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第9話 ダブルのスーツとポケベルの男

 一九八八年の秋。

 世間は底なしの好景気に沸き返っていた。

 デパートの下の階層、とりわけ一階の化粧品売り場や、三階のDCブランドのフロアは、連日連夜、札束が乱れ飛ぶような熱気に包まれている。


 テレビをつければトレンディドラマのヒロインがワンレン・ボディコン姿で肩で風を切って歩き、深夜の六本木では一万円札を振ってもタクシーが捕まらない。

 雑誌を開けば「エリートサラリーマンの条件」といった見出しが躍り、誰もが少しでも上へ、少しでも華やかな場所へと駆け上がろうと必死になっていた。

 それが、この国の「現実」だった。


 しかし、エレベーターが最上階の「R」にたどり着くと、その狂乱の熱気は嘘のように引いていく。

 吹きさらしの屋上遊園地には、下界の喧騒から取り残された、のんびりとした昭和の時間がそのまま保存されていた。

 色褪せたパラソル付きのベンチ。

 ジュースの自動販売機の横に置かれた、ダイヤル式のピンク色の公衆電話。

 スピーカーからは、少し音割れした古いアイドル歌謡曲のインストゥルメンタルが、途切れ途切れに流れている。


 健一はいつものように色褪せた青い作業着に身を包み、稼働前の屋上遊園地で落ち葉を掃いていた。

 竹箒がコンクリートを擦る『サッ、サッ』という乾いた音が、静かな屋上に響く。

 遠くの空には、飛行機雲が一筋、ゆっくりと伸びていた。

 就職浪人という名のモラトリアム。

 世間が猛スピードで前へ進んでいるのに、自分だけが時速四キロのパンダカーのように、ゆっくりと、そして左に少しずつ逸れながら生きている。

 そんな焦燥感は常に心の底にあるものの、この屋上のぬるま湯のような空気は、不器用な健一にとってひどく居心地が良かった。


 その平穏は唐突に破られた。

 秋晴れの抜けるような青空の下、屋上の古いコンクリート床に、場違いな靴音が響き渡った。 コツ、コツ、と硬く冷たい革靴の音。

 それは、のんびりとした時間が流れるこの場所に「下界の現実」を容赦なく突きつけるような響きだった。

 階段から現れたのは、仕立ての良い紺色のダブルのスーツを隙なく着こなした男だった。

 年齢は三十代前半。

 肩パッドがしっかりと入ったそのシルエットは、いかにも最前線で戦うビジネスマンの鎧だ。

 髪はムースで乱れなく撫でつけられ、手には分厚い書類が詰まった高級な革のアタッシュケースを提げている。

 そして腰のベルトには、エリート社員の証とも言える最新ツール、黒いポケットベルが誇らしげに光っていた。

 本社開発部から視察に訪れた、若手のエース社員、黒木隆だった。


「・・ひどい有様だな。完全に昭和の遺物だ」

 黒木は、色褪せたメリーゴーランドや、塗装が剥げて薄汚れたパンダカーを冷ややかな目で見回し、大きなため息をついた。

「売上データを見た時からある程度は予想していたが、まさかこれほど酷いとは。坪単価の利益率を考えれば、一日でも早く更地にして、最新のビアガーデンに改装するべき空間だ。こんな非効率な真似をいつまでも続けているから、我が社の株価は同業他社に出遅れるんだ」


 黒木はアタッシュケースからバインダーを取り出し、何やら数字を書き込み始めた。

 独り言のように数字と効率を並べ立てるその言葉に、パンダカーのモーターに油を差していた辰じいがピクリと眉を動かした。

「おい、そこの背広の兄ちゃん。聞こえねえとでも思ってんのか」

 辰じいは油まみれのウエスでごつごつとした手を拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。

 その鋭い眼光に、横で箒を握っていた健一は慌てて二人の間に割って入った。

「た、辰じい! やめてよ、本社から来た人ですよ!」

「本社だろうが何だろうが関係ねえ。おい、背広。こいつらは遺物なんかじゃねえ。ちゃんと手入れすりゃ、まだまだ現役で子どもたちを乗せられるんだ。数字ばっかり見てっから、機械の『声』が聞こえなくなるんだよ」

