カラオケ。其の一
その日の残り時間は、いつも通りの速度で過ぎていった。
もっとも、新しいランキング制度によって自分たちがどんな立場に置かれたのかを完全に理解している生徒は、まだほとんどいない。だが、それでも大半の生徒はその事実を受け入れ、ある意味では納得しているように見えた。
――いや、正しく言うなら。
まだ全体像を理解できていない、というべきか。
あの制度の問題点を本当の意味で理解するには、それ相応の知識と視野が必要になる。
不透明さ。曖昧さ。
そして何より、そこには強い主観性が介在している可能性が高い。
そもそも学院側が、ランキング算出に関する計算式や詳細な基準を公開するとは思えない。
特に「素行」や「世論」、その他そういった曖昧な要素が関わるのであれば、なおさらだ。
もっとも、その点についてはまだ断定はできない。
高森先輩との会話である程度の推測は立てられたが、確証には程遠い。
……なら、小さな実験でもしてみるか。
とはいえ、今は別件のほうが優先だ。
どうせなら、一石二鳥で済ませよう。
放課後を告げるチャイムが鳴ると、俺は荷物を鞄へまとめ、クラスメイトたちに軽く挨拶をしてから教室を出た。
少し寄りたい場所がある。
授業が終わったばかりだし、たぶん“彼女”はまだそこにいるはずだ。
踵を返し、そのまま歩き出そうとした瞬間――
「イザナミさん!」
後ろから女子の声が飛んできた。
振り返ると、黒瀬だった。
どうやら教室から慌てて飛び出し、俺を追いかけてきたらしい。
……正直、そこまで急ぐ必要はなかったと思うが。
数秒程度で、そんな遠くまで行くわけでもない。
「どうかしましたか、黒瀬さん?♪」
「忘れてないよね? 今日、クラスのみんなでカラオケ行くって話」
責めるようにそう言いながら、黒瀬はわずかに頬を膨らませる。
……まあ、その反応も無理はない。
実際、クラスの予定を完全に忘れていた。
だからだろう。教室を出るとき、何人かが少し残念そうな顔をしていたのは。
普段の俺なら、そんな空気を見落とすことはまずない。
たとえ自分にとって価値の薄いイベントだったとしても、それはクラス全体の交流の一部だ。周囲との関係性に影響する以上、理由もなく無視するのは得策じゃない。
だが、今日は事情が違った。
新しいランキング制度は、さすがに俺の思考まで揺らしていた。
クラブの立ち位置。
総合評価と素行の関連性。
評判が与える影響の可能性。
そして、学院側が意図的に伏せているであろう“裏のルール”。
そんなものを考えていれば、放課後のカラオケ程度、優先順位の最後尾に追いやられても仕方がない。
「分かってます。すみません、完全に頭から抜けてました」
素直に謝ると、黒瀬の表情は一瞬で変わった。
膨れていた頬は元に戻り、代わりにいつもの明るい笑みが浮かぶ。
……なるほど。
本気で怒っていたわけじゃないらしい。
おそらく、拗ねた演技でこちらに罪悪感を与え、望む返答を引き出そうとしていただけだ。
単純だが、実際かなり効果的なやり方ではある。
特に、“感じの良い人間”を演じようとしている相手には。
「じゃあ、お詫びってことで、一緒に来てくれるよね?」
……食えないな。
もっとも、残念ながら今日は既に別の予定が――
「申し訳ないんですが、俺は――」
そこまで口にしかけたところで、ふと考えを止めた。
……いや。
案外、悪くないかもしれない。
放課後のカラオケ。しかもクラス単位。
もし今日の制度変更がクラス全体の空気に影響を与えているなら、そういう場でこそ変化の兆候が見える可能性が高い。
それに、クラスとの繋がりを維持しつつ情報収集もできる。
そう考えると、断る理由のほうが薄かった。
「……やっぱり、行きます」
俺が断ると勘違いしたのか、一瞬だけ曇っていた黒瀬の顔が、途端にぱっと明るくなる。
見事な切り替えだ。
……いや。
正確には、“その場に必要な感情を見せる技術”と言うべきか。
もし誰もがこんなふうに器用に感情を切り替えられたなら、世界はもう少し優しくなっていたのかもしれない。
――いや、違うな。
結局は、それを誰が使うか次第だ。
「やった、イザナミさん! じゃあ早速――」
そこで俺は軽く手を上げ、黒瀬の言葉を遮った。
