第8話 屋上迷子大作戦と左曲がりの救世主
週末のデパートは、七階の催事場で開かれている「秋の特大バーゲンセール」の熱気で、建物全体が微かに揺れているように感じられた。
しかし、階段を一つ上った八階の屋上遊園地は、その熱狂から切り離されたようにのんびりとした空気が流れている。
買い物に夢中な大人たちから解放された子どもたちが、わずかな小遣いを握りしめてメダルゲームに興じたり、百円玉を入れて動く乗り物に跨ったりしていた。
「あーあ、またバーゲンかよ。母ちゃん、絶対夕方まで迎えに来ないぜ」
不満げに口を尖らせながら、屋上のベンチで足をぶらぶらさせているのは、常連の悪ガキ、マモル君だった。
小学一年生になったばかりの彼は、週末になると、母親に「屋上で遊んでいなさい」と百円玉を数枚渡されて放置される。
好景気で買い物に夢中な大人たちにとって、屋上は便利な託児所代わりでもあった。
「仕方ないだろ。マモル、パンダ乗るか? お兄さんが一回オマケしてやるよ」
健一は、首に巻いたタオルで汗を拭いながら声をかけた。
普段は夜間の清掃と整備がメインの健一だが、人手不足の週末はこうして昼間の稼働時間から手伝いに駆り出される。
「パンダはもう飽きた! あいつ、いっつも左に曲がるからつまんないんだもん。俺、もっと速いのがいい」
「贅沢言うな。あいつはご長寿なんだから、真っ直ぐ走れないくらいで文句言うなよ」
健一は苦笑しながら、色褪せたパンダカーの背中をポンと叩いた。
「マモル君、こんにちは。お母さん、まだお買い物?」
小鳥コーナーからひまわりの種が入ったバケツを提げて出てきた奈緒が、しゃがみ込んでマモルに微笑みかけた。
奈緒の柔らかい声を聞くと、生意気なマモルも急におとなしくなる。
「うん・・。奈緒ちゃん、俺、退屈」
「そっか。じゃあ、あとで十姉妹の水浴び、手伝ってくれる? マモル君、すっごく上手だから」 「本当!? やるやる!」
目を輝かせて小鳥コーナーへ走っていくマモルの背中を見送りながら、健一は息を吐いた。
「奈緒ちゃんすごいな。あんな悪ガキの扱い方分かってる」
「マモル君、少し寂しいだけだもの。置いてけぼりにされてるみたいで、不安なんだと思う」
奈緒の言葉に、健一はハッとした。
置いてけぼり。
それは、就職浪人をして屋上に流れ着いた健一自身が、熱狂に沸く世間に抱いている焦燥感そのものだった。
だからこそ、健一もマモルのことをどこか放っておけないのだ。
事件が起きたのは、それから一時間ほど後のことだった。
西日が傾き始め、屋上に長い影が伸び始めた頃、小鳥コーナーの裏手から、甲高い泣き声が響き渡った。
「マモル君の声だ!」
奈緒がいち早く反応し、健一も慌てて駆けつけた。
声がしたのは、一般客立ち入り禁止の立て札がある、巨大な空調室外機と古い倉庫の隙間だった。
そこには、撤去されて行き場を失った古いゲーム機材や、壊れた乗り物のパーツが山積みにされており、まるで鉄屑の迷路のようになっている。
「うわぁぁん! 助けてぇ!」
「マモル! どこだ、マモル!」
健一が機材の隙間を覗き込むと、奥の薄暗い行き止まりで、マモルが涙と埃で顔を真っ黒にして泣いていた。
「健一お兄ちゃん! スーパーボールが転がっていっちゃって・・取ろうとしたら、出られなくなっちゃった・・!」
「バカ、なんでこんな危ないところに! 今出してやるから、ちょっと待ってろ!」
健一は隙間に入り込もうとしたが、大人の肩幅では、入り組んだ鉄屑と室外機の間の、L字型に曲がった細い通路を通り抜けることができない。
無理に進もうとすれば、積み上げられた不安定な機材が崩れ落ちてくる危険があった。
「健一くん、ダメ。これ以上進んだら機材が崩れるわ」
背後から奈緒が青ざめた顔で止めた。
「でも、このままだと・・。消防呼ぶか?」
「大騒ぎになったら、マモル君のお母さんも責任問われるし、何よりこの屋上遊園地自体が『安全管理の不備』で即刻閉鎖にされちゃうかも・・」
ビアガーデンへの改装計画が持ち上がっている今、こんな事故を起こせば、会社側にとって屋上を潰す格好の口実になってしまう。
「ひぐっ・・お兄ちゃん、怖いよぉ・・」
マモルの怯えた泣き声が、隙間の奥から響く。
健一は焦りで手のひらにじっとりと汗をかいていた。
どうすればいい。
機材を退かすには重すぎる。
大人には狭すぎる。
細い紐を投げても、パニックになった子どもがしっかり掴めるとは限らない。
その時、健一の視界の端に、のんびりと佇むパンダカーの姿が入った。
(・・左に曲がる)
健一は、マモルが閉じ込められているL字型の通路のカーブを見つめた。
入り口から真っ直ぐ進み、途中で左に曲がった奥にマモルがいる。
「奈緒ちゃん! 倉庫から、一番太いロープとガムテープを持ってきて! 急いで!」
「えっ? う、うん!」
健一の声に、奈緒は躊躇うことなく走り出した。
健一はパンダカーを押し、立ち入り禁止エリアの入り口にセットした。
息を切らせて戻ってきた奈緒からロープを受け取ると、パンダカーの後部バンパーにガッチリと結びつけ、何重にもガムテープで固定する。
「健一くん、まさか」
「マモル! 聞こえるか!」
健一は隙間の奥に向かって叫んだ。
