第十七話
「……ぁ……」
アリアの唇が、かすかに動いた。
ハッとして慌てて口を抑える。
1秒。2秒。
時間の経過が長く感じる。
けれど、どれだけ待っても何も起きなかった。
何かが壊れたり、誰かが傷付いた気配もない。
体に触れる感触。
我に帰って恐る恐る視線を戻すと、目の前の黒猫は変わらず体を擦り付けてきていた。
その事実に、遅れて安堵が滲む。
(……よかった)
黒猫の体温で胸の奥の何かが、ほんの僅かに溶けていく気がした。
「みゃあ」
黒猫がアリアを見て鳴いた。
そしてそれに応えるようにアリアはもう一度、声を紡ごうとする。
黒猫を見ながら、もう一度。
今度は、確かめるように。
「……あぁ……」
誰にも届かないはずのその言葉が、胸の奥でかすかに形になった。
(……だいじょうぶ)
黒猫を見つめたまま、アリアの呼吸がわずかに乱れて唇が震える。
次の瞬間、ぽたりと雫が落ちた。
自分が泣いていることに、アリアは気付いていなかった。
やがて視界がぼやけて頬を濡らすものに気付いたが、それでも止め方が分からなかった。
声は出ないまま、涙だけが零れていく。
「みゃぁ……」
黒猫が小さく鳴いて、そっと体を寄せる。
逃げることもせず、離れることもなく。
その温もりに包まれるように、アリアは膝を抱えた。
―――――――――――――
どれくらいそうしていたのか分からなかった。
気付けば、空はさらに暗くなっていた。
(……帰らないと)
その考えだけが、ゆっくりと浮かび上がる。
アリアは顔を上げた。
傍に目をやると黒猫がアリアの側で丸まって寝息を立てている。
アリアは起こさないように頬を濡らす涙の跡を拭うと痛みを覚悟して足に体重をかけてみた。
不思議と足首の痛みが引いている。
(これなら、帰れるかな…)
アリアの動きを察知して、黒猫がこちらを見て短く鳴いた。
「ぁ……ごめ…」
起こしてしまったことに咄嗟に出そうになる謝罪の言葉。
そんなアリアの様子を見つめて、黒猫は首を傾げている。
黒猫と目が合う。
少しだけ迷ってから、口を開いた。
「……ありが、と……」
掠れた声だった。
それでも、確かに音になっていた。
黒猫がアリアに頭を寄せて鳴いた。
小さい頭を撫でるとごろんと転がる。
その仕草に更に撫でてあげたくなるが、思いを断ち切るように手を離す。
「…あ、あの……わたし…か、帰るね…」
そう言って立ち上がるアリアはリュックを背負う。
(家には連れて行けないから…)
アリアに寄り添って、安心を与えてくれた黒猫との別れに対して罪悪感と一抹の寂寥感を感じた。
心の内を隠すために、わざと視線から黒猫を外したまま、落ちる前に見た煙突の煙の方を確認して雪に足を出す。
ザクっと雪を踏み締める音が暗くなってきた森に響く。
「みゃぁ」
黒猫の鳴き声に足を止めて後ろを振り返ってしまったアリア。
黒猫は先程の場所に留まっていたが、アリアが振り向いたことで、再び黒猫は鳴いた。
猫の言葉をアリアは知らない。
しかし、何故だかついてこようとしているのが分かった。
それでも、アリアは小さく首を振った。
「……だめ……」
その一言は、自分に言い聞かせるようだった。
心が揺れるが、肯定するわけにはいかない。
自分の境遇から猫を飼うなんて出来るわけがない。
ナタリアやロイドならまだしも、万が一にも黒猫がロブに見つかったら――。
その先を想像して、アリアは目を伏せた。
「……ぉ、おねがい…あっちに、行って…?」
アリアは黒猫に向けて雪をかけるように少し蹴る。
黒猫は少し驚いたように雪を避けて鳴いたが諦めた様子はない。
一度は心を許した存在を拒絶する行為にアリアの心が軋む。
(でも……)
連れて行けない理由が勝つ。
もう一度、黒猫の方へ雪を払うように蹴った。
立ち止まりそうになる足を無視して歩くアリア。
黒猫が着いてきているかは、わからない。
でも、確かめることはしなかった。
ただ止まってしまったら。
黒猫の姿を見てしまったら、きっと連れて行ってしまう。
それは、良くない結果になってしまう。
涙が滲む目尻を拭いながら、アリアは前だけを見て歩いた。
振り返らないと決めたまま。