「その前に、少し寄る場所があるんです。先に行っていてください。店が決まったら、座標だけ送ってもらえれば」
「ん、分かった。あんまり遅くならないでね?」
そう言って、黒瀬は軽く手を振ると教室へ戻っていった。
そして俺は、元々向かうつもりだった場所へ再び歩き出す。
しばらくして、目的の扉の前へ辿り着いた。
その部屋は学院の別棟、二階の端――職員室の近くにあった。
ここを訪れる生徒は、そう多くない。
少なくとも、“なんとなく”来るような場所ではないだろう。
むしろ、自分一人では抱えきれないほど深刻な問題を抱えたとき。
あるいは、学院の中でも特別な立場を求める者だけが足を踏み入れる場所。
だからだろうか。
この辺りの空気は、校内の他の場所とはどこか違っていた。
廊下には静寂が満ちている。
普通の学校の静けさではない。遠くの話し声や足音、扉の開閉音が微かに聞こえるような、そんな日常的な静寂ではなく――
ここには、ほとんど何もなかった。
自分の足音ですら妙に遠慮がちに響き、すぐ空間へ溶けて消えていく。
沈黙を乱しているのは、半開きの窓から吹き込む弱い風の音だけだった。
俺は扉の前で立ち止まり、視線を表札へ向ける。
『生徒会室』
もしこの学院において、どの部活よりも強くランキングへ干渉できる組織が存在するとしたら――
間違いなく、その中心はここだろう。
軽く手を上げ、二度ほどノックする。
「どうぞ」
扉の向こうから、落ち着いた声が返ってきた。
俺はドアノブを回し、静かに扉を開ける。
中へ一歩踏み入れた瞬間、室内にいた生徒たちの視線が一斉にこちらへ向いた。
……だが、それもほんの一瞬。
次の瞬間には、誰もが再び自分の作業へ戻っていた。
それだけで、この場所の性質がよく分かる。
ここでは、俺が有名人かどうかなど大した意味を持たない。
生徒会にとって、そんなものは仕事の手を止める理由にはならないらしい。
この空間は、学院の他の場所とは明らかに違っていた。
軽い好奇心や憧れで動く人間はいない。
誰もが真剣に仕事へ向き合っている。
集中した表情。
綺麗に整理された資料。
共有テーブルに積み上げられた書類の束。
その全てが、この部屋の空気を形作っていた。
そして、その長机の中心には――
おそらく、この空間そのものを作り上げた人物が座っていた。
高森雫。
クラスメイトたちの話によれば、彼女は就任から僅か一年で学院内部に数多くの改革を行ったらしい。
その結果、生徒だけでなく教師陣からの信頼まで勝ち取り、“学院史上最高の生徒会長”とまで噂されている。
頭脳。責任感。狡猾さ。
そして、人を惹きつける魅力。
……外見については、今さら言うまでもない。
多くの生徒にとって、高森雫は学院そのものを象徴する存在だった。
手の届かない頂点。
誰もが一度は隣に立つことを夢見るが、実際にそれを許される人間は限られている。
そして今、この部屋にいる者たちは――
その場所に立つため、他に選択肢などないかのように働いていた。
学院の天才。
そう呼ばれる高森雫は、机の上の書類へ目を通していた。
俺が近づくと、彼女は僅かに視線だけを持ち上げ、静かな目を向けてくる。
「何か用かしら、イザナミくん」
その一言だけで理解した。
俺がここへ来ることは、彼女にとって想定外ではなかったらしい。
……まあ、当然か。
そもそも、ここへ来るよう助言したのは彼女自身だ。
「高森先輩の助言に従おうと思いまして」
「それは光栄ね」
声色には、驚きも興味も感じられない。
それどころか、屋上で二人きりで話していた時とは、口調そのものが明らかに違っていた。
今、目の前にいるのは――
昼休みに会話していた“少女”ではない。
生徒会長だ。
部下たちの視線があるこの空間で、言葉も距離感も完璧に管理している。
この態度の奥に何があるのか、今の俺にはまだ分からない。
傲慢か。
無関心か。
単なる仕事モードか。
……もっとも、今はそんな分析に意味はない。
「生徒会に入りたいんです」
俺は回りくどい前置きを省き、率直に本題を口にした。
すると。
「却下よ」
即答だった。
迷いも間もない。
考える素振りすら見せない、完全な拒絶。
……だが。
もちろん、ここで引き下がるつもりはなかった。
「理由を伺っても?♪」
