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胸騒ぎ。 其の三

昼休みまでの授業は静かに進んだ。いや、静かすぎた。普段なら休み時間のたびに何人かは話しかけてくるのに、今日は誰一人として席を立とうとしない。


新しい制度の影響は明らかだった。誰もが、さっき聞いた内容を頭の中で整理している。


昼休みになると、俺は教室を出て、いつものように屋上へ向かった。ここ数日、昼はずっとあそこで食べている。生徒会長も来ないし、俺にとってはある意味“安全地帯”だった。気づけば足は自然とそのルートを選んでいた。


だが、階段の手前まで来たところで、不意に一人の少女に行く手を塞がれた。


黒髪の、すらりとした体つきの女子だ。


「イザナミさん!」


「はい?♪」


「まだどのクラブにも入っていませんよね? よかったら、弓道部に入りませんか?」


……来たか。


予想通りだ。


むしろ、ここからが本番と言っていい。


個人スコア八十九。今の俺は、どのクラブにとっても“使える駒”だ。


こんな分かりやすい“当たり”が目の前にいて、放っておくわけがない。


「すみません、どちら様ですか?♪」


「あっ、ごめんなさい、名乗ってませんでしたね」彼女は軽く頭を下げた。「源千晶。三年A組、弓道部の主将です」


俺は小さく頷き、同じように頭を下げる。


「お誘いありがとうございます、先輩。ただ、今のところクラブに入るつもりはありません♪」


軽く一礼し、そのまま通り過ぎようとしたが――


手首を掴まれた。


「本当に? イザナミさんにとっても悪い話じゃないはずよ。私たちがちゃんとサポートするし……それに、アイドルなんでしょ? 身体能力だって高いはず。こんなチャンス、滅多にないわ」


