月明かりと大牙狼
脚力を付与し、管理隊から一気に距離をとった俺は、薄い霧が漂うソロリの街を散策し始めた。その街並みは、国府とはまた違う独特の重厚感を漂わせている。
年月が刻まれた古い石造りの建物や打ち捨てられた廃屋。そのすぐ隣には、神話の獣である不死鳥を象った真新しい彫像やレリーフが掲げられた商店が並ぶ。
道沿いに規則正しく立ち並ぶのは、優美な曲線を描く鋳鉄製の街灯。
笠の奥で小さな放電音を立てる琥珀色の灯りが、漆黒に染まりかけた石畳をほの暗く照らし出していた。
古めかしい瓦礫や煉瓦と、発展途上の無骨な技術が同居する街。
寒々しい冬の街路樹によって分けられた歩道と車道には、深夜にもかかわらず大勢の人々が行き交い、重いモーター音を響かせる電機車が数台、ゆっくりと通り過ぎていく。
商品の良さを謳った商店の看板には、ゴルを通貨とした取引価格が大きく記され、俺はその安価さを心の底から驚いていた。
ここで生まれ育ったのなら、国府では貧困に喘いだ俺でも、少しはマシな暮らしができていたのかもしれない。
そんなことを考えながら物見遊山ようにフラフラと歩く俺とすれ違った人々の多くが足を止めて振り返っている。
旅行者が珍しいのか、それとも、雪が降りそうな気温のなか、真夏の服装を信じられない思いで見ているのか。
ひそひそと話す者たちもいるが、俺は気に留めずに散策を楽しんでいた。
1時間ほど街を練り歩いたが、宿は全く見あたらなかった。本当に宿が無いのだとしても、これだけ栄えていれば宿に近しい形のサービスを提供する店くらいはあるはずなのに。
耐冷のおかげで寒くはないが、学舎寮の頃のような、柔らかなベッドで寝たい。
切実な希望だったが、時間が経つに連れて歩く速度が遅くなり、俺はやがてぼうっと立ち止まった。
力の抜けた顔で肩を深く落とし、長いため息をひとつ。
「……野宿、ですね」
***
10分後、俺は10メートル近い高さの防壁を前に背面歩きをしていた。
鼻腔へ微かに届く木々と土の匂いから、この防護壁の向こうには森か林のようなものがあると推測しながら。
壁から10歩ほどの位置で止まり、脚力を付与。正面へ踏みきって跳躍、壁上部の通路にいちど足をつき、向こう側に着地。
目の前には常葉樹の森が広がった。
欠伸を繰り返しながら、背を預ける太い樹を探し出し、体を幹に預けた。
戦闘用に強靭加工を施された背嚢を置き、チャックを開ける。
国府から支給された服のスペア、キャップに濾過鉱石つきの金属筒に入った飲み水、大量の薫製肉、豊富な種類の木の実。
数少ないマッチと小型の携帯灯火、石けんと、エチケット用にと強く要望して用意させた、石けんの香水。
取り出した燻製肉と水を腹に入れ、俺は膝を抱えて目を閉じた。
街と腐葉土、うっすらと水の匂いが混ざった夜風が俺の浅黒い肌を撫でていく。
雲が夜風に流れると、顔を見せた満月が辺りを金色に染めていった。
その眩しさに月を睨む俺の額に、生温かい液体が。
「……ん?」
頭を後ろに反らした俺を見下ろす蛍光色の瞳、耳元まで開いた口元からだらしなく垂れる紫色の舌と、鼻が曲がりそうな腐臭を放つ唾液。
一目で肉食とわかる鋭い牙は、奥深い口の奥から響く低い唸り声を受けてわずかに震えているように見えた。
太い枝から顔と両の前足を出しているのは、人間の子供なら容易く丸飲みできそうな獣、大牙狼。
「……こんばんは」
頭を反らしたまま呑気に挨拶をした俺の頭部と牙の距離が、身を乗り出した大牙狼の一噛みでゼロに。
琥珀の光、鋭利な牙が俺の額と後頭部に触れたが、肉には食い込まない。
剛性の付与が間に合っていた。
硬さに驚いたのか、大牙狼は頭を引く。機を逃さず腕力を付与した俺に上顎を掴まれ、大牙狼は地面に叩きつけられた。
血を吐き、足を震わせながら立ち上がる大牙狼の長い鼻骨を、俺の拳が粉砕。
昏倒した大牙狼の首を両腕で挟み、捻って首の骨を折る。
命を失った大牙狼を後目に、額に付着した大牙狼の唾液を胸元の蛍石で拭きとりつつ、幹の裏側へ歩いていく。
「ちょうどいいの、あるかねー」
尖った石に目を留めて拾い上げる。大牙狼の脇に戻り、戦闘で散らばった枝を足元に集める。
俺が同時付与できる強念は、3つまで。一般的な強念士の限界をひとつ上回り、大きな強みになっている。
耐熱、腕力、石には鋭利を付与。大牙狼の解体を終え、石に摩擦を付与。
背後に積まれた枝へ向き直り、石を蛍石に打ちつけ、即座に枝の中へ投げ入れる。
枝から白い煙が立ち上り、やがて炎へと成長。右手で掴んだまま肉塊を焼き、いい塩梅で肉にかじりつくと、生臭い肉汁が広がった。
国府の蔵書館で読んだとおり、大牙狼の肉は繊維質で硬く、決して美味いとは言えない。
食事を終え、俺は味に不満を抱えつつも、耐冷と清潔を付与。歯に残る不快感が消えていく。
改めて大樹に身を預け、この先10ヶ月も続くであろう、世界各地の県を巡る自分の旅に思い、憂鬱な気持ちで深く長いため息を吐く。
蔵書館に納められている、存在の把握ができている県たち。
全県民が2つの巨大な“宿”で暮らす県、抽象的で意味がわからなかったが、県の総力を上げて“指輪”を育てている県。
2500メートルの高さをもつ、巨大という言葉では表現しきれない一枚岩の上に居を構えた県や、大船団を組んで世界の海を旅する県。
ところで、移動する県なんて、県と言えるのだろうか?
気が触れているとしか思えないが、獣の中でも危険度が飛び抜けて高い、災厄級の等級を持つ、単眼竜が住む沼のほとりに居を構えた県もあった。
先々代の国府長が発令した、自由県立制度がなければ自治体として成り立たない、奇抜なものが目につく。
苦労苦心の連続になる。
ベッドで、できれば柔らかいベッドで眠る夜は幾つあるだろうか。せめて、国府でのバラック小屋のような自宅よりマシな宿はあるだろうか。
旅の資金、20万ゴルで足りるのだろうか。
考えれば考えるほど、不安や不満は際限なく湧いてくる。
色々なことを考えながら月を眺めているうちに、眠気が俺のすべてを支配していった。




