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第十五話

 黒猫は混乱していた。


 真夜中に何かに襲われたのだ。

 鋭いもので傷を負わされてしまった黒猫は必死で森の中を逃げ回った。

 枝の上に登ったことでやっとやり過ごすことに成功したのだった。


 枝の上で傷つけられた右足を見ると幸いなことにそこまで傷は深くはないみたいだった。

 必死だったとは言え、自分の体の何倍もの高さまで登れたのだ。

 黒猫は舌で傷口を舐めた。

 

 それでもまだ黒猫は混乱していた。

 襲われたショックからなのかそれ以前のことがまるで存在していないかのように空白で思い出せなかったからだ。


「みゃあ…」


 深く考えてもわからなかった。

 それに今はそんなことはどうでも良かった。

 枝の上で体を縮めて考えていた。

 

 襲ってきた何か。

 脳裏に強く残っていたのは赤く揺れるもの。

 あれが何かを知る術は黒猫の知識の中にはなかった。

 

 そうやって考えながらも耳を立てて周囲を探る。

 雪のせいなのか世界の音が消えているように静かだったらが、あの赤く揺れるものも見当たらない。


 黒猫は警戒を続けながらも枝の上で闇に身を潜めて体を休めることにした。

 この場所には美味しそうな匂いの食べ物もあるのだから休むにはうってつけだろう。


 ふわふわとした意識の中で目を閉じた黒猫。

 そして夜が明けていった。

 日が登っても周囲は変わることなく静かなままだった。

 だから安堵した黒猫は気を抜いていたのだ。


 緊張による疲労で雪を踏む音を聞き逃していた。


 突然、甘い果実とは違う匂いが混じった。

 途切れていた意識のピントを急速に合わせた黒猫は目をこじ開けた。


―――――――――――――


 黒猫は混乱していた。


 違う匂いに目を開けると目の前に果実に伸ばされた人間の手があったから。

 慌てた黒猫は枝の上で立ち上がると目前の手を爪で叩いてその反動で距離を取った。

 

「っ!」


 小さく漏れる声。

 突然の痛みに爪が深く刺さることはなく手は引かれた。

 飛び退いた黒猫は体を膨らませて声の主を睨みつける。


 そこにいたのは人間。

 か細く、みすぼらしい格好をした少女だった。


 少女と黒猫の視線が交差する。

 正確には目は隠れていたため見ているかはわからなかったが、黒猫には自身が見られていると何故か理解できた。

 

 傷つけられたにも関わらず逃げることはなく黒猫を見る少女。

 その少女を精一杯、威嚇する黒猫。


 この少女は自分が怖くないのだろうか?

 自分に何をするつもりなのだろう?

 頭の中をぐるぐると回る思考。


 しかし、いつまで経っても少女が黒猫を害することはなかった。

 やがて黒猫は危険はないと思った。

 自分と、この少女はどこか似ていると思った。

 だから黒猫は威嚇することをやめて、ただアリアを見つめた。


―――――――――――――


 アリアは動かなかった。


 逃げる様子も、襲いかかってくる様子もない黒猫を前にして何とも思わなかった。


 ただ見ていた。

 先程まで虚勢を張るように威嚇して小さな体を震わせていた黒い猫のことを。


(……)


 右の前足に怪我をしているように見えるが、アリアが手を差し伸べることはなかった。

 むしろ、黒猫から視線を外して近くの果実に手を伸ばした。


 黒猫はアリアの行動にビクッと体を動かしたが、それ以上の反応はしなかった。

 アリアも黒猫を意識の外に置いて次々と果実をもぎ取ってはリュックに入れていく。


 程なくしてアリアは果実を詰め終えた。

 一仕事終えたアリアは木筒を外して中身を飲む。

 そして木筒を戻すとリュックを持ち上げた。

 果実の詰まったリュックはやはりアリアには重すぎた。

 背負った結果、重さに負けてふらついてしまった。

 

 しかしふらつきながらもゆっくり確実に帰路に着こうとするアリア。

 雪を踏んだ足が行き道よりも深く沈み込んで余計に足を取られた。


 雪に刺さった足が抜けずにバランスを崩して尻餅をついたアリア。

 すぐに立ち上がらずに座ったまま木々の隙間から空を見上げる。

 日が傾き始めているので早く戻らなければと考えていた。

 このペースでは家に帰る頃には日が暮れるかも知れない。

 アリアは立ち上がって再び歩き出した。


 その時、不意に何かに引き留められた気がして振り返る。

 しかし何があるわけでもなく、ただの気のせいだと思った。

 瞬きをすると前に向き直って一歩踏み出した。


 そしてまた、引き留められる。

 もう一度だけ、と振り返ると枝の上の黒猫と目が合った。


「みゃ」


 黒猫が声を押し殺すように短く鳴いた。

 その姿にアリアは何故か、自分とその黒猫はどこか似ていると思った。


 けれど、それだけだった。

 アリアは手を差し伸べることもなく、そのまま黒猫に背を向ける。


 少女が雪を踏む音だけが静かに響く。

 黒猫はふらつきながらゆっくりと遠ざかっていく少女の背中を見つめていた。


 逃げていくわけでもない。

 襲ってくるわけでもない。


 ただ自分と同じようにそこにあった少女。


 その少女の姿が消えてしまう。

 黒猫の胸の奥が、わずかにざわついた。


 理由はわからない。

 だけどそれを逃してはいけない気がした。


 黒猫はほんの少しだけ迷ってから枝から降りた。

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