……どうして皆、自分のクラブが中心だと思っているんだ。


この制度に興味がない可能性を、少しも考えないのか。


「申し訳ありませんが、考えは変わりません。失礼します♪」


手を軽く振りほどき、もう一度だけ礼をして、その場を離れた。


これ以上引き止められる前に、さっさと屋上へ向かう。


屋上に出ると、すぐに高森先輩の姿が目に入った。初めて会ったときと同じように、静かに弁当を食べている。


俺が現れても、彼女はわずかに眉を寄せただけで、何も言わずに食事を続けた。


俺も気にせず近づき、隣に腰を下ろす。いつもの栄養パックを取り出し、そのまま食べ始めた。


「相変わらず、それなんだな」


「まあ」


「……はぁ」


小さくため息をついたが、それ以上は何も言わない。


また食事のことで何か言われるかと思ったが――


どうやら今日は違うらしい。


数分ほど沈黙が続いたあと、彼女が口を開いた。


「それで、イザナミくん。プラチナホルダーとして、この制度はどう見る?」


「どうして俺に?」


「ほぼ完璧な成績で、ランキング上位。聞くにはちょうどいいでしょ?」


「正直、あまり興味はありません。ただ……意図は気になりますね。ここまで露骨な仕組みを導入する理由が」


「露骨、ね」


彼女は小さく笑う。


「上を目指させる動機と、下に落ちる恐怖。シンプルだけど、一番効く方法よ」


確かに、間違ってはいない。


だが――


それだけでは済まない。


「高森先輩、“監獄実験”って知ってますか?」


「……ああ、スタンフォードのやつ?」


「役割を与えられた人間が、どう変化するかを調べた実験です」


「最初は普通だったのに、看守役は次第に権力を振りかざし、被験者を支配し始めた」


「結果、実験は中止されるほど悪化した」


「今の状況、似てませんか?」


一度、言葉を区切る。


「プラチナは“看守”、ブロンズは“囚人”」


「立場が、そのまま行動を変える」


彼女は静かに聞いていたが、やがて口を開いた。


「一つ抜けてるわ」


「……何がですか」


「その実験、指揮していた教授自身が“所長役”だったのよ」


「つまり、上からの誘導があった」


「最初から、ある程度の方向性は作られていたってこと」


「もしそれがなければ、結果は違ったかもしれない」


「……」


なるほど。


確かに、そういう見方もある。


だが――


「それでも、本質は変わらないと思います」


俺は静かに言った。


「役割を与えられれば、人はそれに引きずられる」


「そして今回――その“役割”は、すでに与えられている」


「……どういう意味?」


彼女の視線がわずかに鋭くなる。


「バッジ、報酬、罰則。“上”と“下”の可視化」


「それだけで十分なトリガーです」


「しかも相手は学生だ。大人よりずっと不安定だし、影響も受けやすい」


「月曜日の件を思い出してください。俺は何もしていない段階で、すでに絡まれた」


「……」


「この制度は、コンプレックスを刺激する」


「劣等感を持つ者はさらに沈み、優越感を持つ者はそれを正当化する」


「それがどう転ぶかは――時間の問題です」


しばらくの沈黙。


そして彼女は、ふっと息を吐いた。


「でも、それでもいいんじゃない?」


「……え?」


「順位は変わる。固定じゃない」


「今日下でも、明日は上かもしれない」


「だったら――下にいる人間なんて、気にする必要ある?」


俺は、わずかに目を細めた。


今の言葉は、少し意外だった。


ここまでは、理性的でバランスの取れた人物だと思っていたが――


今のは、少し違う。


「どういう意味ですか、先輩?」


「誤解しないでほしいわ。成績そのものの話じゃない。総合評価のことよ。下にいる人間は、学力から人格、性格に至るまで、すべての面で評価が低いということになる」


「つまり、低評価の人間は社会に必要ない、と?」


「言い方は少し極端だけど……概ねそういうことね。そういう人たちは問題ばかり起こす。能力も低いし、何より精神的に弱い。すぐに喧嘩やトラブルを起こしたり、周りを巻き込んだりする人間を、わざわざ抱えておく理由がある?」


彼女はわずかに首を傾けた。


「あなたにとっては、むしろ都合のいい制度じゃない? アイドルなんだし」


彼女の言葉は筋が通っていた。この制度は、使い方次第では有利にも不利にも働く。


だが――


まだ一つ、見落とされている要素がある。


「一理ありますね、先輩。でも、一つ忘れていませんか」


「……何かしら?」


俺は空になったパックをゴミ箱に捨て、ゆっくりとキャンディの包みを開いた。


「このシステムは、単なる比較のためのものじゃない」


包みを外す。


「競争相手を排除する手段にもなる」


視界の端で、彼女の口元がわずかに緩んだ。


……やはり、気づいていたか。


「いい視点ね、イザナミくん。だからこそ、私はあなたに早めにクラブへ入ることを勧めているの」


「保険、というわけですか」


「ええ。クラブにとっては、自分たちの評価が最優先事項。所属している以上、あなたの評価を守る方向に動くわ」


理にかなっている。


だが――


それでも、加入する気にはならない。


「ところで、もう一つ聞いてもいいですか、先輩」


「いいわよ」


「個人スコアの算出方法について、先生はほとんど触れませんでした。触れたとしても、詳細は伏せられていた」


「……それで?」


「世間の評価――いわゆる評判のようなものは、影響するんですか?」


彼女はくすっと笑った。


「ふふ……どうかしらね、イザナミくん♪」


その声音は、どこか柔らかく、そして少しだけからかうようだった。


明確な答えは返ってこなかったが――


それで十分だった。


「そろそろ時間ね。私は戻るわ。じゃあね、イザナミくん。頑張って」


「お気遣いなく」


軽く別れを交わし、彼女は屋上を後にした。再び、ここには俺一人だけが残る。


スマホを取り出し、連絡先を開く。


目当ての名前を見つけ、迷わず通話ボタンを押した。


呼び出し音。


すぐに繋がる。


「イザナミくん? どうしたの?」


「サイオンジさん。これはどういうつもりですか」


「ごめんなさい、今ちょっと立て込んでいて――」


「答えになっていません。話せるかどうかではなく、“なぜ”を聞いているんです」


「……」


「こんな条件、事前に聞いていません。ただ卒業するだけの話だったはずです。なぜこんなランキング制度を導入したんですか」


「それが会社の仕業だと、どうして言い切れるの?」


「話を逸らさないでください。休み時間にスポンサー一覧を確認しました。御社が筆頭に入っている。以前には存在しなかった制度が、俺の入学と同時に導入された。偶然にしては出来すぎています」


