霧けむる谷底
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地晶歴123年。
大電機車でシルゥと出会う1ヶ月と少し前の話。
傾斜に沿って常葉樹が生い茂る、すり鉢のような形状をした深い谷の底にぼんやりとした暖色の灯りがひしめいている。
154センチ、48キロ。
16歳になった今でも背が伸びず、自他共に小柄と認める俺は、寝ていると間違われがちな細い目で霧にゆらめく谷底の灯りを眺める。
地図に目を落とし、あの灯りがこの旅の最初の目的地であるソロリ県で間違いないことを確認。
俺は苦虫を噛み潰したような顔で、1ヶ月前の誕生日に国府長とした会話を思い起こしていた。
――俺が生まれ育った国府は、上中下の3階層に分かれており、中と下は地下に街が建設されている。
上層は一般市民、中層は有力な商人が多く住み、下層には数%の富裕層や権力者たちが贅を尽くして暮らす、歪んだ構造。
自宅に出入りするノラ猫へ何か食べさせる物はないかな、と上層街を散策していた俺は、普段は足を運ばない中層街への入口付近でふと足を止めた。
民家と廃業した商店の合間、いわゆる路地裏から3匹の猫が泡をくった様子で飛び出してきたことに気づき、好奇心で覗いた先。
嫌がる幼女を性の対象にしていた副府長の折っても死ななそうな骨を7本ほど折り、半殺しにした罪で刑監所に終身投獄されていた俺の元へ、顔だけは知っている男が面会に来ていた。
国府長テイワズが、早口で用件をまくし立ててくる。
「初めまして。ユルくんですよね? 副府長をあんな感じにした件を帳消しにしたいでしょ?」
「……お兄さん、いきなり来て、いきなりですね。それで、要件はなんでしょうか」
「うんうん、そうだよね、帳消しにしたいよねっ。なら、この蛍石を首にぶら下げたまま、地図で印をつけられている県を、10ヶ月以内に全て回ってください」
テイワズの説明はこうだった。
全ての県を巡り、10ヶ月以内に国府へ戻ってくること。訪問先では可能な限り多くの人と顔を合わせること。何より重要なのは、首にかけた蛍石を服の外に出しておくこと。
国府長が俺の目の前にぶらさげたのは、鮮やかな群青色の正八面体。大人のこぶしほどの大きさがあるこの鉱石に、俺には解読不能な金文字が刻まれた銀色の細い鎖が連なっている。
見るからに怪しい。
間違いなく聞いた以上の目的が潜んでいる。俺は眉をひそめた。
「あ、それと、ボク的に心配だったんですが、ユルくんは自由県立制度をご存じですか?」
俺はすでにこの場を離れたいと思い始めていた。できることなら、だけど。
「……お兄さんは、いきなり来て、初対面の人に命令から入るんですか?」
「えぇ? まさか、ボクの自己紹介が必要なのですか? えええボクをご存じないのでしょうか?」
(君の幼少期は非常に厳しいものだったろうが、人の印象は出会って数秒で決まる。常に清潔な身なりでいて、言葉遣いも丁寧にしなさい)
14歳から1年だけ通った上層のボロ学舎で、嫌になるほど聞かされた教師の言葉だが、丁寧さに図々しさが混ざると、相手を余計に苛立たせる場合もあるらしい。
頬の肉を引きつらせながら、俺の心の中には強い苛立ちが募っていた。
「どっちも知ってますよ。俺が1年しか学舎に通ってないことを把握しているんだと思いますが。50年前に制定されたものですよね。100人以上の県民を揃えること、あとはゴルを通貨として使えば、国府の許可がなくても県を設立できる制度のはずです」
俺の答えを聞き、国府長の枯草色の瞳がパッと輝く。反して不機嫌になった俺は、指で壁を小刻みに叩きながら、高揚しながらまくし立てるテイワズの説明を聞いていた。
蛍石には、鏡面に写した物の情報を蓄える能力がある。物質だけではなく、生物もその対象。特殊な方法により、その情報を後で確認できるらしい。
確認できた情報量の多さや密度をもとに、俺が命令どおりに10ヶ月の旅をしていたのかを確認し、再投獄の有無を判断するとのこと。
旅の途中で逃げれば、地の果てまで追いかける。という脅しもあった。
「……あの、頭が追いつかないのですが。県を回るって、何のためにそんなことをするんですか?」
「んん? あ、そうですね。ボクは自由県立制度を継続すべきどうか迷っているので、判断材料にしたいのです。ユルくんがボクの命令を遂行することは、世界をよりよい形に直すきっかけになるかもしれない、重要なものなんですよ?」
国府長はひと息ついて俺の反応を見ているが、終身投獄刑を受けた俺は眉ひとつ動かさずに腕組みをし、強く葛藤していた。
極めて怪しい。
かと言って、断れば、もうここから出られることはないだろう。
「そ、それに、指定した県の中には、大船団や学舎自体が県になっているものもあるんですよ、面白いでしょう? もちろん受けますよね?」
自分とそう変わらない年齢に見えるうえに、どことなく口調も似ているような気もするが、目の前の早口な男は仲良くなれるタイプじゃない。
むしろ生理的に嫌いだ。
この数分で俺はそう確信していたが、早く死ねとばかりに腐りかけの臭い食事を出す、劣悪な環境の刑鑑所から外に出るチャンスを逃すわけにはいかなかった。
――それから1ヶ月後、念じることで生物や物質の性質を強化できる強念士である俺は、旅の目的も腑に落ちないまま、蛍石を首にぶら下げて国府を旅立った。
最初に目指す県であるソロリは、深い谷底に位置している。
県の入口までの極端な急傾斜を道として使う場合、滑落防止のため何かに掴まりながら下ることが必須だった。
だが、土壌に栄養がないのか、斜面に茂る常葉樹の幹や枝はどれも細く頼りない。
鍛え上げられた筋肉を纏ってはいるものの、全体的には細身で小柄な俺の体重でさえ支えられないように思えた。
本来、目的地への正式なルートは県の西側から延々と伸びる緩やかな丘陵を下るものであり、命の危険を冒してこの急斜面を突破するようなものではない。
俺はそれを承知のうえでなお、斜面を下るべく、冷えた紺藍色の瞳で谷底を見下ろしている。
理由は2つあった。
1つは、正式なルートに行くまでの距離を歩くのが猛烈に面倒くさいと思うから。要するに、俺は遠回りが嫌いなのだ。
そしてもう1つは、特に危険だと感じないからだ。