「現役?」

 黒木はバインダーを閉じ、鼻で笑った。

「時代錯誤も甚だしいですね。今の時代、子どもたちだってこんな古臭い乗り物で喜ぶわけがない。家に帰れば最新のテレビゲームがあり、休日になれば浦安の巨大なテーマパークへ行く時代です。あなた方がやっているのは、単なるノスタルジーの延命措置に過ぎない。企業にとって、利益を生まない空間は罪なんですよ」

「なんだと・・! 機械に込められた心意気がわからねえ薄っぺらい男が、偉そうな口を叩くんじゃねえ!」

「辰じい、お願いだからやめてくださいってば!」


 健一が必死に辰じいの肩を掴んでなだめていると、黒木の腰で『ピー、ピー、ピー』と無機質な電子音が鳴り響いた。

 黒木は慣れた手つきで素早くポケベルを外し、液晶画面の数字を確認して苛立たしげに舌打ちをした。

「・・まったく、時間が惜しい。私はこれよりペットコーナーの視察に向かいます。あなた方はせいぜい、その『現役のガラクタ』の世話をしていてください。もっとも、それもあと数ヶ月の命ですがね」

 黒木は冷たく言い放つと、振り返りもせずに小鳥コーナーへと向かっていった。

 残された健一は、黒木の堂々とした背中を見つめながら、自分の着ている色褪せた作業着の油汚れを、無意識に手で隠そうとしていた。


 仕立ての良いダブルのスーツ、袖口から覗く海外製の高級な腕時計、そして引っ切り無しに鳴るポケベル。

 黒木は、健一が就職活動でことごとくお祈り手紙をもらい、どうしても手が届かなかった「バブルの勝者」そのものだった。

 面接会場で、健一のような冴えない学生を『君は我が社の求めるスピード感に欠けるね』と鼻で笑い落としていった面接官たちの顔が、黒木の冷たい横顔と重なる。

 同じ男なのに、彼と自分とでは住む世界が違いすぎる。

 足元のすり減った安物のスニーカーを見つめながら、強烈な劣等感が健一の胸をギリギリと締め付けた。


 小鳥コーナーでは、奈緒が水槽のガラスを丁寧に拭いていた。

 彼女の後ろには、積み上げられた鳥かごの中から十姉妹や文鳥の可愛らしい鳴き声が響いている。

「君がここの責任者かな?」

 黒木がスマートに声をかけると、奈緒は振り返り、少し驚いたように会釈した。

「いえ、私は契約店員です。責任者の店長は、今日は仕入れで不在にしておりまして・・」 「そうか。まあいい。しかし、君のような可憐なお嬢さんが、こんな寂れた屋上で埃まみれになって鳥の世話とはね。もったいない」

 黒木は胸ポケットから銀色の名刺入れを取り出し、流れるような手つきで一枚の名刺を奈緒に差し出した。

 そこには金色の箔押しで本社のロゴが輝いている。

「本社開発部の黒木です。もし、下の階の華やかな売り場や、もっと条件の良いポジションに興味があるなら、連絡をください。私の権限で、いくらでも手配しますよ。君なら、一階のインフォメーションの受付嬢でも十分に通用する」

「え・・」

 唐突な申し出に戸惑う奈緒に対し、黒木は余裕のある大人の笑みを浮かべた。


 遠くの機材の陰からその光景を盗み見ていた健一は、足がすくんで一歩も動けなかった。

 黒木の洗練された振る舞い。女性を前にしても全く物怖じしない大人としての余裕。

 自分には何一つないものばかりだった。

 奈緒がためらいながらも、礼儀としてその名刺を受け取るのを見て、健一は惨めさで一杯になり、逃げるように倉庫の陰へと隠れた。

 自分は、奈緒に缶コーヒー一つ渡すのにもあんなに勇気がいるというのに。


 名刺を渡し終えた黒木は、ペットコーナーの隣にある、古い倉庫の壁際へと視線を移していた。

 そこには、今はもう故障して動かなくなった「空飛ぶペンギン号」が、青いビニールシートを半分被せられた状態でひっそりと置かれていた。

 機体の塗装は剥げ落ち、愛嬌のあるペンギンの顔にも無数のひび割れが走っている。

 黒木は、その丸みを帯びたペンギンのフォルムを見た瞬間、革靴の歩みをピタリと止めた。

(なんだ?)