「……」


「明確な説明を求めます」


返答はなかった。


だが、俺は急かさず、その沈黙を待った。


「ねえ、イザナミくん。少し聞いてもいいかしら……自分をもっと出そうと思ったことはない?」


「どういう意味ですか」


「事務所でも分かっているわ。あなたはただの才能あるミュージシャンじゃない。あなたの才能は、それだけに収まるものじゃないでしょう?」


「……」


「音楽に関しては、間違いなく天才よ。でも……もっと“繊細な部分”になると、あなたはずっと巧妙になる。だからこそグループの中心に立てたんでしょう? 声や見た目だけが理由じゃない」


「……何をさせたいんですか?」


「年度末までに、両方のランキングで一位を取りなさい。そして――そうすれば、あなたを学校から連れ出すわ」


「できなかった場合は?」


「そのまま在籍。予定通り、二年間通い続けるだけよ」


「それだけですか?」俺は軽く笑った。「元々、その二年間は受け入れていました。失うものは何もない。得られるものとしては……微妙ですね」


俺は柵の方へ歩き、そこにもたれかかった。風が吹きつけ、髪を揺らして顔にかかる。


「……あら、交渉するつもり?」彼女の声にわずかな興味が混じる。「いいわ。何が望み?」


「条件を達成した場合、ECLIPSEを本体から切り離してください。それと、俺の契約を一年早く終了すること」


「グループを独立させたいのね……」彼女は少し考え込んだ。「面白いわ。それは交渉可能。ただし、親会社はそのまま維持する形になるけど」


「構いません」


「もう一つの条件は……」彼女はわずかに言葉を詰まらせた。「会長がいい顔をしないでしょうね。ちょうど今、会議中なの。確認するわ」


「……」


当然だ。


こんな“資産”を一年早く手放すことは、莫大な損失になる。普通の経営者なら絶対に認めない。


だが――


認める。


「イザナミくん、おめでとう。会長が了承したわ」


予想通りだ。


「では、これで話は終わりですね」


「サイオンジさん」


「ん? まだ何かある?」


「スピーカーにしてください」


「どうして?……まあいいわ。今、切り替えた」


俺は一瞬だけ目を閉じた。


「もし約束が守られなければ――会長も、取締役会も……」


声をわずかに落とす。


「あなたたちを、会社ごと潰します」


「……」


「忘れないでください。俺の才能は、舞台の上だけに限らないと――あなた自身が言ったはずです」


通話を切った。


両方のランキングで一位。


俺にはすでにアドバンテージがある――アイドルとしてのキャリアだ。だが、それだけでは足りない。先生が言っていた通り、一位を取るにはクラブが必要だ。俺をカバーできる存在が。


だが、どのクラブに入るつもりもない。


サイオンジさんは重要な点を口にしていた。必要なのは、常に一位でいることではなく、年度末に一位であることだ。ならば、終盤に入ればいい。それまでは上位を維持しておけばいい。


クラブ活動は最初から選択肢から外す。変数が多すぎる。


とはいえ、先生は“クラブ”と言ったが、この学園にはそれ以外にも、同じシステムに組み込まれている組織が存在する。


そして、その一つは――誰の目にも見えている。


それなのに、なぜか誰もそこに目を向けていない。


俺は余計な思考を振り払い、教室へ戻った。


放課後――どうしても立ち寄るべき場所がある。


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