「今から、お前の嫌いなパンダをそっちに向かわせる! パンダが着いたら、しっかり背中にしがみつくんだ! いいな!」
「う、うん!」
健一は、パンダカーの投入口に百円玉を構えた。
特技の指弾き。
どんなに緊張していても、これだけは外さない自信がある。
「頼むぞ、お前の『個性』を見せてやれ」
チャリン。
百円玉が投入口に吸い込まれると同時に、ウィーンというモーター音が鳴り響き、パンダカーがゆっくりと前進を始めた。
時速四キロの、もどかしいほどの鈍足。
健一はロープの端を握りしめながら、パンダカーの軌道を見守った。
パンダカーは機材の隙間を真っ直ぐに進み、そして、いつものように、じわじわと左へ左へと進路を変え始めた。
「よし、曲がれ、そのまま曲がれ!」
いつも「壊れてる」とクレームが入るパンダカー。
真っ直ぐ進めない致命的な欠点。
しかし、「左に曲がる癖」が、L字型の狭い通路のカーブに完璧に合致していた。
パンダの丸い鼻先が壁にぶつかることなく左折した。
「わあっ、パンダだ!」
奥から、マモルの弾んだ声が聞こえた。
「マモル、乗ったか! しっかりしがみつけよ!」
「乗った! ぎゅってしてる!」
健一は、手に巻き付けたロープに体重をかけた。
「よーし、引くぞ!」
ズズズッ、とパンダカーのタイヤが床を擦る音が響く。
モーターが空回りする音と共に、パンダカーが後ろ向きに引っ張られてくる。
健一の腕の筋肉が張り詰め、額から汗が滴り落ちた。
「健一くん、頑張って!」
奈緒が健一の背中に手を添え、一緒にロープを引く。
その手の温もりが、健一に最後の力を与えた。
「うぉぉぉぉっ!!」
力一杯引き抜いた瞬間、薄暗い隙間から、パンダカーの背中にしがみついたマモルが飛び出してきた。
「マモル!」
「お兄ちゃん! 奈緒ちゃん!」
健一はロープを手放し、マモルを抱きしめた。
埃まみれの小さな身体は小刻みに震えていたが、怪我はない。
「バカ野郎、心配かけやがって! 無事でよかった!」
健一の足元で、パンダカーのモーターが、ふっと音を立てて止まった。
百円分の稼働時間が終わった。
健一は、パンダカーの丸い頭を愛おしむように撫でた。
真っ直ぐ進めない。
左に逸れてしまう。
それは社会に出遅れ、周りの同級生たちと同じレールを真っ直ぐ歩けなかった自分と同じだと思っていた。
欠陥品だと、どこか見下していた。
けれど、その「欠点」だからこそ、救えたものがあった。
真っ直ぐ進めないからこそ、曲がりくねった隙間の奥に届くことができた。
(・・役に立たないものなんて、ないのかもしれないな)
健一は、自分自身に言い聞かせるように、パンダの耳を優しく撫でた。
「すいません! うちの子、ご迷惑おかけしませんでしたか!?」
バーゲンの大きな紙袋をいくつも提げた母親が、息を切らせて駆けつけてきた。
事情を知らない母親は、埃まみれのマモルを見て顔をしかめている。
「ほら、汚い手で服を触らないの。お兄さんとお姉さんにありがとうは?」
「お兄ちゃん、奈緒ちゃん、ありがとう。パンダさんも」
マモルが照れくさそうに頭を下げると、母親はそそくさと彼の手を引いてエレベーターへ向かっていった。
嵐が去った後のような、静かな屋上だった。
西日はすっかり沈みかけ、空は紫とオレンジが混ざり合った美しいグラデーションを描いていた。
奈緒は、救急箱を片付けながら、パンダカーの横に座り込んでいる健一に近づいた。
「お疲れ様、健一くん。腕、痛くない?」
「全然。それより、あのパンダが役に立つ日が来るとは思わなかったよ。辰じいに言ったら、得意げに自慢されそうだな」
健一が笑うと、奈緒もふふっと笑った。
「健一くんって、すごいね」
奈緒は、空を仰ぎ見るようにして言った。
「あんなパニックの中で、パンダカーの癖を活かすなんて。健一くんが、いつも遊具たちのことをちゃんと見て、愛情を持ってお手入れしてくれているからだよ」
「そんな大げさなもんじゃないって。ただの偶然だよ」
「ううん。偶然じゃないよ」
奈緒は健一の隣にしゃがみ込み、その顔を真っ直ぐに見つめた。
「欠点だと思っていたことでも、見方変えれば、誰かを助ける個性になる。健一くんがそれを教えてくれたわ」
奈緒の透き通るような瞳に見つめられ、健一の心臓がトクトクと打ち始めた。
数日前の真理とのお弁当の一件、あのカセットテープの諍い以来、二人の間にはどこか気まずい、言葉にできない緊張感が漂っていた。
しかし今、その見えない壁が、少しだけ溶けていくのを感じた。
「俺も、真っ直ぐ進めないからさ。就職も失敗して、こんな屋上で油まみれになって」
健一は、膝を抱えながらポツリとこぼした。
「でも、今日だけは、ここでこのパンダを磨いてて良かったって、本気で思ったよ」
奈緒は優しく微笑み、健一の手の甲に、自分の小さな手をそっと重ねた。
「健一くんがここにいてくれて、本当に良かった」
重なった手から、奈緒の体温が伝わってくる。
健一は息を飲み、奈緒の顔を見た。
夕闇が迫る中、奈緒の笑顔は優しく輝いていた。
どちらからともなく微笑み合った。
バブルの喧騒が下界で響く中、吹きさらしの屋上は二人だけの優しい時間に包まれていた。




