災厄の過去
地上を照らす陽光。
多くの人々はこの輝きに希望を見いだし、今日という新しい1日をどう過ごすかに思いを馳せるのだろう。
だけど、当時11歳の俺――ユルにとっては違っていた。この光はただ、悪夢の始まりを告げる合図でしかなかった。
「起きなさい、ユル。食事は用意してあるから、さっさと済ませてイベリコ山に来て。今から20分以内に。今のあんたの付与ならそれくらいでしょ。私は先に行ってるわね」
意識がまどろみの底へ逃げ込もうとするのを、冷酷な声が引き戻す。俺は猫のように細い目を開け、部屋を出ていく母さんの薄い背中を、呪いを込めて睨みつけた。
細身で、一見すればどこにでもいる普通の母親。けれど、そのエプロンとチュニックの下には、鋼のように引き締まった筋肉と無数の異様な傷痕が隠されている。
傷の大部分の詳細を俺は知らない。けれど、ごく新しい数本の理由だけは嫌というほど知っていた。
俺が、負わせた傷だからだ。
「うっ……」
「イベリコ山」という響きを聞くだけで、胃の奥から酸っぱい吐き気がこみ上げてくる。
母さんの望む、トップクラスの「強念士」になるため、俺は3年もの間、狂気の鍛錬を毎日叩き込まれてきた。
心も体も、もう限界だった。
軋む関節の激痛に歯を食いしばり、俺は床板と変わらないほど硬く使い古されたベッドから立ち上がる。
ご機嫌なときの猫みたいな細い目。紺藍色の瞳と同じ色をした、やたらとボリュームのあるくせっ毛を、手櫛で少し整えた。
小柄な俺が歩くだけで、朽ちかけた自宅の床板は悲鳴のような音を立てて大きく軋んでいる。
半開きのまま固まった木製の扉の隙間をすり抜け、俺はバラック小屋のような我が家のダイニングへ向かう。
薄暗い廊下の壁に空いた穴から、雪のように白い猫がひょっこりと顔を出していた。
「……おはよ。ノラ猫。少しは寒さをしのげました?」
俺が掠れた声で話しかけると、白猫は「ニャ」と短く鳴き、逃げるように軒下へ滑り込んで消えた。
ノラ猫を見るのは初めてじゃない。白もいれば、茶色も黒もいる。
隙間だらけで風が遊ぶ俺の家は、暑さや寒さを凌ぐための猫たちの格好の隠れ家になっていた。
ダイニングへ入ると、気弱な父親が青白い顔で静かに朝食を口に運んでいた。
俺が目の前を横切っても、父さんは全く反応を示さない。まるで俺の姿が見えていないみたいに。
俺も同じだった。父さんなんてハナから存在しないかのように、壊れかけたイスへそっと腰を下ろす。
分針が狂い切った壁時計を一瞥し、俺は慌ててパンを口に押し込んだ。水ともぬるま湯ともつかない、味の薄いスープで流し込み、蒸かした芋にかじりつく。
最後に錆びた金属コップの水を一気に喉へ流し込み、勢いよく立ち上がる。
父親の顔を見ることもなく、そのままトイレを済ませると、俺は逃げるように家を飛び出した。
母さんが待つイベリコ山までは、大人の足で走っても40分はかかる。
どんなに身支度を急ごうが、自分の足だけで20分以内に着くはずがない。だけど、俺には言い渡された無茶な時間を守る「手段」があった。
(脚力、腕力、付与)
頭の中で自分の脚と腕の力を表す名詞と数字を強く念じる。直後、俺の体を琥珀色の光が包み込み、1秒ほどで霧散した。
筋繊維の奥底から、沸き立つような力が溢れ出す感覚。それに反して陰鬱な気分のまま、俺は自宅の外壁に立てかけてあった大剣を手にとった。
小柄な俺の背丈にはまるで合わない代物だ。それを母さんがこしらえたベルト鞘に収める。
深い溜め息を吐き、身体に走る痛みを堪えながら屈伸運動を一度。蹴飛ばされた軽石のような速度で踏み出した。
何年も前に開かなくなった窓の奥で、重病人のような暗い影を纏った父さんの瞳が、走り去る俺の背中を追っているような気がしたが、確かめる気にもならなかった。
俺は、街に出るのが心底嫌いだった。
特に今みたいに、脚力を「付与」して爆走している時はどうしたって人の目が集まる。
「 強念士の子だ……」
国府の人間たちが俺を指さし、口々に感嘆の声をあげる。
けれど、そんなものは俺にとって迷惑でしかなかった。いくら注目を浴びたところで、この貧しくて惨めな暮らしが少しでも良くなるわけじゃないのに。
10分足らずでイベリコ山に到着し、鍛錬場へ続く長い急斜面を登りながら、俺はふと後ろを振り返った。
視線の先には、円形に広がる国府と、俺たち貧民がひしめくバラック街。そして、それらを狂気のように包み込む、天を突くほど高い漆黒の防護壁があった。
あの忌々しい壁があるせいで、俺はあの母さんから逃げることすらできない。
100メートル以上もある壁を登る手段なんてないし、仮にあったとしても、すぐに見つかり処刑されるのがオチだ。
俺は壁を嫌悪に満ちた目で見つめ返してから、吐き気を押し殺して斜面を駆け上がった。
斜面を登り切った先は崖になっていた。崖を越えた場所には、荒々しく木々がなぎ倒された空地が広がっている。
その中央にある太い切り株に、母さんが腰かけていた。俺とそっくりな細い目をさらに細め、母さんが静かに微笑む。
「16分で来れたのね。速くなってきてるじゃない」
刈り上げた紺藍色の髪を手櫛で整えながら、母さんが勢いよく立ち上がった。
「さ、始めましょう。あなたには国府で一番の強念士になって、リランの仇を討ってもらうわ。1秒だって無駄にできないんだから――」
土で汚れたブラウスに着替えた母さんの体を、まばゆい琥珀の閃光が包み込む。
国府で最大の武力を持つ三代士の1人である、トゥールの強念で殺された兄さんの名を出され、俺は唇を強く噛み締め、ただ俯いていた。
「……何をしてるの? いつもどおり、防御の訓練からよ。防御系の強念を付与しなさい」
顔が強ばり、唇から血が滲むほど強く噛み締める。それでも、俺は動こうとしなかった。構える気配を見せない俺を、母さんの目が冷たく射抜く。
「そう? 怪我したいならそれでもいいのよ。死なない程度に痛めつけるだけだし、ふふふ」
嘲笑うような母さんの言葉は、決して脅しなんかじゃない。俺はそれを、痛いほど理解していた。
なら、死なない程度じゃなくていい。いっそ、このまま殺してくれた方が、どれだけ楽になれるだろう。
もうやめよう。
こんなの、もうやめてくれ――。
迫り来る怪物のような母さんを前に、その一言すら声にできず、俺は消え入りそうな顔で、念じる。
(……靭性、剛性、反応、付与)
刹那に弾けた俺の琥珀色の輝きを切り裂いて、ケタケタと笑う母さんの影が、目の前まで迫る。
――俺の意識は、強烈な蹴りの衝撃と共に吹き飛ばされていった。




