第三十二話
夜はあっという間に過ぎ去って朝が来た。
アリアはと言うと、あの後、グリモアを抱きしめながら倒れるように眠ってしまっていた。
ざらついたものが顔をくすぐる感覚に目を開くと、グリモアと目が合う。
黒猫は小さく鳴いて、アリアの目の前に行儀良く座りなおした。
「おはよう、グリモア」
グリモアに声を掛けるとアリアは起き上がる。
そこで、外がいつもより明るいことに気が付いた。
「あっ…」
青ざめたアリアは慌てて倉庫から飛び出すと、目に飛び込んできたのは庭には干された洗濯物。
どうやら、すでにナタリアが家事を終えたようだった。
(どうしよう…)
怒られることを覚悟したアリアがそっと家の扉を開ける。
そこにはナタリアやカイルの姿はあるがロブの姿は見えない。
「おはよう、アリア」
2人はアリアに気がつくと、口々に声を掛けてくれた。
アリアは頷いて返す。
そしてナタリアの顔を見るがどうやら怒っている様子はない。
それどころか昨日は疲れてたんだね、と心配されてしまった。
アリアは感謝の気持ちを込めて、頭を深く下げるとナタリアは慌てたように気にすることはないよ、と続けた。
「さて、ロブはまだ起きてこないだろうし、早く朝ごはんを食べてしまいな」
そう言って、空席の一つに食器を置いた。
テーブルには丸いパンとリリィの実で作られた真っ赤な色のジャムが並んでいた。
(食べていいのかな…)
アリアはその席に座ると、ナタリアがパンを一切れ手に取って、ジャムを塗ってくれた。
「ほら、食べな、アリア」
食器の上に載せられたパンを見つめるアリア。
食べた後に怒られないか心配になって、手を出せずにいた。
しかし空腹には耐えられず、お腹が小さく鳴った。
2人には聞こえていなかったようだが、顔を真っ赤にしたアリア。
意を決して目の前のパンに手を伸ばして持ち上げる。
たっぷり塗られたジャムで、ずっしりとしたパンに再びお腹を鳴らすと口に運ぶ。
ジャムの甘酸っぱさとパンの香りが口いっぱいに広がっていく。
いつもはパンだけで、ジャムなど口にすることはなかったアリアは夢中になって次に次にと、かぶりついていった。
「そんなに慌てると喉に詰まらせるよ」
ナタリアの言葉が届く頃には、アリアの喉にパンがつっかえていた。
「全く、この子は…」
ナタリアはやれやれ、と言った面持ちで水の入ったコップをアリアに差し出す。
それを掴んだアリアは一気に水を飲み干す。
喉に流れ込んだ水がパンを胃に押し流していくとアリアは深く息を吐いた。
ナタリアに礼をすると、アリアはまたパンを頬張っていった。
カイルはそんな2人のやり取りを思わず口元を緩めた。
だが同時に、昨夜見た倉庫の光景が脳裏を過っていた。
アリアがパンを食べ終えて、しばらくするとロブが寝室から出てきた。
「…おぉ、遅くなっちまったみたいだなぁ」
テーブルを見て、一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに表情を戻して照れるように笑うロブ。
カイルに挨拶をして席に座るとパンを掴んで食べ始めた。
「カイルさんは今日街に戻るのかい?」
無言でロブの前にコップを置いたナタリアはカイルにたずねた。
「あぁ、昨日話した通り、もう少ししたら行くことにするよ」
アリアの知らないところでそのような話が行われていたらしい。
「良かったら、また顔を出すよ。次は皆にお土産を持って」
数分後、ロブが食事を食べ終えるのを見計らって、カイルは立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ…」
ナタリアは見送るために席を立とうしたところ、手で制される。
ロブやナタリアは口々に別れを告げた。
「それじゃあ…あ、ロイドにもよろしく」
カイルもそれに応えた後、最後にアリアの頭にそっと手を置く。
アリアは思わずカイルの顔を見ると男は優しく笑い、すぐに手は離した。
そして自身の装備を担ぐと、そのまま街に帰って行った。
カイルが去った後も、アリアはしばらく触れられた場所に手を当てていた。
―――――――――――――
「……行ったか」
カイルが残した静寂を切り裂くようにロブがぽつりと溢す。
「アリア、ぼけっとしてねぇでさっさと食器を片付けろ」
呆けていたアリアに対して、ロブが自分の食器を指差す。
ハッとして立ち上がるとテーブルに並んだ食器に手を伸ばして重ねていく。
「言われねぇでも自分で動けよ」
続く言葉にアリアとしては何度も頭を下げて怒りが去るのを待つしかなかった。
「まぁまぁ、ロブ…アリアもこうやって頭を下げてるんだから許しておやりよ」
ナタリアからの言葉にロブは何かを考え込むと、もう一度、アリアを見て舌打ちする。
しかし、もうそれ以上声を掛けてくることはなかった。
アリアはまた怒りを買わないようにすぐに片付けを進めるのだった。
そしてまた、アリアの日常はいつも通りに戻って行った。
次の日も朝早くに起きて、家事をして、夜になってグリモアと過ごす。
それは次の次の日も、変わることなく続いていった。
そんな毎日の中で、不意にあの日のことを思い出した。
一緒に行かないかと誘ってくれた冒険者のことを。
だが、その記憶も次第に薄れていった。
季節だけが少しずつ移り変わっていく。




