が何を失っているのかを理解しなければならない。
俺はソファから立ち上がり、花房のほうへ歩み寄った。
歌い出しまで、まだ三十秒ほどある。ひとつ助言をするには十分な時間だった。
「イザナミさん?」
花房が驚いたようにこちらを見る。
「大したことではありません。少しだけアドバイスです」
俺はいつもの笑みを浮かべて答えた。
「ずっと欲しかったものを、ようやく手に入れたところを想像してください。何でも構いません。大事なのは、それがあなたにとって身近なものであることです。バッグでも、スマホでも、アクセサリーでも、他の何かでもいい。……想像できましたか?」
彼女の中でその像が形になるまで、数秒ほどかかった。
「……うん」
「では今度は、その大切なものが消えてしまったところを想像してください。ずっと待っていて、ようやく手に入れて、少しだけ楽しむこともできたものが、跡形もなくなくなってしまう。そして二度と取り戻せない」
「そ、それはひどいよ……!」
「ええ。その感覚を覚えたまま、歌い始めてください」
これは、初心者の間では比較的よく使われる方法だ。感情の色合いが近い状況を頭の中で作り、その状態を演奏や歌唱の前に引き出す。
もちろん、そうした置き換えだけで原曲に込められた感情を完全に表現できるわけではない。特に、歌い手に経験もなく、曲のテーマに近い実感もない場合はなおさらだ。それでも、必要な感情に少しでも近づく助けにはなる。
俳優やアイドルの業界では、外から想像される以上に、こうした手法が使われている。
わざと自分を泣ける状態まで追い込む者もいる。舞台の前に、過去の悔しさを思い出す者もいる。中には、身体の反応を引き出すために痛みを利用する者さえいる。それが常に正しいとは限らないし、安全とも言えない。だが、説得力のためなら、人は思っている以上に遠くまで踏み込む。
もっとも、本物の才能を持つ人間は、そうした補助輪をほとんど必要としないのだろうが。
「千花ちゃんに何言ったの?」
黒瀬が興味ありげに尋ねてきた。
「少しアドバイスをしただけです」
彼女は明らかに興味を引かれた様子で俺を見た。
「へえ。じゃあ、あとで私にもいくつか教えてくれる?~」
「もちろんです」
ある意味では、これはこれで面白くなってきた。
外から見れば、俺がクラスメイトを相手に優越感を満たしているように見えるかもしれない。実際、その要素がまったくないとは言い切れない。だが、俺の助言が彼らの役に立つなら、悪いことではないはずだ。
それに、何の訓練も受けていない人間の歌が、たった一つの助言でどこまで変わるのか、俺自身も少し興味があった。
花房が歌い始めると、クラスメイトたちの視線は自然と彼女に集まった。単に友人の歌を聴きたいというだけではない。俺の助言で何かが変わったのか、それを確かめたいという興味もあったのだろう。
一番の歌い出しは、意外なほど悪くなかった。
声は少し震えていたが、むしろそれが良い方向に働いていた。この手の曲において、完璧な安定感が必ずしも長所になるとは限らない。時には、わずかな揺らぎのほうが、寸分の狂いもない技術よりもずっと説得力を持つ。
だが、本当の山場は最後のサビだった。
その瞬間、それまで半分聞き流していた者たちまで顔を上げた。
感情が、文字通り溢れ出していた。花房は必要な下降と上昇を驚くほど的確に捉え、曲全体の空気を崩さずに歌っている。それどころか、メインのボーカルラインを保ちながら、バックコーラスに近い部分までほとんど同時に拾っていた。
未経験者にとって、それはただ難しいだけではない。
むしろ、少し異様ですらあった。
おそらく、本人も自分が何をしているのか、完全には理解していないのだろう。だが、時にはそれが良い結果を生むこともある。人が「正しく歌おう」とするのをやめ、ただ感覚に従った時、すべての音を意識的に制御するよりも、良い結果に繋がることがある。




