第7話 カセットテープのA面とB面
日曜日。
抜けるような青空とは裏腹に、真理の心は朝からひどく重かった。
クローゼットを開け、ずらりと並んだ色鮮やかなボディコンスーツやDCブランドのワンピースを眺める。
どれも、銀行の総合職の男たちや、合コンで出会うエリート商社マンたちから「いい女」として扱われるための武装だ。
しかし今日は、どれもしっくりこない。
結局、真理が選んだのは、少しゆったりとした生成りのブラウスと、動きやすいコットンのパンツだった。
髪もきつく巻かず、緩いポニーテールにまとめる。
化粧も控えめにした。
これから向かうのは、六本木のカフェでも青山のブティックでもない。
幼馴染である健一の、六畳一間のアパート。
「なんで私、休みの日にあんなヤツの世話焼きに行かなきゃいけないのよ・・」
鏡に向かって悪態をつきながらも、真理の口元は少しだけ緩んでいた。
健一のアパートは、相変わらず万年床と脱ぎ散らかされた服で足の踏み場もなかった。
真理は、ため息をつきながら窓を開け放ち、床に散らばった漫画雑誌や空き缶をテキパキと片付け始めた。
休日にわざわざ幼馴染の部屋へ来て掃除洗濯をしてやるなど、職場の同僚たちに知れたら呆れられるだろう。
「真理ちゃんは週末、また外資系の彼氏とドライブ?」などという彼女たちの勝手なイメージを、真理自身もあえて壊さないようにしているのだから。
しかし、真理の心の中には小さな、けれど確かな優越感があった。
この雑然とした、男の匂いが染み付いたプライベートな空間に上がり込み、文句を言いながらも世話を焼けるのは自分だけだという「幼馴染の特権」。
それは、外の世界で背伸びをして、傷つかないように鎧を着込んで戦っている真理にとって、唯一深呼吸ができる時間でもあった。
健一は「コンビニで昼飯買って来る」と言って出かけたまま、もう三十分は帰ってきていない。
真理は机の上を拭きながら、ふと、ラジカセの横に無造作に置かれた一本のカセットテープに目を留めた。
市販のミュージックテープではない、安っぽい透明なケース。
真っ白なインデックスカードには、丸みを帯びた丁寧な、いかにも女の子らしい字で曲目が書かれている。
『木綿のハンカチーフ』『赤いスイートピー』『秋桜』『異邦人』・・。
どれも数年前の、少し古臭い昭和歌謡ばかり。
そして、そのインデックスの隅には、小さな鳥のイラストと共に「健一くんへ 奈緒より」と書かれていた。
その瞬間、真理の胸の奥で、チリッと焦げるような、ひどく冷たい音がした。
(奈緒・・。あの女・・)
先日、見栄を張って手作り弁当を押し付けに行った時の、奈緒のあの余裕のある微笑みが脳裏にフラッシュバックする。
自分がどんなにブランド服で威嚇しても、全く動じず、健一の隣に自然体で立っていたあの女。
健一の部屋に、別の女の気配が持ち込まれている。
しかも、自分が全く知らない、健一と奈緒だけの時間で作られたものだ。
真理は、無意識のうちにそのテープを乱暴に掴み上げた。
チープなプラスチックの感触が、無性に腹立たしかった。
健一は昔から、音楽といえば真理がダビングしてやった最新の洋楽や、流行りのユーロビートばかり聴いていたはずだ。
私が教えた曲しか知らない、純朴な幼馴染だったはずなのに。
(こんな古臭い曲、健ちゃんに似合わないわよ。あの子、健ちゃんのこと何も分かってない)
真理は、自分のバッグからマドンナの最新アルバムが入ったテープを取り出した。
(上書きしてやる。こんな女の気配なんか、私が全部消してやる)
それは、ただの幼馴染としての独占欲だと思っていた。
「世話の焼ける弟分」を、得体の知れない女に騙されて奪われたくないという、姉のような庇護欲なのだと。
真理は自分にそう言い聞かせながら、奈緒のテープをラジカセにガチャリとセットし、録音ボタンと再生ボタンを同時に押し込もうとした。
「 何してんだよ!!」
バンッ、とアパートのドアが勢いよく開き、コンビニの袋を提げた健一が飛び込んできた。 「えっ・・」
健一は、血相を変えて真理に駆け寄り、その手からラジカセを奪い取るようにして停止ボタンを力任せに叩いた。
ガシャン、と荒々しい音が響く。
「お前、勝手に人の物に何してんだよ!」
健一の目は吊り上がり、真理を見知らぬ敵を見るように睨みつけていた。
今まで、どんなに真理が我が儘を言っても、理不尽に怒っても、最後には呆れたように笑って許してくれていた健一が、見たこともないほど本気で怒っている。
「な、によ・・。そんな古臭い曲ばっかり入ったテープ、ダサいじゃない。私が最新の洋楽、ダビングしてあげようと・・」