高森先輩は、先ほどと変わらない静かな視線をこちらへ向けた後、再び書類へ目を落とした。
「あなたが生徒会に入りたい理由は、学院を案じているからじゃない。自分自身を守りたいからでしょう。システムの内側で影響力を手に入れて、それを保険として利用したいだけ」
そこで彼女は再び顔を上げ、わずかに口元を緩める。
「……強欲ね、イザナミくん」
「そんなに珍しいことですか? 人間なんて、多かれ少なかれ皆欲深いものですよ。俺が役割を果たしながら、自分の身も守る。それで誰か困りますか?」
個人単位ではなく、社会全体という構造で考えるなら、実際そこに大した違いはない。
人は、自分の立場で役割さえ果たしている限り、その地位からどんな利益を得ていようと、基本的には気にされない。
むしろ、多くの社会システムはそうやって成立している。
むしろ、多くの社会システムはそうやって成立している。
純粋な利他主義によってではなく、個人の利益と社会的利益が一致することで成り立っている。
問題になるのは、ただ一つ。
その人間が失敗した時だ。
その瞬間、それまで隠されていたものが一気に表へ溢れ出す。
小さな不正。
打算。
私欲。
それらが積み重なり、長い間“清廉潔白”として見せていた白いエプロンを汚していく。
「権力に近づきたいなら、まず証明してみせなさい。自分の問題だけじゃなく、学院の問題も解決できるって」
「証明、ですか」
「ええ。あなた自身の利益じゃなく、“放置すれば学院が腐る”から動いた――そう言える状況を、私に持ってきなさい」
……なるほど。
高森先輩は、俺の“学院への忠誠”を見ているわけか。
もちろん、そんなものは存在しない。
入学して間もないというのに、学院側は早々に面倒な制度を押し付けてきた。そんな場所に忠誠心を抱けと言われても無理がある。
だが、高森先輩自身もそのことは理解しているはずだ。
少なくとも、これまでの会話を踏まえるなら。
つまり、彼女が見たいのは忠誠そのものじゃない。
俺が、自分の利益と学院側の利益を一致させられる人間かどうか。
要するに――
システムへ忠誠を誓う必要はない。
そう見えるように振る舞えばいい。
……もっとも。
彼女の言う“状況”は、案外すぐに現れるかもしれない。
今日起きた出来事が、一瞬脳裏をよぎる。
新しいランキング制度。
クラスの反応。
バッジによる分断。
部員獲得競争へ追い込まれる部活。
そして、“評判”を武器として扱える可能性。
もし学院が、本当に内部崩壊を加速させる仕組みを作ったのなら――
遅かれ早かれ、誰かがそれを利用し始める。
……いや。
もしかすると、既に始まっているのかもしれない。
「分かりました。じゃあ、そのうち先輩の隣に座る椅子でも用意しておいてください♪」
軽く笑いながら、俺は生徒会の長机へ視線を向けた。
「ふふっ」
高森先輩は小さく笑う。
そこに肯定も否定もなかった。
ただ、“どこまで近づかせるか”を既に決めているような、そんな余裕だけが感じられる。
俺は軽く頭を下げ、高森先輩へ別れの挨拶をすると、生徒会室を後にした。
……さて。
後はクラスの連中とカラオケに合流するだけだ。
昇降口へ向かい、自分の下駄箱を開けた瞬間だった。
ロッカー列の向こう側から、微かに何かが当たるような音が聞こえた気がした。
俺は一瞬だけ動きを止める。
放課後の学校では、何かしら物音がするものだ。
軋む音。
閉まる扉。
誰かの足音。
空っぽの廊下に反響する些細なノイズ。
そんなもの一つ一つを気にしていては、逆に自分から余計な問題を呼び込む。
……だが。
今の音は、妙にタイミングが良すぎた。
もっとも、俺は特に反応を示さない。
もし本当に誰かがいたとしても、ここで不自然に警戒すれば、“何かに気づいた”と教えるようなものだ。
逆に偶然だった場合、確認する行為そのものが無駄になる。
俺はそのままヘルメットを取り出し、校舎の外へ出た。
バイクの前まで来て、エンジンをかけようとしたところで、スマホに通知が入る。
画面を開き、Lineを確認すると――
黒瀬から、クラスで決めたカラオケ店の位置情報が送られてきていた。
俺はスマホをポケットへ戻し、ヘルメットを被る。
短い静寂の後――
バイクはゆっくりと前へ走り出した。