 彼の脳裏に、すっかり忘れていたはずの記憶がフラッシュバックした。

 それは、今から二十年以上も前のこと。

 まだ背が低く、世界がもっと大きく見えていた幼い日の記憶。

 見上げるほど背の高かった父親と手を繋ぎ、この屋上を訪れた日の記憶。


 休日のデパートに行くことは、当時の家族にとって特別な『ハレの日』の行事だった。

 一番良いよそ行きの服を着て、食堂で日の丸の小旗が立ったお子様ランチを食べた後、ウキウキしながら屋上へ上がる。

 父親の大きな手は温かく、少し汗ばんでいた。

『隆、どれに乗りたい?』

 父親が優しく笑いかけ、幼い黒木は小さな指で、当時最新鋭の遊具だった「空飛ぶペンギン号」を指差した。

 硬貨の投入口に、銀色の百円玉がチャリンと落ちる音。

 カチャ、と内部の歯車が噛み合い、ウィーンという少し重たげなモーターの唸り声が響く。

 ペンギン号がゆっくりと動き出し、支柱を中心に回りながら、フワリと宙に浮き上がる。

 あの時の不思議な浮遊感。

 頬に当たる風の心地よさ。

 隣で見守る父親の笑顔と、どこからか漂ってくる甘い綿菓子と、少し焦げたソースの匂い。

 すべてが古い写真のようにセピア色に霞む中、『ワクワクした感情』だけが、胸の奥から生々しく蘇ってきた。


 そういえば、あの時、ペンギン号の動きが悪くなり、途中でギギギと嫌な音を立てて止まってしまったことがあった。

 泣きそうになる幼い黒木の前に、油まみれの作業着を着た若い整備工が走ってきた。

 彼は無骨な手で素早くスパナを回し、魔法のようにペンギン号を直してくれた。

『坊主、安心しろ。こいつは機械だ。俺がちゃんと油を差してやれば、絶対に裏切らねえからな』

 ニカッと笑ったあの若い整備工の顔が、先ほどの、頑固な老人の顔とピタリと重なった。

 まさか、さっきの無礼な老人が・・?


(・・馬鹿げている)

 黒木は微かに首を振り、湧き上がる記憶を強引に振り払った。

(感傷は一円の利益にもならない。あの頃と今は違う。スピードと数字がすべて。こんな場所は、私の手で早く終わらせて、新しい時代に相応しい利益を生む施設に変えなければならない。私は、昔の私ではないのだ)

 自分に言い聞かせるように、黒木はダブルのスーツの襟をグッと正し、アタッシュケースの持ち手を強く握り直した。


「どうかされましたか?」

 ペンギン号をじっと見つめて立ち尽くしている黒木に、奈緒が不思議そうに尋ねた。

 黒木はハッとして、すぐに冷徹なビジネスマンの顔になった。

「いや。なんでもありません。ただ・・早く解体工事を始めたいと思っただけです」


 黒木はそれだけ言い残し、足早に屋上を去っていった。

 コツ、コツ、という冷たい革靴の音が、階段の方へ遠ざかっていく。

 残された屋上には、いつものようにのんびりとした秋風が吹き抜け、錆びた風見鶏がキーッと小さな音を立てて回っていた。

 健一は、黒木が去った後の誰もいない空間を見つめながら、深く息を吐いた。

「終わりの足音」が、健一たちの日常に迫りつつあることを、誰もがはっきりと感じ取っていた。

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