「余計なお世話だ! これ、奈緒ちゃんに借りた大切なテープなんだよ! 」
「・・っ!」
『大切なテープ』。
その言葉が、真理の胸を深く、鋭く、抉った。
健一が大事そうにテープをラジカセから取り出し、傷がついていないか愛おしむように指で撫でる。
その仕草を見たとき、真理は息が止まるほどの衝撃を受けた。
・・あぁ、私、この人のことが好きなんだ。
それは、あまりにも唐突で、そして残酷な自己認識だった。
ただの幼馴染。
ダメな男を放っておけないだけ。
ずっとそう自分に嘘をつき続けてきた。
銀行で出会うエリートたちとは違う、冴えない就職浪人の健一。
彼と一緒にいると、自分が腰掛けOLである惨めさや、若さと美貌だけで女の価値を値踏みされる怖さを忘れられた。
結局、私はそこに甘えて、ただ彼に縋っていただけなのだ。
でも、違った。
休日のたびに文句を言いながら彼の部屋に来てしまうのも、彼が新しい服を買うと嬉しくなるのも、彼が他の女の子の話をすると胸がざわついて眠れなくなるのも。
全部、彼をひとりの男性として愛していたからだ。
泥臭くて、不器用で、要領悪くて、いつまでも出世なんてしそうにない。
でも、誰よりも真っ直ぐで、弱っている人間を決して見捨てない優しい手を、私だけが握っていたかったのだ。
しかし、自分がその感情に気づいた時、その手はすでに別の女性の温もりを守るために、真理を拒絶していた。
「・・消させない」
健一は、テープを胸に抱き込むようにして、真理から警戒するように距離を置いた。
「これは、奈緒ちゃんが俺のために選んでくれた曲なんだ。絶対に、お前なんかに消させない」 『お前なんか』。
その言葉の刃が、真理の心臓を引き裂いた。
目の前がぐらりと揺れた。
奥歯を強く噛み締めないと、今にも嗚咽が漏れそうだった。
視界がぼやけ、健一の顔が滲んでいく。
(どうして・・。どうして私じゃないの。ずっと傍にいたのに・・)
「・・わかったわよ」
真理は、震える声を必死に押し殺し、精一杯の強がりで冷たく言い放った。
ここで泣いてすがることなど、プライドが高い真理には絶対にできなかった。
「そんな昭和の演歌みたいなテープ、すり切れるまで聴けばいいじゃない! せっかくマドンナ聴かせてあげようと思ったのに、バカみたい!」
自分のバッグを乱暴に掴み、逃げるように玄関へ向かう。
「おい、真理・・お前、泣いて・・」
後ろから健一が戸惑ったような声をかけたが、振り返ることはできなかった。
振り返って、涙でぐしゃぐしゃの顔を見られたら、二度と「幼馴染」という一番近い席にすら座れなくなってしまう。
「もう来ないからね! 一生、一人でパンダカー磨いてなさいよ!」
絞り出すように捨て台詞を吐き捨て、真理はアパートの鉄階段を駆け下りた。
日曜日の昼下がり。
バブルの好景気に沸く街は、デートに向かう恋人たちや家族連れで溢れ、どこもかしこも眩しいほどに輝いていた。
真理は、誰にも顔を見られないように俯きながら、あてもなく歩いた。
カセットテープには、華やかで明るいメインのA面と、少し影のあるB面がある。
真理が健一に見せていたのは、いつも強気で、流行りの服を着て、世話を焼いてみせる「A面」の自分だけだった。
本当は、臆病で、自信がなくて、彼の不器用な優しさにすがりつきたいだけの、泣き虫な「B面」の自分がいるのに。
傷つくのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、ずっとそれを隠してきた。
奈緒は違う。
奈緒は最初から、自分のB面・・孤独や寂しさを、真っ直ぐに健一に見せることができた。
だから健一は、奈緒のテープをあんなにも必死に守った。
あのテープには、奈緒の心が録音されていたから。
「馬鹿ね・・。本当に、私ってバカ・・」
真理は、人気の少ない公園のベンチに崩れ落ちるように座り込んだ。
高く盛った前髪をかきむしり、肩を震わせる。
どんなに高い服を着ても、どんなに化粧で武装しても、健一の心の中にある「奈緒」という存在を上書きすることはできない。
大切なツメを折られたカセットテープのように、真理の想いは、行き場を失ったまま心の中に閉じ込められてしまった。
秋の冷たい風が吹き抜ける木漏れ日の下、真理は両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。
世間がバブルの狂乱に酔いしれる中、彼女の不器用で、けれど誰よりも純粋だった初恋は、誰にも知られることなく、静かに終わりを告げようとしていた。




